昔からマスコミに愛用されている常套句の一つですが、政治ってそもそも「金」を扱う社会的技術の一つではありませんか? 国家予算だって「金」なんですから。
どうして「汚い金」「怪しい金」「非倫理的な金」「金で公私混同」などときちんと限定せずに言葉を用いないのでしょう? 「金」とおおざっぱにまとめるのではなくて「まともな金」は調査できちんと除外するのもマスコミの仕事の一つだと思うのですが、どうしてその手間を惜しむのでしょう?
【ただいま読書中】『検証長篠合戦』平山優 著、 吉川弘文館、2014年、1800円(税別)
通説では、長篠合戦は「武田騎馬軍団」を「織田・徳川連合軍の鉄砲三段撃ち」が撃破した、ということになっていますが、最近はその通説に対する批判がされるようになっています。本書では著者は「文献の検討」から始めます。従来「信憑性が高い文献」として『信長記(太田牛一)』や『三河物語(大久保忠教)』が挙げられ、『甫庵信長記(小瀬甫庵)』は信憑性が薄い、とされていました。しかし著者はその「従来の考え方」にも疑念を呈します。信憑性がない文献(単なる軍記物)として扱われてきた『甲陽軍鑑』にも史料的価値があるのではないか、という考え方も紹介されます。
そもそも織田方にどのくらい鉄炮(鉄砲)があったのでしょう。本願寺との戦いで、本願寺が鉄砲衆を揃えたのに対抗して大量発注したことはわかっていますが、実は詳しい文書が残っていないのです。ただ、当時のシステムとして、たとえば鉄砲衆は大将直属のものとその家臣の武将配下のものとが別に存在していたのを、織田家は選抜して統一された「鉄炮衆」としてまとめて運用するようにしていたのが特徴的です(「諸手抜」と呼ばれました)。長篠合戦の直前には、合戦に参加しない武将にも命じて鉄砲足軽を出させていますが、それに応じた細川藤高は100名・筒井順慶は50名、ですから、通説の「鉄砲3000丁」はあながち不可能な数字ではなさそうです。対する武田家も、実は鉄砲採用は早かったのですが、本願寺に“鍛えられ”た信長とは違って、そこまでの大量運用の経験はありませんでした。ただし、川中島の戦いで鉄炮衆を使った記録はあります。また、民間では猟師が早くから鉄炮を採用していましたから「鉄砲の威力を知らなかった」ことはあり得ません。
長篠で発掘された鉄炮玉はほとんどが鉛製でしたが、面白いことに輸入物がけっこう含まれています(国産では量が足りなかったようです)。となると、輸入物を入手しやすいかどうかで装備に差が出ます。もちろん堺を押さえている織田が有利です。火薬についても、武田は量を揃えるのに苦心していました。鉛も足らず、増量のために錫との合金にしたり銅銭の中で悪銭を鋳つぶして弾丸(銅玉)にしています(それを集めるための文書と実物が残っています)。
次は「騎馬軍団」。従来「日本の馬は小柄で力が弱い」「戦いで騎馬武者は下馬して戦う」が通説となっていましたが、「小柄で力が強い」「下馬して戦うのは西国の作法で東国は違う」から、「武田の騎馬軍団は実在した」と著者は主張します。
次は「馬防柵」。織田方は「尺木(胴回り30cmの木材)」で柵を作り、木から払った枝で逆茂木を設置、さらに空堀や土塁まで構築していました。つまり「野戦での決戦」を「陣城に対する攻城戦」にと戦いの性格を変化させていたのです。城を攻めるには何倍かの兵がいるのでしたよね。ところが兵数では武田の方が少数。これでは勝てないでしょう。武田にチャンスがあるとしたら、野戦での決戦に持ち込むしかなかったはずです。
そして「三段撃ち」。熟練した兵は15秒で次弾の装填ができたことや、輪番で撃つことは長篠以前から常識的な戦法だったことから、織田信長オリジナル戦法がここでデビューした、ということではなさそうです。それに、最初は一斉射撃であとは各個射撃、としても、兵の練度の違いや当時の銃は規格がバラバラで装填時間に差が出るから、結局集団としてみたら連続的な射撃になりそうです。
「通説」というのは頭に定着するとなかなか動かなくなります。だけど「通説」も「通説に対する異論」も同じ舞台に並べて、それぞれを同じ価値を持つと思われる史料で試してみる、という態度は、私には“正しい”もののように思われます。だけど、タイムマシンも欲しくなりますね。体がそこまで行くことができなくても、映像を見るだけでも良いですから。