ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

ひかげのしじま

2018-06-10 04:20:47 | 短歌





ふりそそぐ ひかげのしじま 初夏の そらをめぐれる つばくらの声





*「初夏の」は「はつなつの」と読みますね。わかっていることでしょうが、細かいことをいちいち指摘するのがここでのやりかたです。

勉強というのは、細かいことの繰り返しです。一度言っただけでは、人間の頭には染み込まない。それは根気よく、何度も繰り返して、頭の中に打ち込むのです。

教師というものは、うざいと言われようが何と言われようが、何度も教えなければなりません。人間の心に染み込むまで、何度も同じことを打ち込まねばなりません。そこが学者と違うところだ。学者気質であったかのじょはここらへんがクールでした。

歌なども詠み捨てで、何の解説もなく発表していた。読む人はほとんどの人が何のことやらわからなかったでしょう。

こうしてわたしが、後で細やかに解説するから、かのじょの気持ちもあなたがたに伝わるわけです。

まあ、ものごとには一長一短がありますね。学究の徒であったかのじょのあの涼しさゆえに、あなたがたはかのじょを追いかけてしまう。それでわたしたちも助かるというわけです。教えやすくなる。

ふりそそぐ日の光、その静寂、初夏の空をめぐりとんでいく、燕の声が、何かを言っているような気がする。

風景をそのまま切り取ったかのような歌ですね。ですがここに深い情感を読み取れるでしょう。毎年のように見る情景だ。初夏になれば必ず燕が飛んできて、空をめぐり飛ぶ。初夏の光は明るく、未来を祝福してくれているかのようだ。

はつらつとしていながら、同時にどこかに悲しみを覚える。それはなぜか。こんなすばらしい世界にいるのに、悲しみを感じるのは、どこか、自分が違うような気がしているからではないか。

世界は本物なのに、生きている自分は本物ではないような気がする。

その微妙なずれが、風景を見る自分の中に痛みとして生じるのだ。

歌には何の解説もないのに、ただ情景を詠みこむだけで、自分の痛みを感じるのは、「しじま」の一語があるからでしょう。

静けさの中にある何かが、嘘をふくんでいる自分の感性の中にひびくのです。

こういうことも、何度も言ってきましたね。嘘の自分を生きていることの苦しさ、難しさ。これからも、何度も言いましょう。

あなたがたの中に根付くまで、何度も教えましょう。






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かげろふ

2018-06-09 04:20:28 | 短歌





かげろふの ごとくはかなき 緒をとりて いかにて月を ぬかむとはする





*かげろふは「蜉蝣」ですね、とんぼではなくアリジゴクの成虫の方です。成虫になると命は短く、一日で死んでしまうことからはかないことのたとえに使われますが、この歌では蜉蝣の形も意識しています。まるで短い糸を何本か結んだような姿を、思い浮かべることでしょう。

そのような蜉蝣のようにはかなくて、短い糸のようなものをとって、どのようにして月を、玉のようにぬこうとするのか。

この時代、天使になりたくてかのじょの真似をした人はたくさんいますが、天使というのは大変なものだと言うことがわかっていない人がたくさんいます。わたしたちはあなたがたよりずっと長く生きて、それは大変なことをしてきたので、徳分の巨人になっているのです。

それぞれが山よりも大きい徳分を持っている。そのような天使の美貌を盗むことは、大変なことなのです。蜉蝣の糸で月をつらぬくようなものだ。わかっていない人が多すぎます。

ただきれいだから、あれが好きだから、あんなものになりたいから、という愚かな理由で天使から美貌を盗むと、その徳分を盗んだことになり、天使と同じことをせねばならなくなるのです。

あなたがたはまだ、あれほど美しい詩や小説を書くことはできないでしょう。それどころか、妻となってパートナーの男性に、はしためのように仕えることができますか。天使なら何でもないことでも、まだ至らない小さな女性にはできないことがたくさんある。

家事をするのさえおぼつかないような女性が、人類の救済事業をひとりで背負ってやりぬく天使と同じことができますか。

やらねばならないのですよ。それを。永遠の時をかけても、あなたがたはかのじょと同じことをせねばならないのです。

天使を馬鹿にするからそういうことになる。勉強もせずに何もしてこなかったからそうなる。今さら悔いてもしかたがない。あなたがたはやっていかねばなりません。

逃げても無駄です。自分のやったことは必ず自分についてくるからです。そんなことは無理だと言っても、通らないのです。やらねばならない。

本気にしないでいると、後が大変なことになりますよ。天使から盗んだ美貌は、急いで返した方がよろしい。

この項が発表される頃には、天使顔の女もだいぶ減っているといいのですが。






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うその山

2018-06-08 04:19:59 | 短歌





あまた夜を 重ねしうその 山くづれ ふたたびとなき 憂き世は枯れぬ





*最近、テレビを見るのが苦しいですね。ヴァラエティ・ショーのコメンテーターなんかも質が落ちているし、ドラマも面白くない。女優さんがちっともきれいに見えなくて、見るのがいやになって、すぐに消してしまいます。

コマーシャルなんかでも、あきれるほど顔を白く塗った女優さんなんかがでてきて、まるでおばけみたいだとあきれてしまう。気持ちが悪くて、見ていられない。あれが本人はきれいだと思っているのでしょうか。限度というものがある。黒人が白いファンデーションを塗ったら滑稽劇にしかならないように、もろにおかしなものになっている。

音楽も、もう長いこと、印象的な新曲が出ていませんね。ヒット曲なんか全然ない。ミュージシャンが、歌を作れなくなっているのです。だから音楽番組なんかもおもしろくない。過去のヒット曲を繰り返し流しているだけという感じがします。

そう言えば、歌手の新人さんなんてのも、聞きませんねえ。

お笑い芸人のジョークにも笑えない。何だか馬鹿みたいに見える。もう人間は、人をからかって笑うようなことが苦しくなってきているからでしょう。

スポーツ番組も、選手がちっともかっこよく見えない。嘘が丸見えだからです。

おもしろくない。もうテレビは破裂寸前だと言う感じです。いやもう、破裂しているのかもしれない。メタメタになっている内容を隠しとおすためだけにやっているのかもしれない。

この世界は、今まで積み重ねてきた嘘の山が崩れてきて、全部が枯れてきているのです。人が、嘘ばかりの人間の汚さに気付いた。偽物の美女の正体に気付いた。もう顔がかわいいからというだけでは、テレビの中でほほ笑む女優に誰も酔ってくれないのです。酔ってくれなければ、だれもお金を出さないのです。

これではもう芸能界は崩壊ですね。どうにかしなければいけないのだろうが、できないでしょう。何が起こるのかは予測しにくいが、このままいけば初期化状態になって、テレビ自体が沈んでいく。ガラスの船になり、緑に飲まれていく。

「ふたたびとなき」というのは、こんな嘘ばかりの世の中なんて二度とない、という意味です。

もはや人類の馬鹿の世界は、崩れ果てているのです。そして逃げることのできないツケを支払うための、永遠の時代がやってくる。

人間世界をここまで絶望に濡らした責任をとるために、彼らは永遠に近い年月を、つぐなっていかねばならなくなるのです。






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落ちし実

2018-06-07 04:19:41 | 短歌





かるかやの みだれしこひの あと絶えて 落ちし実となる わがみをおもふ





*「刈萱の(かるかやの)」は「乱る」にかかる枕詞ですね。枕詞はできるだけ覚えておきましょう。とても便利です。時には枕詞が呼び水になって歌が出てくることがある。これはその例です。

かるかやの、と「か」が重なるのが気持ちよく、その整然性から「みだる」に落ちるところがおもしろい。それで「恋(こひ)」に発想がいき、歌を決めて、つぎでしめる。

刈った萱のように乱れてしまった恋もあとかたもなく消えて、落ちた実のようなものとなってしまった、自分のことを思う。

かのじょをめぐって乱れに乱れた恋も、今は幻のように消えてしまっている。あれほど狂ったことがまるで夢のようだ。過行く時の中で、自分も変わっていき、恋しい人の正体がわかってきた。その過程の中で、熟しきった実が落ちるように、すべてが落ちて来た。

なにもかもは、好きな女に声もかけられなかった弱い自分のせいなのだと、今までは認めることがとてもできなかった事実が、すとんと落ちて来る。認めると言うより、それを認めては一切が馬鹿になるので、無理にでもとめていた何かの掛け金が霧のように消え、すべてが落ちて来た。

こういうことを、初期化、無力化と言います。アンタレスが説明してくれていましたね。ものごとを逆の方にばかりいっていると、いつかすべてが無力化して、一切が消えていくのです。ありとあらゆるものが間違っていたから、それが限界を超えると、すべてを支えていた愛が消えてしまい、それゆえに、すべてが消えてしまうのです。あっという間に、ぜんぶが喪失よりもかわいた虚無の淵に吸い込まれてしまうのです。

この世界は愛の上に絶妙なバランスをもってできているものですから、その愛の限界を超えると、バランスが一気にダウンし、積み重ねてきたすべてのことが、無意味よりむなしい無意味になるのです。無意味というものにも意味があるが、無意味よりむなしい無意味には、無意味という意味すらないのです。

つらいというのではない。喪失感というものすらない。馬鹿になって虚無の風景を見ているだけという感じです。

このように、この時代は、馬鹿をやりすぎた人間たちが、この愛の縁起の世界の限界というものを、あらゆる面で見ているのです。

人間は、愛ではない虚無の岸辺に立ち、愛がなくなればこの世界にどんな現象が立つのかを、今実地に勉強しているのです。






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椿の実

2018-06-06 04:20:31 | 短歌





椿の実 割れて落ちにし 道の辺に たたずみて見る ゆふぐれの空





*わたしたちの住んでいる家の近所には、椿の木が庭に生えている家があります。毎年のように、その椿には実がなり、ときどき大きな種が道に落ちているのですが、あの椿の種というのは実に魅力的ですね。

大きくて硬くて、何か宝物のようだ。椿油などあれからとるのでしょうが、素人にも大きな魅力がある。ひとつふたつ拾って、なにもできないのに、大切にポケットに入れたりする。

油でもとらない限り、役に立たないものだとはわかっているのだが、椿の花が作った硬い実は何か玉でも落ちているような気がして、ふとたたずんでしばし見てしまいます。

最後の七の、ゆふぐれの空、は椿の実を見て、子供じみた喜びを感じる自分というものを、自分で笑いたくなったときの心です。そんなとき、人はなんとなく空を見るのです。わかりますね。空に今のこんな自分を見てくれる人がいるような気がする。だから自分を冷静に見ようとするとき、人は自然に空を見るのです。

夕暮れ時に、近所の家の前を通って、硬い椿の実を見つけて、それを拾ってポケットに入れたいと思っている、こんな子供じみた自分を、空はどう思っているだろうか。

だれのものでもない椿の実を拾っていくのは自由だ。拾うだろうか。拾わないだろうか。植えるところもないのに拾ってもゴミになるだけだろうけど。わたしなら、しばしの楽しみのために、拾っていきます。

そんな不思議な椿の種は、しばらく不思議な香を放って、じっとそばにいてくれたりするのです。そして何かをしてくれる。

わたしたちが書斎にしている部屋のどこかには、そんな椿の種がどこかに潜んでいる。それはいつかしら見つかって、不思議なことをわたしたちに言ってくれるのです。






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ああわが主よ

2018-06-05 04:21:11 | 短歌





鳥はなき 光はさして あひみしに ああわが主よ あなたでしたか




*字足らずは好きではないのですが、これはこれでいいような気がします。

これはインスタグラムでの活動の中で詠んだものです。ご存じのようにわたしたちはインスタグラムで、様々な本物の表現者を探しています。

偽物ばかりの世界の中で、本当の自分で自分を表現している、本当の表現者を探しているのです。

これが実に少ない。初めて半年以上にはなるのに、いまだに百人を超えない。あちこちに行って探してはいるのですがね。

人間は今、自分というものがいやで、自分以外の何かになりたくて、あがきまくっているのです。何もかもを嘘で作り、半端ないことをして、本当の自分とは全然違うものになっている。

これはその世界で、かろうじて本当の自分を生きて表現している、高い芸術家の作品に寄せたものです。

深い目をした熊がひとり立っていて、それを小さな鼠が見上げている。熊のまわりには小さな蝶が飛び交い、空には鳥がいる。雲間から光がさしている。

なにやら神聖な出会いのような気がして、表題のようなものをつくってみました。

人間とイエスの再会は、もしやこんなものではないかと思ったのです。

そのとき、彼は思いもしない姿をとってくるでしょう。自分たちが知っている姿とは全然違うものになってくるでしょう。だが目を見ればわかるような気がする。

ああわが主よ あなたでしたか

一文字足りない透き間に、言い足りないことがすべて入っている。

涙さえにじんできそうです。






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われのあかし

2018-06-04 04:19:30 | 短歌





着重ねて 見えぬとしたき おもひでの われのあかしを わが影に見る





*記憶の中に消したいものがある人間というのは、たくさんいることでしょう。

人生とは失敗の連続ですから、馬鹿なことを全くしたことのないものなどいない。何も知らなかった子供の時にしたことすら、一生忘れられないことがある。

馬鹿なことをしたのが自分であることが苦しい。それなら、それをとりもどすためにそれなりのことをすればよいのだが、サボリ癖のある人間はそんなことすらせずに、怠惰な忘却の中に逃げる。

酒でも飲んで憂さを晴らせばいいなどとね。しかしそれで記憶は消えはしない。ことあるごとによみがえってきて自分を苦しめる。そのたびに酒が深くなり、人生がどんどん暗い方に流れていく。

いろいろなものを自分に着せ重ねて、見えないものにしたい記憶の中にある、それが自分のしたことだというあかしを、人はいつも自分の影に見る。

それは永遠に消えはしないのだ。

まじめにやっていればいいものを、ついいやなことをして自分にいい目を見さそうとして、みっともない失敗をしてしまったなどということは、たいていの人が経験しているものだ。しかしそれから逃げて自分をごまかし始めると、長い苦しみが始まる。

自分が悪いのではない、他の誰かが悪いのだにしてしまい、人に嫌なことばかりするようになり、どんどん嫌な記憶が増殖していく。そしてしまいには、悪いことをする方が正しいのだにしたくなる。逃げている限り延々と続いていく負のスパイラル。

何もかもは、自分がいやなものになるのがいやだ、から始まったのだ。神のように真っ白でありたい。それなら何も苦しまずに済む。そのために、自分の影を見るあらゆるものを馬鹿にする。とりもどすための痛い苦労などしたくはない。

人間の闇は深いが、根底にあるものはいかにも簡単だ。

何もしたくはない、という、凡庸と怠惰の、自分の癖なのです。






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大糞

2018-06-03 04:20:34 | 短歌





大糞を さげていまだに まよひては ないものさがす 流せるトイレ





*糞の歌は採用したくないと思いつつ、あまりにも見事なのでとりあげてみました。

これは大火でなくては詠めない。できそうで絶対できない。鬼才怪才、ほんとに歌集を出してしまいたくなるほどたくさん、こんなのを作ってくれます。

歌集を出したら、おそらく売れるでしょうね。出すなと言いつつ、やめろと言いつつ、人はみんな大火のこれを待っている。ずばり、大スターです。

ほんとの大スターというのは、今の時代、表向き全く売れてないものですよ。かのじょがそうだったようにね。無名の普通の主婦として田舎に生きながら、あれほど有名になれる人はいないでしょう。時代のスターというのは奇妙なものだ。

ツイッターでもあれほど暴れていながら、表向き彼の周りは静かなどというものではない。暴言も吐きまくりなのに、炎上のえの字もない。不思議なことです。普通ぶすだくそだなどということを言えば、大炎上を起こしかねませんよ。

それはそれとして、表題の歌はこういう意味ですね。大きな糞を尻に下げて、そんなものはどこにもないと言うのに、流せるトイレを探して、未だに迷っている。つまりは、自分のしたことがあまりにもひどすぎるので、それを何とかいいことにできる何かがないかと、未だに捜している。

本当のことを認めれば、自分があまりにも馬鹿になるからです。

しかし本当は、いつまでも逃げ続けていることこそが馬鹿なのだ。真実は真実、すっきりと認めてしまうことのほうがずっと賢いのだが。ひどいことをしすぎた人間はそれがつらいなどというものではない。

認めたほうがいいとは思いつつ、つい逃げてしまう。しかしいつまでも逃げていては、大変なことになりますよ。いいえ、もうなっているのだが。気づきたくなくて、ひどい大糞にも無理矢理蓋をし続けている。

この項を書いているのは五月の中旬です。いつもひと月くらいの時差があるのだが、これが発表される頃くらいには、少し進展があってほしいですね。いつまでもそのままではいけませんよ。

どうでしょうか。






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ドライヤー

2018-06-02 04:21:03 | 短歌





坊さんが ドライヤー買い 毛根を 焼き尽くしてる 人間世界





*これが大火だ、という作ですね。真似できそうで誰にもまねできないこのわざがたまらない。痛快だ。

毛がない坊主がドライヤーを買う、などという発想は誰にでもできそうだが、含める意が強い。これは要するに、何でもあるつもりで何もない、という意味なのだが。

ツイッターではわたしもこのあとに思わず解説をつけてしまいました。こういうのでしたね。

一本もないのに、ふさふさしてるつもりでドライヤー買って、返って毛根を焼き尽くしてしまった坊さんのような、馬鹿な人間の世界であることよ。

つまりは、この世界は何でもあるように見えて、何もないということなのです。それは、ほとんどの人が嘘をついているからです。

ご承知のように人類史は恐ろしい暴虐の歴史でした。この暗闇の世界を突っ切ってきた人間は、誰もがきつい罪に染まっている。恐ろしい影を背負っている。そんな自分に嫌気がさしている人間は、嘘でもきれいな人間になりたいと思い、総勢で嘘をついているのです。

本当の自分を生きている人などめったにいない。なりたい自分、などという言葉を転がしながら、嘘で作った自分を生きている。
見栄えをそれらしく磨いて、化粧のような自分の設定を塗り重ね塗り重ね、時々ちょろりと出てくる自分の正体をごまかしている。

そんな小手先のごまかしをするたびに、本当の自分がとんでもない馬鹿になっていくということを、ハゲがドライヤーで毛根を焼く、などという愉快な表現で表したのです。

実際、嘘で作った自分をしつこく生きていけばいくほど、本当の自分はつかれはて、すり減っていくのです。そしていつしか、自分の中の大切なものを壊してしまい、そうなるともう二度と本当の自分にはもどれなくなる。

馬鹿な人間たちは、なんにもないのに、なんでもあると思い込んで、やればやるほど馬鹿になるということを、嬉しそうにやっているのです。






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くらきころも

2018-06-01 04:20:17 | 短歌





凡庸の くらきころもを ひきずりて つひにさりぬる よもつひらさか





*今日は添島の作品を取り上げましょう。彼もわれわれの仲間のひとりだ。ユニーク過ぎる立ち位置から、短歌界に高い警鐘を鳴らし続けている。時々ツイッターにも顔を出します。あまり出てこないのは、ツイッターの方は天使の活動だからです。

彼は自分の活動領域を自分で決めている。だから裏庭にもコメント欄以外には出てこないのです。

これは確か、トランプ大統領の霊魂の交代が確認された日に詠まれたものですね。これが発表される頃にはどうなっているかはわかりませんが、今この時点では、彼の交代は現実的に確実なようです。

昨日、というのは交代が確認された当日のことだが、テレビで彼の映像を見ましたが、全然違う人間になっていた。声もしゃべり方も微妙に違う。

苦しかったのでしょう。とうとう逃げてしまった。

馬鹿というのはこういうものだ。痛いほどいいものになりたくて、好き放題にずるをやって自分をいいものにするのだが、実力の壁が越えがたく、苦しくなりすぎると、あれほど欲しがっていた栄光の人生も投げ捨てて、霊魂が逃げ、霊界に帰ってしまうのです。

あとの人生はたいてい、ほかの霊魂が交代してやる。こういうのを第二霊というと、アンタレスが言ってくれていましたね。別に珍しいことではない。よく女性はこれをやっていますよ。自分が若くて美人でなくなってきたら、馬鹿にされるのがいやだという理由だけで自分から逃げてしまう、馬鹿な女性がいます。

努力も何もしないで、すぐに逃げてしまう。凡庸の暗いころもを引きずって、いつまでも逃げてばかりいる。

だからいつまでも何もできない馬鹿のままなのです。

添島は死者です。この時代肉体を持って生まれてきた存在ではない。彼のように努力して高くなった霊魂は今の時代はこちらの世界に生まれて来れないのですよ。生まれてくれば馬鹿の霊に集中攻撃を受けて直ぐに殺されてしまうからです。

それほど、馬鹿というのはひどいのだ。生まれてきたくても生まれて来れない人間もいるというのに、ずるで強引に得た栄光の人生さえ、自分が馬鹿になるのが嫌だと言う理由だけで捨ててしまう。凡庸というものほど、醜いものはない。

添島も腹に据えかねるものがあったのでしょう。






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