長い人生には、人それぞれに進むべき道が変わる、
何度かの転機があるものだ。
それを幸いだったとすることもあろうし、
逆に「あんなことさえなかったら……」などと悔やむこともあるだろう。
それでも人は、七転八倒しながらも生きていくのである。
「そがん こまか体じゃ野球は無理ばい。そいよか、オイと一緒に体操ばせんか」
中学1年生の夏、同じ中学校で器械体操部の主将を
していた2つ違いの兄がそう言った。
振り返れば、僕にとりそれが最初の転機だったのかもしれない。
野球少年だった。小学3年生の頃から、グローブと軟球がいつも側にあり、
放課後は毎日のように同じ野球好きの同級生とボールを追っていた。
大して娯楽のない時代。僕にとり野球が唯一の楽しみだった。
もちろん中学生になると、ためらわず野球部に入った。
だが、打球は悲しくなるほど弱々しく、
外野まで飛ぶことはほとんどなかったのである。
野球をあきらめた。そして、勧められるままに器械体操を始めたのである。
すると、小さな体に向いたスポーツなのだろう、
上達するほどにどんどんのめり込み、高校、大学と続けた。
大学は教育学部を選択したが、立派な教師になろうとの志あってのことではない。
単に器械体操を続けるにはこの学部が都合がよかったからだ。
一方で、その選択は本人の思いとは関係なく、
「将来は教職に就く」ことを半ば定めたに等しかった。
だが、定められたかのように見える道が絶対不変というわけではない。
その道を真っすぐに進まず、左へ、あるいは右へと進路を変える、
そんな転機が図らずもやってくることがままある。
実は、教育学部に学んだものの、学年を重ねるごとに
教職というものが適職だとは思えなくなった。
「他に進むべき道を」そんな迷いの中にいた卒業の年の1月、
さる知人が「新聞社が求人広告を出している。受けてみたらどうか」
と知らせてくれたのである。
これが教師から記者へと進路を大きく変える、
もう一度の転機をもたらしたのだ。
78年間を振り返り、そして今を思い、
「教師への道を捨て、記者の道を選んだのは正しかったのか」
自問してみれば——満点とは言えないまでも、間違えたとは思えない。
幸いなことである。これも兄と知人のお陰であろう。素直に感謝する。
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