【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

知/痴

2009-11-06 17:55:51 | Weblog
 「自分は頭が良い」という自負のある人が、何か多くの人が気づかなかった問題点を指摘して得意そうにしている、という図はこの世で多く見られます。実際に「頭が良い」から他人が気がつかない何かに気がつくことはあり得るでしょう。でも、それは単に注意力や記憶力が良いだけかもしれません。
 問題点の指摘はあくまで「出発点」で、そこでどんな対策が取れるかに関して非常に感心できることを言えることがたぶん「知性のある証拠」ではないかと私は考えます。

 天に唾してしまったかしら。
 まあ私は自分の頭はそれほど良くはないと思っているから、大丈夫(?)。

※ついでですが、中世ヨーロッパのスコラ哲学や神学論争では、知的な作業とはすなわち言葉による重箱の隅つつきでした。しかし、フランシス・ベーコンが「言葉ではなくて事実(観察や経験)に注目せよ」と主張し、これによって思想の近代が始まっています。今どきの(少なくともベーコンよりあとの)人が理論的な重箱の隅つつきばかりしていたら、「お前は中世の住人か」と言われても仕方ないです。

【ただいま読書中】
君主論』マキアヴェリ 著、 池田廉 訳、 中公クラシックス、2001年、1450円(税別)

 マキアヴェリとかマキアヴェリズムと言ったら、たいていは悪口で使われます。ミュージカル「キャッツ」でもマキアヴェリから名前を取ったと思われるマキャヴィティは血も涙もない稀代の悪党でした。本当にそうなのか、彼が書いたものを読んで確かめてみたいと思ったので、読むことにしました。
 15世紀末、イタリアは政治的に危機的状況にありました。内部では、ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ・ローマ教皇領・ナポリの五大強国が他の小国を巻き込んで対立し、外部からはイタリアを脆弱な文化の花園と見て虎視眈々と狙う勢力(シャルル8世やルイ12世やフェルナンド5世など)が侵攻しようとしています。実際にイタリアの各国は傭兵に頼っており軍事的には脆弱でした。そういった情勢下、フィレンツェ政庁の官僚となったマキアヴェリは有能な官僚政治家となりますが、冤罪で囚われ釈放後は隠棲します。そこで書かれたのが『ディスコルシ(論考)』と本書です。前者は自由な共和制を理想とし、後者は「臨戦体制の国家での君主のあり方」を論じています。はたしてマキアヴェリが“理想”としたのは共和制なのか君主制なのか、という議論もあるそうですが、「現実」をまず見据えることを優先し、その上で「理想」「思想」を語ろうとしたのではないか、と私には感じられます。あるいは、「たった一つの真実」ではなくて「真実の一面」を容赦なく描いたのではないか、と。さらに当時は「政治」がまだ未熟で「宗教」や「道徳」から独立していなかったことも忘れてはならないでしょう。だとしたら「政治目的のためにはいかなる反道徳的な手段も許されると説くなんで、なんて“悪い奴”だ」とマキアヴェリを道徳的に非難するのは“的外れ”になりそうです。「道徳的非難」自体が、マキアヴェリの主張からは遠いものなのですから。
 本書の構成はシンプルです。1)国の分類と、その征服と維持の手段 2)攻撃と防衛に関する軍事的側面 3)君主の資質 4)イタリアの危機的現状の分析、危機を乗り切る君主の待望論 の4部構成で、一つのテーマを設定し対象物を分類し、手段一つ一つの得失を検討します。まるで科学論文です。手法だけ見ると私はスピノザを連想します。スピノザは数学的でマキアヴェリは歴史的手法という違いはありますが「論理」が芯を貫いている点は共通ですので。
 さらに本書を読んでいるとまるで著者と対話をしているような気分になってきます。著者の主張を読んでいると疑問を持ちますが、すると「○○だと思う人がいるかもしれない。しかし××なのだ」と著者が自ら問答と解説をしてくれるのです。著者にとって見据えているのは「現実」、それも多数の異なる意見や欲望を持った人で構成されたものだから、異論があるのは当然、だったのでしょう。

 さて、いくつか引用をしてみましょう。ただしあくまで「引用」ですので、できたらその前後も読まないと著者を誤解するのがオチです。念のため。

・いかに強力な軍事力を持つ君主でも、ある地方に侵攻するには、その地域住民の支援を取り付けることが大切である。
・人はささいな侮辱には仕返ししようとするが、大いなる侮辱に対しては報復しえないのである。
・民衆に何かを説得するのは簡単だが、説得のままに民衆をつなぎとめておくのがむずかしい。そこで、人々がことばを聞かなくなったら、力でもって信じさせるように、策を立てなければならない。
・同郷の市民を虐殺し、仲間を裏切り、信義や慈悲心や宗教心も持ち合わせない事がらを、君主の徳などと呼ぶことはできない。たとえこういう手段で支配権を握ることはできても、栄光を手にすることはできない。
・残酷さがりっぱに使われたというのは、自分の立場を守る必要上、残酷さを一挙に用いて、そののちそれに固執せず、できるかぎり臣下の利益になる方法に転換する場合を言う。一方、下手に使われたとは、最初に残酷さを小出しにして、時が経つにつれて、やめるどころかますます激しく行使する場合をさす。
・恩恵は、より良く人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。
・民衆の願いは、貴族の狙いより、はるかにまじめなものであって、貴族の望みは抑えつけることだが、民衆は抑圧されないのを願っているだけである。
・何ごとにつけても善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々の中にあって、破滅せざるをえない。
・大事業はすべて、けちと見られる人物の手によってしかなしとげられてはいない。
・人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。
・君主は、たとえ愛されなくても良いが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられなければならない。なお、恨みをかわないことと、恐れられることとは、りっぱに両立する。
・だまそうと思う人間にとって、だまされる人間はざらに見つかる。

 どうです? これが「マキアヴェリズム(の一部)」です。