ふりそそぐ ひかげのしじま 初夏の そらをめぐれる つばくらの声
*「初夏の」は「はつなつの」と読みますね。わかっていることでしょうが、細かいことをいちいち指摘するのがここでのやりかたです。
勉強というのは、細かいことの繰り返しです。一度言っただけでは、人間の頭には染み込まない。それは根気よく、何度も繰り返して、頭の中に打ち込むのです。
教師というものは、うざいと言われようが何と言われようが、何度も教えなければなりません。人間の心に染み込むまで、何度も同じことを打ち込まねばなりません。そこが学者と違うところだ。学者気質であったかのじょはここらへんがクールでした。
歌なども詠み捨てで、何の解説もなく発表していた。読む人はほとんどの人が何のことやらわからなかったでしょう。
こうしてわたしが、後で細やかに解説するから、かのじょの気持ちもあなたがたに伝わるわけです。
まあ、ものごとには一長一短がありますね。学究の徒であったかのじょのあの涼しさゆえに、あなたがたはかのじょを追いかけてしまう。それでわたしたちも助かるというわけです。教えやすくなる。
ふりそそぐ日の光、その静寂、初夏の空をめぐりとんでいく、燕の声が、何かを言っているような気がする。
風景をそのまま切り取ったかのような歌ですね。ですがここに深い情感を読み取れるでしょう。毎年のように見る情景だ。初夏になれば必ず燕が飛んできて、空をめぐり飛ぶ。初夏の光は明るく、未来を祝福してくれているかのようだ。
はつらつとしていながら、同時にどこかに悲しみを覚える。それはなぜか。こんなすばらしい世界にいるのに、悲しみを感じるのは、どこか、自分が違うような気がしているからではないか。
世界は本物なのに、生きている自分は本物ではないような気がする。
その微妙なずれが、風景を見る自分の中に痛みとして生じるのだ。
歌には何の解説もないのに、ただ情景を詠みこむだけで、自分の痛みを感じるのは、「しじま」の一語があるからでしょう。
静けさの中にある何かが、嘘をふくんでいる自分の感性の中にひびくのです。
こういうことも、何度も言ってきましたね。嘘の自分を生きていることの苦しさ、難しさ。これからも、何度も言いましょう。
あなたがたの中に根付くまで、何度も教えましょう。