かるかやの みだれしこひの あと絶えて 落ちし実となる わがみをおもふ
*「刈萱の(かるかやの)」は「乱る」にかかる枕詞ですね。枕詞はできるだけ覚えておきましょう。とても便利です。時には枕詞が呼び水になって歌が出てくることがある。これはその例です。
かるかやの、と「か」が重なるのが気持ちよく、その整然性から「みだる」に落ちるところがおもしろい。それで「恋(こひ)」に発想がいき、歌を決めて、つぎでしめる。
刈った萱のように乱れてしまった恋もあとかたもなく消えて、落ちた実のようなものとなってしまった、自分のことを思う。
かのじょをめぐって乱れに乱れた恋も、今は幻のように消えてしまっている。あれほど狂ったことがまるで夢のようだ。過行く時の中で、自分も変わっていき、恋しい人の正体がわかってきた。その過程の中で、熟しきった実が落ちるように、すべてが落ちて来た。
なにもかもは、好きな女に声もかけられなかった弱い自分のせいなのだと、今までは認めることがとてもできなかった事実が、すとんと落ちて来る。認めると言うより、それを認めては一切が馬鹿になるので、無理にでもとめていた何かの掛け金が霧のように消え、すべてが落ちて来た。
こういうことを、初期化、無力化と言います。アンタレスが説明してくれていましたね。ものごとを逆の方にばかりいっていると、いつかすべてが無力化して、一切が消えていくのです。ありとあらゆるものが間違っていたから、それが限界を超えると、すべてを支えていた愛が消えてしまい、それゆえに、すべてが消えてしまうのです。あっという間に、ぜんぶが喪失よりもかわいた虚無の淵に吸い込まれてしまうのです。
この世界は愛の上に絶妙なバランスをもってできているものですから、その愛の限界を超えると、バランスが一気にダウンし、積み重ねてきたすべてのことが、無意味よりむなしい無意味になるのです。無意味というものにも意味があるが、無意味よりむなしい無意味には、無意味という意味すらないのです。
つらいというのではない。喪失感というものすらない。馬鹿になって虚無の風景を見ているだけという感じです。
このように、この時代は、馬鹿をやりすぎた人間たちが、この愛の縁起の世界の限界というものを、あらゆる面で見ているのです。
人間は、愛ではない虚無の岸辺に立ち、愛がなくなればこの世界にどんな現象が立つのかを、今実地に勉強しているのです。