Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

形見

2020年03月18日 15時59分04秒 | 思い出の記

           今 何時なのか

この腕時計は、ガラスやメタルのベルトに随分と擦り傷がある。
刻んできた時間に相応する痛みであろう。

          

大した時計ではない。数千円のカシオ製である。
時間と日を表示するだけ、他には何の機能も付いていない。
狂うことなく本来の役目はきちんと果たしているから
難癖をつけることはないのだが、デザインはシンプル
と言うより野暮ったく、時計店のショーウインドーをのぞき込んでも
おそらく目は素通りしてしまうだろう。
ファッション性の欠片もないのでは、目も、心もひきつけない。

8年前に亡くなった長兄の形見で、義姉がそっと渡してくれた。
13歳も離れているのだから、一緒に遊ぶなんてことはもちろんなかったし
何かをまじめに語り合った記憶もない。
兄弟だと言っても何だか遠い存在であった。
性格も兄はどちらかというと重苦しく
対する僕は軽薄に近いという対照である。
それに、兄のファッションセンスは、それを問うこと
自体がナンセンスと言ってよい。
この時計はまさに、「兄にそっくり」なのである。


近頃、この時計を着けることが多い。
そして、この兄とは性格は違うと思っていたが
実は似たところがいくつもあることに気付かされる。
たとえば、『ものを書く』『歌う』というのは、二人に共通する。
文学青年気取りの兄は、詩を詠み、小説らしきものを書いたりした。
僕もこうやって、ごそごそと何かを書いている。
                                                    

歌も上手かった。
NHKののど自慢大会の常連で、もう一歩で全国大会出場
というところまで何度も行った。
伊藤久男の『イヨマンテの夜』からカンツォーネの『オー・ソレ・ミオ』まで
レパートリーも幅広く、声は伸びやかだった。
僕も70歳から歌のレッスンに通い始め、もう10回以上ライブハウスの
ステージに立っている。
兄はまさに正統派の歌い方、僕はと言えば音符も読めず
ただメロディーを追いかけているだけで
その上手さにおいて兄の足元にも及ばない。            
                                           
目をやると、10時47分を指している。
「そろそろ寝る時間だろう」
耳元で兄の声がしたような……。
「あと五分待って」そうつぶやきながら、この作を書き上げた。

眉を上げなさい

2020年03月18日 09時47分12秒 | エッセイ


ほれ、ほれ。眉が下がっているよ。
それじゃ、男前が台なしじゃない。
指に唾をつけ、それで上げなさい。           

小さい頃から、少し下がり眉の僕の顔を見るたび、母はそう言った。
亡くなってから25年。その母は今、マリア像の横にいて含み笑いして
いるような柔和で、やさし気な顔をして写っている。
どのような人であったか、もう容易には思い出せなくなってしまってい
るのに、今でもそれが遺言であるかのように
「ほれ、ほれ 上げなさい」と言い続ける。

髭を剃ろうと鏡を覗き込む。
電気カミソリはシャキッとする感じがしなくて、もっぱら剃刀を使っている。
したがって石鹸を塗り付け、鏡を見ながら剃刀を滑らせる。
それほどヒゲは濃くはないから簡単に終わる。
そして顔に残った石鹸を洗い流し、まあ一応化粧水なんぞを
ぱちゃぱちゃとはたき、もう一度鏡をのぞき込む。

すると決まって母の叱声である。
小さな頃は「うん」と答え、言われるまま指に唾をつけ眉を横に引くと
少なくとも一文字に近くはなった。
でもなあ、もう77歳、後期高齢者だ。あの頃の垂れ方とは違う。
元総理の村山富市さんほどではないが、ひょろりと伸びたものが何本かあり
毛先がたらりと垂れている。唾をつけ横に引いても、あの頃のようにはいかない。
            
        

毛にはヘアサイクルというものがあり、一定期間で抜け落ち、生え変わるのだが
年を取るとそのサイクルが狂い、抜け落ちないまま伸びていくことがあるそうだ。
多分、それだろう。
人相学では眉に1、2本特別に伸びた毛を『彩』と呼び、本人に限らず身内に
ずば抜けた成功者が出るという話もある。
つまり吉相なのだそうだ。
だから必ずしも嘆くこともない。
とは言え、シワ、シミに加えて目尻が下がり、おまけに眉が垂れてくると
人相はやっぱり老人そのものである。
鏡をのぞき込み、ついため息をついてしまう。
指先で整えようとしても、ダメなら放っておくしかないか。
老人はこうしてどんどん老いていくのだろう。
                            
いや待て。
今の若い連中はハサミなり、剃刀を使って眉をかっこよく整えているじゃないか。
そう言えば鼻毛カット用の小さなハサミがあった。
どうしようか。こんな爺が……ためらいがアンチエイジングの邪魔をする。
母は「ほれ、ほれ」としつこい。
仕方がない。指先を舌で湿らせ、眉をきっと横に引いた。