男が切なくなる時
普段家にいない夫が1日中在宅するようになると
妻は大きなストレスを抱えるようになり、それが原因で
胃潰瘍や高血圧をはじめとする身体的症状
それにうつ・パニック障害など心理的症状を引き起こす
『主人在宅ストレス症候群』なるものを初めて耳にし、
すぐにネットで検索してみたら、こんなことだった。
そうであれば、長年仕事一筋だった夫が定年を迎えた
その時も要注意ということなのだろう。
実際、このケースが多いのだそうだ。
長年経済界の第一線で活躍されたAさん。
間もなく80歳を迎えるとあって、後進に道を譲るべく退かれたのだが
たまにランチをご一緒したりしている。
そんな昼時の話である。
「ご無沙汰しています。お変わりありませんか」
型通りに始まった会話は、その後ほろ苦い笑いの連続となった。
まず、Aさんの返事である。
「ええ、ええ、〝妻の部下〟となって元気でやっておりますよ」
「何なのです。その〝妻の部下〟というのは?」
笑いながらも、我が身を省みればおおよそ見当がつく
何とも切ない話なのである。
「僕にはこれといった趣味もないし、ゴルフも腰を悪くして
ドクターストップ中です。たまに昔の仲間と食事する程度で
どうしても家に居る時間が長くなる。すると妻が『掃除機をかけろ』
『家の外回りを掃除しろ』などと、あれこれ命令するわけです。
まさに妻の部下ですよ。
しかも、なぜか日が経つにつれ妻の機嫌が悪くなりましてね…」
「なるほど。そう言えばある本に書いていましたね。
家というのは、仕事一筋で家庭を顧みなかった僕ら男に代わり
妻がコツコツと築き上げてきた、まさに城なのだそうです。
そこへ定年退職した亭主が、3食付きで転がり込んでくるわけでしょう。
それで3食用意しなければならなくなるし
また妻には女性同士の楽しい世界もあるようで、その時間も削り取られる。
機嫌が悪くなるのも分からないではありません」
「ついに『昼か夜、どちらか1食はご自分でお願いします』との
宣告ですよ。弱りました。料理なんかやったことがありませんからね。
せいぜいソーメンを茹でるくらいです。それで友人に尋ねてみたんです。
『お前のところはどうか』とね。彼も『似たようなものだ』と言い
その彼が『主人在宅ストレス症候群』というものがあるらしい
と教えてくれたんです。いやはやです。何のため懸命に働いてきたのか…」
「『オレの稼ぎで…』なんて言おうものなら、
『あなたが何の心配もなく仕事に打ち込めたのは、子育てはもちろん
何から何まで私がこうして家庭を守ってきたからでしょう』
と切り返されるに違いありませんしね」
「そう言われると反論もできないし、さてどうしたものやら。
ご覧なさい、このレストラン、男は僕らだけですよ」
顔を見合せ、小さな切なさを共にしたのだった。