われのみの きよききぬ着て 夢路ゆく 人は知らずや たがそでの露
*これは大火の作品です。いつもはおちゃらけたような作品ばかり詠むひとも、たまにはこういうのも詠みます。時々はこういうのも入れないと、馬鹿っぽいことばかりいうおじんだと錯覚されてしまうと本人は思っているようです。
読者の中には錯覚ではないと言いたげな人もいるようですが。
まあ、大火流のあのおもしろいやりかたも好きですがね、たまにはまじめにやってほしいものだ。いつでもあれでは、ムジカの私撰歌集(のはずでしたが)の品位が疑われる。
それはそうと、表題の作はこんな感じですね。
自分だけが清いという衣を着て、夢の中をゆく人は知らないのだろうか、そのためにだれかが涙で濡らしているその袖を。
世の中には、自分だけをいいことにしたくて、人に気持ちを押し付けてばかりで、人の気持ちなど考えない人が多くいるもので、そういう人はそのために苦しんでいる人が影で泣いていることなど何も気づかないのだ。
自分の気持ちしかわからない人というのはいるものです。
そう言う人が、天使の美女を見ると、もうあんなきれいな人になりたくて、その真似ばかりするのです。きれいになりたくてしょうがなくて、おそろしいほど着飾るのです。絶妙なやり方でね。天使はいつも地味な格好をしていて、それがきれいだったものですから、それを真似する人は、全体的に地味目にしておいて、肌の白さや目の輝きなどを異様に強調するのです。
それが痛いなどというものではない。人間の分を越えて、天使レベルにまで光らせるものですから、ものすごく見苦しい。見る人はみんな嫌がっている。だのに本人は人の気持ちなどわからないものですから、とにかくきれいになりたくて、自分を磨きまくるのです。表面だけをね。
それは違うでしょう、あなたはそんな人じゃないでしょう、などと言っても聞きはしない。全部嘘だと言うことがばれているのに、やめはしない。本当に、馬鹿というのは困ったものだ。
今これを書いている時点でも、かのじょの真似をしている馬鹿な女性をたくさん見かけます。
これが出るころにはその流行も収まっていればいいのですが、それは無理のようだ。
馬鹿な人たちは、かのじょの美しさにしびれてしまっている。
見る人の涙など見もしないで、馬鹿な人たちはまだ続けるつもりでしょう。