水仙の やはらかき芽ぞ 萌え出づる 君を慕ふの むねをさめむと
*前に、あのかのじょを追いかけてくれていた黄水仙はもう去ってしまったようだと書きましたが、あの後に、いつもの場所に芽を出してくれました。まだ去ってはいなかったらしい。眠っているとはいえ、かのじょの魂はまだここにいますから、もうしばらくは咲いてくれるようだ。うれしいことです。
ちなみにこの原稿は2月20日に書いています。随分進んでいるでしょう。日に4日分は書いている。あともう少しで、7月の記事が終わりそうだ。
今、家の庭の隅の、青い甕が伏せてあるそばには、まだ丈低い水仙の葉が麗しく伸びだしてきています。かのじょも言っていたが、どんなふうにしてこんなところに来てくれたものだろう。種が飛んできたのか、それとも土に紛れて根がやってきたものか。それとも、深い土の中で長く眠っていた種が目を覚ましたものか。
菅原道真の飛び梅のように、植物が人を慕って追いかけてくるということは、ないことではないが、植物はどのようにして、そういうことをやってくれるものだろう。そういうことを、庭の木に尋ねてみたが、答えてはくれません。気にするな、という感じで、顔をそびやかしている。
彼らが秘めておきたいと思っていることを、無理に覗こうなどとすることは品のないことですから、やりはしませんが。愛というものは、まるで水に映った雲雀の声のようだ。どんな無理をしてでもやってやりたいと思うとき、不思議な世界を通って、愛がやってくることがある。
あの人を追いかけている水仙がまた柔らかい芽を出しているよ、あなたを慕っているという心を、あの人に納めるために。
美しいですね。詠み人は昨日と同じ人です。柔らかい人だ。男性でも、こういうことができる人はいる。
「むね(胸)」は胸部のことだが、もちろん心を意味することもある。わたしなら、心と書いて「たま」と読ませるかもしれないが、詠み人にはそれはつらかったらしい。もう少し薄い情感で詠みたかったらしいです。そのほうがやさしい。
魂など納められたら、かのじょもつらいでしょうから。たとえ納める気持ちが「魂」に近かろうとも、すこし弱めて「むね」にして、相手の気持ちを軽くしようとするのが、愛する者の気持ちというものです。
またこの人には歌を詠ってもらいたいですね。
次々といろいろな人が来るので、このブログを読んでいる人にも楽しいでしょう。