世襲議員
「世襲議員の数を減らそう」は「世襲改革」とでも命名しましょうか。もっともこの改革、世襲議員が過半数になる前にやっておかないと、不可能になります。
本当は、世襲議員の方ではなくて、後援会の方にメリットが大きい場合が多いんじゃないか、と私は思っていますけれどね。「忠誠を尽くす」美しい姿と「実利」との両方が「世襲」の場合には一挙に実現可能ですから。
それとも、衆議院を貴族院とか元老院に改名します? 世襲を名称から制度化してしまうと言うわけで、これも一つの「解決策」ですが。
【ただいま読書中】
『原子力と地域社会 ──東海村JCO臨界事故からの再生・10年目の証言』帯刀治・熊沢紀之・有賀絵理 編著、野村俊佐久 装画、文眞堂、2009年、1900円(税別)
1999年9月30日、東海村でJCO臨界事故が起きました。本書は、昨年2月に、茨城大学が東海村と共同で開催した講義の講義録です。聞くのは、茨城大学と福島高専の学生、そして市民・東海村職員・原子力事業者たち。
私見ですが、学生を主体にするのは素晴らしいアイデアです。利害関係の立場を越えての本当の意味での(日本では希有な)“議論”が期待できる可能性がありますから。
ちなみに講師は、東海村の係長・村長、内閣府原子力委員会委員長代理、茨城大学研究員・教授・准教授・講師、電力中央研究所研究員、福島高専准教授、(元)水俣市長。公開討論ではフロアからも活発な質問が出ます。
第一報を受けた村役場が困ったのは、情報不足・シミュレーション不足・縦割り行政、でした。非常時には、国→県→市町村で決定が下ろされることになっていて、当時の法律では村が独自に動いてはいけなかったのです。しかし、わかりやすいように時系列に並べてみると……
10時35分 事故発生
11時33分 村に第一報(「三人被曝、臨界事故の可能性あり」) 災害対策連絡会議を招集
12時15分 村に対策本部設置(その直前に栃木に出張中の村長を呼び戻す)
12時30分 村内に屋内退避を通達
14時30分 科学技術庁が対策本部設置
15時ころ JCO近隣の住民の避難開始、政府が対策本部設置
16時ころ 県が対策本部設置
18時20分 臨界停止
18時30分 原子力安全委員会が会議を開始
で、村の対応(勝手に屋内退避や避難を始めたこと)が「フライングだ(国の指示を仰いでいない)」と非難されたそうです。村長は「国や県が遅すぎる」とケロッとしていますが。(現在は災害特措法で、地元からの情報発信もOKになっているそうです)
本書では「安全神話」からの脱却が語られます。花火工場は火薬の爆発事故に備えて頑丈な防爆施設を必要としますが、JCOは人家から80mのところに普通の発泡コンクリートの“町工場”を作ってそこでウラン溶液を扱っていたのです。「絶対安全だ」→「だから万一に備える必要はない」というリクツです。
地球温暖化と原子力発電の関係から「二酸化炭素の増加と地球温暖化には相関関係はあるが、因果関係はあるのか?」なんて話題も飛び出しますし(これがまたけっこう説得力があります。実は私も「今が間氷期であることも考える必要がある」派ですが)、風評被害の深刻さ、チェルノブイリでの汚染土壌の後始末(水溶性高分子によって土壌を固めたそうです)、良いリスクコミュニケーションと悪いリスクコミュニケーションの実例(リスクコミュニケーションとは、専門家が無知な住民を教育指導することではなくて、コミュニケーションを通じて共に考え行動することだそうです)、避難経路のダイナミックな検討(道路だけではなくて、高低差や混雑も加味すると、通常の3倍の時間を見た方がよいそうです)、神戸の震災復興の過程、そしてラストが水俣です。水俣? 1956年は、水俣病が公式に確認された年であり同時に東海村に原子の灯がともった年でもあります。水俣市は「公害の地域」として衰退しましたが、公害は住民の健康を破壊しただけではなくて、地域社会を徹底的に破壊しました。住民は「チッソ反対派」と「チッソ擁護派」に分裂し、さらに外部からの差別が加わります。内部でも患者差別が行われます。吉井さんは市長就任直後、まず行政としての謝罪を行います。市と住民が患者に対して行なった道義的な罪に対しての謝罪です。それによって、行政と患者や患者団体との対話が復活し、対立していた患者団体(当時16あったそうです)間での対話も生まれ、結果として1995年水俣病の政治解決が実現しました。そこで市長は「もやい直し」(停泊した船の舫綱が絡んでしまったのを、一度ほどいて繋ぎ直すこと)を提案します。崩れてしまった内面世界を再構築する市民の意識改革です。価値観が違う市民たちが共存できる社会を構築しよう、と。具体的には「環境モデル都市作り」です。
リスクコミュニケーションでも「もやい直し」でも、大切なのは「住民の意見を聞く」ことです。「地域」は人の集合体だから、暴力的な外力によって壊されてしまった地域を再生させるためには多様な住民の力を生かすことが重要、という、新鮮なしかし当たり前のような結論でした。
「世襲議員の数を減らそう」は「世襲改革」とでも命名しましょうか。もっともこの改革、世襲議員が過半数になる前にやっておかないと、不可能になります。
本当は、世襲議員の方ではなくて、後援会の方にメリットが大きい場合が多いんじゃないか、と私は思っていますけれどね。「忠誠を尽くす」美しい姿と「実利」との両方が「世襲」の場合には一挙に実現可能ですから。
それとも、衆議院を貴族院とか元老院に改名します? 世襲を名称から制度化してしまうと言うわけで、これも一つの「解決策」ですが。
【ただいま読書中】
『原子力と地域社会 ──東海村JCO臨界事故からの再生・10年目の証言』帯刀治・熊沢紀之・有賀絵理 編著、野村俊佐久 装画、文眞堂、2009年、1900円(税別)
1999年9月30日、東海村でJCO臨界事故が起きました。本書は、昨年2月に、茨城大学が東海村と共同で開催した講義の講義録です。聞くのは、茨城大学と福島高専の学生、そして市民・東海村職員・原子力事業者たち。
私見ですが、学生を主体にするのは素晴らしいアイデアです。利害関係の立場を越えての本当の意味での(日本では希有な)“議論”が期待できる可能性がありますから。
ちなみに講師は、東海村の係長・村長、内閣府原子力委員会委員長代理、茨城大学研究員・教授・准教授・講師、電力中央研究所研究員、福島高専准教授、(元)水俣市長。公開討論ではフロアからも活発な質問が出ます。
第一報を受けた村役場が困ったのは、情報不足・シミュレーション不足・縦割り行政、でした。非常時には、国→県→市町村で決定が下ろされることになっていて、当時の法律では村が独自に動いてはいけなかったのです。しかし、わかりやすいように時系列に並べてみると……
10時35分 事故発生
11時33分 村に第一報(「三人被曝、臨界事故の可能性あり」) 災害対策連絡会議を招集
12時15分 村に対策本部設置(その直前に栃木に出張中の村長を呼び戻す)
12時30分 村内に屋内退避を通達
14時30分 科学技術庁が対策本部設置
15時ころ JCO近隣の住民の避難開始、政府が対策本部設置
16時ころ 県が対策本部設置
18時20分 臨界停止
18時30分 原子力安全委員会が会議を開始
で、村の対応(勝手に屋内退避や避難を始めたこと)が「フライングだ(国の指示を仰いでいない)」と非難されたそうです。村長は「国や県が遅すぎる」とケロッとしていますが。(現在は災害特措法で、地元からの情報発信もOKになっているそうです)
本書では「安全神話」からの脱却が語られます。花火工場は火薬の爆発事故に備えて頑丈な防爆施設を必要としますが、JCOは人家から80mのところに普通の発泡コンクリートの“町工場”を作ってそこでウラン溶液を扱っていたのです。「絶対安全だ」→「だから万一に備える必要はない」というリクツです。
地球温暖化と原子力発電の関係から「二酸化炭素の増加と地球温暖化には相関関係はあるが、因果関係はあるのか?」なんて話題も飛び出しますし(これがまたけっこう説得力があります。実は私も「今が間氷期であることも考える必要がある」派ですが)、風評被害の深刻さ、チェルノブイリでの汚染土壌の後始末(水溶性高分子によって土壌を固めたそうです)、良いリスクコミュニケーションと悪いリスクコミュニケーションの実例(リスクコミュニケーションとは、専門家が無知な住民を教育指導することではなくて、コミュニケーションを通じて共に考え行動することだそうです)、避難経路のダイナミックな検討(道路だけではなくて、高低差や混雑も加味すると、通常の3倍の時間を見た方がよいそうです)、神戸の震災復興の過程、そしてラストが水俣です。水俣? 1956年は、水俣病が公式に確認された年であり同時に東海村に原子の灯がともった年でもあります。水俣市は「公害の地域」として衰退しましたが、公害は住民の健康を破壊しただけではなくて、地域社会を徹底的に破壊しました。住民は「チッソ反対派」と「チッソ擁護派」に分裂し、さらに外部からの差別が加わります。内部でも患者差別が行われます。吉井さんは市長就任直後、まず行政としての謝罪を行います。市と住民が患者に対して行なった道義的な罪に対しての謝罪です。それによって、行政と患者や患者団体との対話が復活し、対立していた患者団体(当時16あったそうです)間での対話も生まれ、結果として1995年水俣病の政治解決が実現しました。そこで市長は「もやい直し」(停泊した船の舫綱が絡んでしまったのを、一度ほどいて繋ぎ直すこと)を提案します。崩れてしまった内面世界を再構築する市民の意識改革です。価値観が違う市民たちが共存できる社会を構築しよう、と。具体的には「環境モデル都市作り」です。
リスクコミュニケーションでも「もやい直し」でも、大切なのは「住民の意見を聞く」ことです。「地域」は人の集合体だから、暴力的な外力によって壊されてしまった地域を再生させるためには多様な住民の力を生かすことが重要、という、新鮮なしかし当たり前のような結論でした。