ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

水仙

2017-07-11 04:22:25 | 短歌





水仙の やはらかき芽ぞ 萌え出づる 君を慕ふの むねをさめむと






*前に、あのかのじょを追いかけてくれていた黄水仙はもう去ってしまったようだと書きましたが、あの後に、いつもの場所に芽を出してくれました。まだ去ってはいなかったらしい。眠っているとはいえ、かのじょの魂はまだここにいますから、もうしばらくは咲いてくれるようだ。うれしいことです。

ちなみにこの原稿は2月20日に書いています。随分進んでいるでしょう。日に4日分は書いている。あともう少しで、7月の記事が終わりそうだ。

今、家の庭の隅の、青い甕が伏せてあるそばには、まだ丈低い水仙の葉が麗しく伸びだしてきています。かのじょも言っていたが、どんなふうにしてこんなところに来てくれたものだろう。種が飛んできたのか、それとも土に紛れて根がやってきたものか。それとも、深い土の中で長く眠っていた種が目を覚ましたものか。

菅原道真の飛び梅のように、植物が人を慕って追いかけてくるということは、ないことではないが、植物はどのようにして、そういうことをやってくれるものだろう。そういうことを、庭の木に尋ねてみたが、答えてはくれません。気にするな、という感じで、顔をそびやかしている。

彼らが秘めておきたいと思っていることを、無理に覗こうなどとすることは品のないことですから、やりはしませんが。愛というものは、まるで水に映った雲雀の声のようだ。どんな無理をしてでもやってやりたいと思うとき、不思議な世界を通って、愛がやってくることがある。

あの人を追いかけている水仙がまた柔らかい芽を出しているよ、あなたを慕っているという心を、あの人に納めるために。

美しいですね。詠み人は昨日と同じ人です。柔らかい人だ。男性でも、こういうことができる人はいる。

「むね(胸)」は胸部のことだが、もちろん心を意味することもある。わたしなら、心と書いて「たま」と読ませるかもしれないが、詠み人にはそれはつらかったらしい。もう少し薄い情感で詠みたかったらしいです。そのほうがやさしい。

魂など納められたら、かのじょもつらいでしょうから。たとえ納める気持ちが「魂」に近かろうとも、すこし弱めて「むね」にして、相手の気持ちを軽くしようとするのが、愛する者の気持ちというものです。

またこの人には歌を詠ってもらいたいですね。

次々といろいろな人が来るので、このブログを読んでいる人にも楽しいでしょう。







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散らぬ間の芥子

2017-07-10 04:21:28 | 短歌





散らぬ間の 芥子を訪ひては 白珠の 秘むる思ひを ささめかむとす






*失礼。今少し気分が悪いのです。ネットで現代短歌を調べていて、色んな現代歌人の歌を読んでいるうちに、吐き気がしてきた。あられもないとがった人間の心が、汚いものに濡れたまま洗われもせずにそのまま詠まれていて、それを洗練された感覚だと主張している。

とても痛い。

この時代は、馬鹿な人間の心をそのまま歌うのが流行りだとでもいうような歌がぼろぼろ出てきているようですね。すべてを見ることはできなかったが、すこし見るだけで目眩がした。あれをいいともてはやしているのは誰なのか。わかっていても会いたくはない人種だろう。

短歌で何とか読める作品を詠ってくれているのは、戦後すぐくらいまででしょうか。20世紀末からの歌は歌だとは考えたくないものがたくさんあります。

わたしは表題のような清々しい歌がいい。この歌は読んでくれればわかるかと思いますが、スピカの「ひなげしが咲いている間に」という言葉を歌にしてみたものです。作者は「なみだ」や「かろむ瀬」の歌の作者と同じです。

散らぬ間のひなげしを訪ねて、貝の中の真珠のように胸に秘めている思いを、ささやこう。そのようにして、愛する人がこの世界にいてくれている間に、愛の気持ちを打ち明けよう。後に悔いがないように。

「ささめく」はもちろん、「ささやく」の意です。こういうかわいらしい古語は押さえておきましょう。語感というのは大事だ。ああ、すこし気分が治って来ました。

感情というものは、低きにあるのが自然ではありません。獣にひた近い感情を赤裸々にとがった表現で出すのははしたない。馬鹿なことを考える自分を肯定するのと同じことだ。人間として成長していくことを目指す人間を愚弄している。

そういう歌はどんなに流行っていても、わたしは歌だとは認めません。単なるしれごとだ。歌は人間の心を高みに導くものでなくてはならない。それでなければ、自分というものの価値がない。

高いことを勉強し、洗練された態度を学び、人の心を愛に導くような美しい言葉を組んで歌を詠えるようになることを、否定しているようでは、歌詠みとは言えない。

単なる馬鹿です。







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はつこひ

2017-07-09 04:22:49 | 短歌





はつこひの 愚かなりしを ととのへて 我が衣に染む 花紋としき






*これはかのじょの作品ですね。よい歌です。名作として伝えられてもおかしくはない。あの人のやさしさが隠れている。

初恋というものは、初めての恋だから、人間はまだ上手に恋ができない。それゆえに愚かなことをしてしまうものだ。だがそれで自分を捨ててしまわずに、やり直し、勉強し、整えて、自分の衣に染める花紋のように、美しくしていきなさい。

女性そのものだと言う人ですが、基本は男だということが、これでわかるでしょう。あなたがたが自分に恋して、愚かなことをしているのは知っているが、どうかいつかはそれを悔いて立ち直り、愚かさに汚れた自分を何とかしていってほしい。そして立派な人になってほしいものだ。

過ちて改めざる、これを過ちという、と言った孔子の心と、同じですね。ただこの人生ではかのじょはとてもかわいらしい女性になってしまったので、このように、まるで和泉式部にならったかのような、ほんのりと艶めいた歌になってしまったのです。

孔子は、南子のような美女には苦い思いを抱いていたが、この人生でのかのじょは、和泉式部のような情熱的な女性にも敬意を表して、その表現力にも学んでいました。高い魂というものはやわらかい。男ならば少し引いてしまいそうな痛い女性にも、女の身になれば頭を下げて習うこともできる。そして自分に生かすことができる。なお、南子(なんし)は衛の霊公の夫人で、美人だが淫蕩な女性として有名でした。論語には孔子がこの女性に招かれてやむなく謁見に応じたのに、弟子の子路が激怒するという挿話が書かれています。

それはともかくとして和泉式部の方にいきましょう。




物思へば 沢のほたるも 我が身より あくがれ出づる 玉かとぞ見る     和泉式部




これなどはわたしも好きです。情念と言うまではいかないほどの、抑えられた情熱が良い。恋に情熱的に生きた女性で、紫式部にも一目置かれていたらしい。ものを思うていると蛍も自分の身から出てきた玉かと見えるものだ、などというといかにも不穏な感じもするが、同時にそういう自分を冷静に見ている自分というものも表現されている。

和泉式部は恋をしつつも、溺れ果てて身を破滅させるほど愚かではなかったのでしょう。秀逸な恋の歌にその知性が現れています。かのじょが勉強をしたいと思うのもうなずける。

しかし表題の歌は、和泉に比べると、いかにもおとなしいですね。そこはそれ、恋などできない人ですから、一生懸命師を見習いつつも、歌はまるで女童(めのわらは)のようにかわいらしくなる。内容は論語と似てとても高いのだが。

南子の前で恭しく礼をとっている孔子の姿が目に浮かばないでもない。




ならふなら 南子も見むと 孔子は言ひ     夢詩香




まじめなあの人らしい。一応恋を詠ってはいるが、とても硬い。恋というものを深め、高い知性を骨としつつも、やわらかでみずみずしい情感を詠ってくれる女性の歌は、人類の女性に頼みなさい。それはそれは、彼女らの方が、人間の男の魂を喜ばすことのできる、美しい歌を詠ってくれるでしょう。

高い愛を知っている男と女がかわす、相聞歌なども読んでみたいものだ。






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白鳥

2017-07-08 04:20:25 | 短歌





白鳥は 哀しからめや 空の青 海のあをにも 友とただよふ






*本歌取りですが、ほとんどパロディですね。4文字しか違いません。原作者を尊敬しているというよりは、皮肉っている。元歌は、若山牧水の有名なこの歌です。




白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ   若山牧水




実はわたしは、若山牧水と正岡子規は好きではありません。絵の世界にも偽物の画家はいますが、歌の世界にも、実は偽物がいるのです。この二人は、歌人の偽物です。自分で詠んでいる歌もあるのですが、彼らの歌には、霊的盗みで他人の作を自分のものとしているものが多い。

この歌も、実は牧水の歌ではありません。全然本人らしくない。おそらく、これとほとんど同じ作品が、霊的世界か、またはこの世界で埋もれてしまった無名の歌人の作にあります。それを、霊的世界にいる人間が、技術で牧水の頭に吹き込み、彼の作品として発表させたのです。

こういうことは昔からよくありますよ。貫之は下手な歌詠みにて候、などと子規は言ったそうだが、わたしはこう返してさしあげます。子規はずるい歌詠みにて候。

昔の歌詠みはそれほどでもないが、現代の歌人には、こういう歌詠みはかなりいます。短歌というものは、かなり簡単にできるもので、それでかなりいい感じのステータスを得ることができるものですから、馬鹿が自分をよいものにするために利用することがあるのです。残念ながらこれは本当です。本人は自分の作だと思っているだろうが、裏を見れば実は、守護霊を気取った馬鹿の霊が、他から盗んできて本人に与えたものだというものが多いのです。

きついことですね。だが一応、一つの真実として、知っておいてください。

それはそれとして、表題の作の元歌は、かなりニヒリスティックですね。白鳥は哀しくないのか。青い空にも青い海にも染まることなく漂っている。世界との絆を絶って浮遊している人間の魂の姿を詠っているようだ。実に人間というものは、若い頃にはだれしも一度はこういう感興を持つものだ。誰にも理解してもらえない自分を、未熟で浅い感情の中でもてあそんでいる。

しかし大人になってくると、こういう感興は薄れてくるものですよ。

「めや」は前にも言ったが、反語推量を表す語尾です。「~だろうか、いいや~ではない」という感じに訳します。

白鳥は哀しいのだろうか、いやそうではあるまい。青い空にも青い海にも、友達とただよっているのだから。

人間も大きくなってくると、一緒に生きてくれる人間がいることに気付いてくる。その温かさ、ありがたさがわかってくる。たとえ孤独でいても、見えない誰かが必ず自分を見ていてくれるということを、感じられるようになる。

生きるのはつらいことも多いが、一人ではない。みんな助け合っていくことができるのだ。

牧水の歌はいくつの時に詠んだか知らないが、まるでまだ人生を確かには知らない十代の若者が詠んだ歌のようだ。しっかり、もとはそういう人が詠んだものを、盗んできたものにちがいないのです。







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かろむ瀬

2017-07-07 04:20:31 | 短歌





からかひて 後にわびぬる 人の荷を かろむ瀬もなき 月夜なるかな






*これも、昨日と同じ人が詠ってくれた歌です。なんとなくわかるでしょう。この人は男性なのですが、こういう女性の気持ちを詠うのがうまいのです。やわらかい人だ。

人をついからかってしまって、あとで嘆く人の心の重荷を、軽くするところもない、月夜であることよ。

何となくわかりますね。女性ならこういう気分になることはよくある。人に悪いことをしてしまったり、言ってしまったりすると、心に水を吸った布のような重荷がかかるものだ。それを晴らそうと月を見上げても、その心の重荷が軽くなるはずもない。そんな心を感じつつ、月を見上げている。

そうこうしているうちに、明日はちゃんと謝ろうなどという気持ちになってくるものです。

一応言葉の説明をしておくと、「わぶ(侘ぶ)」は落胆するとか困るとか嘆くとかいう意味の、重い感情を表す言葉です。たった二文字で深い感情を表せるので、活用できますよ。「思ひわぶ」とか「恋ひわぶ」とか「消えわぶ」とか、組み合わせでかなり複雑な感情が表せます。悲しみが消えなくてつらいなんてことを表すときは、たった5文字で「消えわびて」と言える。ちょっと応用してみましょう。




消えわびて 庭に残れる 月影を 恋ひもならずに とほく見る夢     夢詩香




消えなくて庭に残っている月の光を見るのがつらい。恋て走り寄ることもできずに、遠くから見ているだけという夢を見た。

なかなかにせつないですね。もちろん月影とはここでは恋しい人の面影を表します。いかがですか。恋する者の情感がわきたつようだ。あの人の面影が消えない。思う心も消えない。なのに走り寄ることさえできない。そんな自分がつらい。わたしもこうして、恋する人の気持ちになって詠むことはできます。しかし、表題の歌の作者とは違うことは明白でしょう。個性の違いがありありとわかる。

「かろむ(軽む)」は軽くするという意味の動詞です。こういう、状態とか状況を進行させるという動きを持つ動詞は押さえておいたほうがいいですね。短い言葉の中で動きのある情景を読むことができます。「あかる(明る)」とか「あをむ(青む)」とか「くらむ(暗む)」とか。意味はなんとなくわかるでしょう。




山影は 黒みて玉の 月を産む     夢詩香




山影が黒ずんだと思うと、玉のような月が出てきたと。なかなかですね。いろいろと活用してみてください。






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なみだ

2017-07-06 04:22:08 | 短歌





思へども かへるなきとは 知りつれど 覚えず落つる なみだなるかな






*今日は少し女性的な歌をあげましょう。もちろん女性が詠ったのではありませんが、男も女性の気持ちになって歌うことはできます。

「知りつれど」の「つ」は完了の助動詞です。もうすでに終わってしまっていることを言い表すときに使いますね。「知っていたけれど」とか、「もうとっくにわかっていることだけど」とかいう感じで使いました。「知りたれど」でも文字数は合うし、「たり」も完了の助動詞ですが、まだ状態が続行している感じがあり、「つ」のほうがもう完璧に終わっている感じがする。どちらかと言えば、「知りつれど」にした方が、情感が深くなる。歌で表されている女性の、積み重ねてきた時間の深みとか、あきらめを感じます。

慣れてくれば、こういう助動詞の使い分けも、感覚的にできるようになります。

あの人のことを思って尽くしても、その心に見合うようなことは返してはもらえないのだと、とっくにわかってはいたけれど、時に痛い仕打ちを受けてしまうと、思わず知らず、涙が落ちてしまうことであるよ。

こんな経験をした女性は、たくさんいることでしょう。

妻になってみれば、無償の心で夫や家族に尽くすのは当たり前だと思われている。養ってもらっているだけでもありがたいと思えと言われると、何も言えないから、黙っているが、時にみんなのために尽くすだけ尽くしても、何もならない女の身というものと思うて、涙が出るときもあるでしょう。

そんな時は、他に明るい楽しみを見出して、何とか自分を立てなおして、まっとうに生きようとするのが、正しい女性というものなのだが。

人しれず流した涙というものは、消えていくようで消えていきはしないのです。誰にもみられることはなかった涙は、流した人の心の奥で、常にうずいている。小さな傷のように、見えないところで何かを訴えている。

それはいつしか、目をそらすことのない現実として、その涙を流させる原因となった人の元にあらわれてくることでしょう。

この世に生まれたもので、消えていくものなど、本当はありなしないのですから。




白露の 玉ははかなく 消ゆべきも 神の目を染む 涙は消えず     夢詩香







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念仏は

2017-07-05 04:21:29 | その他





念仏は 嘘と言へずに 坊主去る     夢詩香






*久しぶりに17文字です。やはりここまで言葉が少ないと、きついものがありますね。31文字ならもう少し柔らかくいうこともできるだろうが、17文字では無情に切られてしまう。

仏教の嘘については、前々から言っていることですが、釈尊は人間を愛してはならないなどと言ったことはありません。この世界の者はすべてむなしいなどと言ったこともありません。

諸行無常という言葉は有名だが、それは実際は、悪いことをしている者の栄華は長く持たないという意味にとった方がよろしい。因果応報は世の常です。悪いことをして、栄華を得て、傲慢に落ちて、人をいじめてばかりしていると、すぐに法則上の反動が来てしまう。そしてあれほど盤石に見えた世界が、もろく崩れていく。

人間はそういうことばかり繰り返しているのだが、それが自分のせいだとはなかなか気付かない。世の中自体がそういうものだと思い込んでいる節がある。しかしそうではない。人間が確かな愛を土台にして、よいことをしていけば、栄華というのはそれほど派手ではないが、それなりに自分に似合った幸福の姿をとって、生涯より添ってくれる妻のように、常にそばにいてくれるものなのです。

そういうことに気付くまで、人間は諸行無常の風の中をさまよい続けるわけです。

仏教というものは、釈尊に関する根本的な誤解から生じています。そういう話はかのじょが月の世の物語の「聖」という話で書いてくれましたね。読んだ人はきついほど驚いたでしょう。あれだけで、仏教がすべてひっくり返ってしまうような話です。実際、もうほとんど仏教はひっくり返っています。形だけはあるが、思想は霧のように消えているのです。信じても何もありません。お経をあげたり、観音様にお参りしても、何も功徳はありません。

もちろん、南無阿弥陀仏を唱えても、それだけで救われたりなどはありません。

他力本願というのは、間違いです。もちろん他力は絶対に必要ですが、それを本願として自分は何もしないというか、自分のすることに価値を全くおかないというのは愚かなことです。自分を信じないということだからだ。

釈尊という人は、自己存在の真実の姿を、彼なりの美しい言葉で語っていたのです。だがその真意を理解できる人が全く周囲にいなかった。ただ釈尊の姿の立派なことと、行いの美しいことに目を見張って、単純にああいう人になりたいとみなが願って、それぞれの自分を捨ててしまったというのが、仏教の過ちの始まりです。

まあ、わかりますね。人間が自分より釈尊がいいと単純に思って、あの人になりたいと願ったものだから、すべて自分を否定してしまった。だから、ああいう宗教になってしまったのです。

仏教はこれから、だんだん小さくなっていくでしょう。正しい自己存在の真実の教えを語るには、仏教ではあまりに材が少なすぎる。むしろ、論語のほうがよい。孔子の言葉の方が基本的に、人間が自分を実行していくうえで大きく参考になります。

仏教を追いかけていれば、自分が何をしても所詮は無駄だと言う感じにどうしても流れていく。それが宗教的権威と結びつけば、あまりに馬鹿らしい存在ができる。

坊主は潔く非を認めて、静かに消えていくがよろしい。

釈尊は仏教の過ちを痛いと思っていますから、いずれまた、あなたがたに正しいことを教えにきてくれるでしょう。その時こそは、彼の真意を理解してほしいものです。







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海の辺

2017-07-04 04:21:04 | 短歌





うづしほの 鳴く海の辺に 降り来たり 人のつまとも なりにけるかも






*短歌ばかりが続きますね。これでは何かと思いますので、次は俳句を取り上げましょう。どうしても短歌が多くなるのは、ほかの人があまり俳句をやってくれないからです。俳句は、天使にとっては少々短すぎるようだ。どちらかと言えば人間向きでしょうね。わたしたちがやると、17文字にするために切り捨てなければならない情感が大きすぎるのです。

まあそれはそれとして表題の歌にいきましょう。

「うづしほ」はもちろん渦潮のことです。言わずともわかるでしょうが、細かく抑えるのがわたしのやり方です。

渦潮が鳴く海のほとりにある街に降りてきて、あの人は人間の男の妻になったのだなあ。

「かも」は感動や詠嘆の意を表す終助詞です。「かな」とほとんど同じです。体言や活用語の連体形につきます。その時々の自分の感覚によって使い分けるとよいでしょう。

この歌の背景には、羽衣伝説がありますね。天から降りてきた天女が羽衣を男にとられて天に帰れなくなり、男の妻になり子をなすが、やがて羽衣が見つかると、天女は空に帰ってしまう。

男性というものはこういうことをします。女性に捨てられるのが何よりいやですから、女性の力をそいで、男に逆らうことができないようにして、自分の妻にして従えようとする。女性は仕方なく受け入れて男に従い、妻となって子も産むが、心の中では容易に溶けない苦しみがある。

男は働いて暮らしを保証してくれはするが、本当に欲しいものは絶対にくれないからです。欲しいものとは何か。自分の本当の魂の自由から、愛したいという欲求です。そういう魂の自由を封じられて、無理矢理男に強制されて愛さされることほど痛いことはない。

自由な魂の願いから、夫を愛するのなら幸福だが、男に生きる力も自由も奪われて、無理矢理に愛さされるのは、苦しい。そんなことで愛しても、男がつらいものになるだけだ。だが女性はそれを正直に訴えることすらもできないのだ。

羽衣伝説には、こういう男の無理無体に対する、神の世界からの反問が隠れているのです。おまえたちはそれでいいのかと、見えない世界が男にずっと尋ねているのです。だが気付くことができた男はいなかった。

だから伝説の中では、天女の妻は男に隠された羽衣を見つけると、すぐに天に帰ってしまう。なぜなら、男は決して、彼女を愛してはくれなかったからです。美しい女を自分の相手にしたいという、男のエゴだけで、彼女を支配していたからです。

そしてあの人もまた、帰っていった。羽衣は見つからなかったが、友達が迎えに来たのです。あの人は、4人もの子を捨てて天に帰れるような人ではなかったのだが、もう、背後から見ていたわたしたちのほうが、堪えられなかったのです。

無理矢理に愛させようとした男から、かのじょを逃がすために、わたしたちは無理矢理、かのじょをあなたがたから奪ったのです。






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おのれ

2017-07-03 04:21:08 | 短歌





打ち消さる 月をあはれと 見む人は おのれ頼りて 馬鹿を払へよ






*これは本歌取りです。元の歌は、吉田松陰の留魂録の末尾に記されたこの歌です。




討たれたる 吾れをあはれと 見ん人は 君を崇めて 夷払へよ   吉田松陰




刑場に引かれていく前に、あわただしく詠まれたいくつかの歌の一つで、推敲をする暇などもちろんあるはずがない。土から引き抜かれたばかりの泥だらけの大根のような感じがあります。もう少し時間があったなら、もっと整った感じにできたでしょう。

この歌は、自分が松陰の気持ちになって推敲を試みてみたという感じのものです。

玉砕という言葉の元になる表現も、留魂録の中にありますが、こういう表現は太平洋戦争中の人間にいじましい使われ方をして、随分と汚れてしまいました。「夷(えびす)払へよ」、異民族を追い払えという言葉は、幕末の当時としては国の滅亡を本気で心配していた松陰の魂から出た言葉だったのだが、後の日本の愚行が、それに歪んだ意味をかぶせてしまいました。

それはとても痛いと感じている人が、その歌を現代における自己存在の真実というテーマに詠みかえて、表題のような歌にしてみてくれたのです。

自分を見失った馬鹿な人間によって打ち消されてしまった月のことを、哀れと思うのなら、自分の中の本当の自分を信じて、自分を馬鹿にしている馬鹿というものを、自分の心から追い出せ。

こうすれば、夷を払うという言葉は、真実、自分の中から間違ったことを追い出し、本当の自分の美しい姿になって、嫌なことがすべて去っていくだろうという意味になります。

松陰のやろうとしていたことも、本当はこれだったのだ。なぜ異民族が攻めてくるのか。それは彼らもまた自分が嫌だからだ。自分が馬鹿だと思っているから、自分をことさらに強大にしようとするのが馬鹿というものだ。そのためになんでも人から奪おうとする。そういうものが国を攻めてくれば、国が大変なことになる。

それを憂えて、国を救うためにあらゆることをして、時代の壁にぶつかって粉々に砕けたのが、松陰という人だったのです。

その人が残してくれた歌を、土から引き抜かれた大根のようにそのまま放っておくのは惜しい。何とかしていいものにしてやりたいと思うのが、友情というものだ。

ジョルジョーネの遺作をティツィアーノが完成させ、それを不朽の名作にしたように。

本歌取りというのは、そういう意味でも、よい文化ですね。互いの歌を高めあうことができる。

いろいろとやってみてください。







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こしをれ歌

2017-07-02 04:21:23 | 短歌





月を見て 千々に涙は 流しつつ こしをれ歌を 千々に詠みけり






*新しい作者が来てくれました。読んでみれば、今までの歌と雰囲気が違うことがわかるでしょう。

「こしをれうた(腰折れ歌)」は第3句と第4句の間がうまくつながらない下手な歌のことを言いますが、歌詠みが自分の歌を謙遜していうときにも使います。「千々(ちぢ)」はたくさんという意味だ。一応これは、百人一首にある大江千里の有名な歌を下敷きにしています。元歌は知っていると思うので、ここでは強いてあげません。

月を見てたくさんの涙を流しながら、たくさん下手な歌を詠ってしまいましたよ。

そういうように、この人はここでたくさんの歌を詠んでくれました。次々にあふれてくるので、いちいち紹介しきれない。なので今日はこの人の作品ばかりをいっぺんに紹介してみましょう。以下に六首並べます。





とこしへに 会はでゆくべき 吾妹子の 見ゆる岸辺は 神の背ならむ


月代は 目には見えども はるけきを 指を伸ばせる 我は蝙蝠


真昼野に 見し幻を てふのごと おひて舞ひつる 絹の下帯


過てば 悔いて踵を かへせとぞ いにしへの孔子 民に語りし


時雨降る 闇の最中に 見し夢を 君に語るは つひに来ぬなれ


闇を煮て 月の鶴をぞ とらへむと 花を添へども 屠れはすまい





いかがですか。ひとつひとつに解説を入れたいところだが、とても間に合いません。ただ読み方だけ少し注釈しておきましょうか。「吾妹子(わぎもこ)」はわたしの妻とか恋人、という意味ですね。知らないことはないと思いますが、一応書いておきましょう。「蝙蝠」は「かわぼり」と古名で読んでみましょう。「孔子」は「くじ」と読みましょう。「鶴」は「たづ」です。

まあすごいのは、これだけの歌を、ほんの数時間のうち立て続けに詠ってくれたことです。わたしがこういう仕事をしているので、歌を詠いにきてくれたのだが、たくさんありすぎて困ったので、今日はいっぺんに紹介してみました。

一つ一つの歌の解釈は、みなさんでやってみてください。たまにはこういうのもいいでしょう。面白い感じで、現代語風に言い換えてみましょう。

ところどころに係り結びも隠れています。注意して訳しましょう。






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