すきとほる みどりにしづむ 人の目の 闇にこほれる がらすのさなぎ
*今日は少し不思議なのを生きましょう。
がらすのさなぎ、とは美しいイメージですね。さなぎがガラスのように透き通っている。それは中身が見えるという意味だ。
「すきとおる」は、「みどり」にも、「さなぎ」にもかかるでしょう。制限のある定型詩ではそういうこともできます。
すきとおるような緑の中に沈んでいく人の目の闇に、凍っているガラスのさなぎが見えている。
ガラスとは、やすやすと人に自分が見抜かれていることを意味するでしょう。さなぎは、次の段階に行く前の仮の姿だ。
ということは、人類の段階の成長にしたがって、自分の感覚が新しく見えた時、見えたものは、さなぎがガラスのように透き通っていたということだ。
つまりは、すべては見られていたということなのです。永遠にだれにもわからないと思っていた自分の本当の心は、だれにも丸見えだった。なにもかもが、そこから崩れてくる。
愛など愚かなものだと思っていた。馬鹿なことをすれば馬鹿がすべてに勝てるのだと思っていた。その心のすべてを愛は見抜いていた。見抜いたまま、じっと耐えていてくれたことになる。
なぜ耐えていたのか。その馬鹿の存在を、永遠の拒絶の向こうにおいやらないためです。愛の世界の外に追い出さないためです。
そんなことになれば、その存在がどんなつらいことになるかわからないからです。
しかしその限界はきた。馬鹿どもはとうとう愛の限界を超え、愛のほかの世界に赴かねばならない。その時になってようやく、さなぎがガラスでできていたことに気付くのだ。
見抜かれた正体のあまりの恥ずかしさに、馬鹿は凍り付くことしかできない。そして、吸い込まれるように、透き通るように美しい緑の中に沈んでいく。
恥ずかしい自分の姿を見られたくないかのように、緑の浸食を自分に受け入れていくのです。