日本に火縄銃がもたらされたとき、ポルトガル船はまず琉球に寄港してから種子島に到着しました。幕末の「黒船」ペリー提督もまず琉球に寄港してから日本を目指しています。日本の歴史の教科書では「琉球」はなるべく無視するように書かれていますが、世界の「海」の住人からは、「日本」よりも「琉球」の方が実は“大きな存在”だった、という可能性はないでしょうか?
【ただいま読書中】『琉球からみた世界史』村井章介・三谷博 編、山川出版社、2011年、3200円(税別)
2007年の史学会第105回大会公開シンポジウム「琉球からみた世界史」のまとめです。古代から琉球処分まで、琉球から世界史を見たらどのようなものが見えるか、様々な視点からの論文が掲載されています。
硫黄島と言えば、太平洋戦争での激戦地で知られていますが、実は薩南諸島にも「硫黄島」が存在していました(種子島の西側)。そこの特産である硫黄が、日宋貿易での主力輸出品だったのではないか、という指摘から本書は始まります。なお、平家物語で俊寛たちが島流しになった「鬼界ヶ島」の候補として、この「硫黄島」も上げられているそうです。
明との冊封関係で琉球が繁栄したことはよく知られています。倭寇に悩んだ明は海禁政策によって海上貿易のルートを自ら閉じてしまいました(海禁令は清でも継続されます)。そこで琉球が「冊封」を名目に明と東南アジアをつなぐ重要なパイプ(中継貿易の拠点)として働いたわけです。建国後もモンゴル残存勢力との戦いが継続していた明にとって、琉球からの馬や硫黄という“軍需物資”はとても重要でした。単なる貿易関係ではなくて軍事同盟的性格もこの「冊封」は持っていたようです。ヤマトと琉球は、同じ明の冊封で対等のはずですが、両者の文書のやり取りではヤマトの方が優位に立っていたようです。そして、応仁の乱で琉球・京都の直接の連絡が絶たれると、島津氏の存在が重くなってきます。ただし島津氏はまだ九州の覇者ではなく、琉球の方が優位に立っていました。その力関係を維持するためには、九州(や西日本)が群雄割拠状態であることが望ましく、軍事ではなくて貿易によって琉球はその状態を維持するように関与しようとします。
1609年琉球王国は薩摩藩の侵攻に敗れ、中国との冊封関係は残したまま薩摩藩の支配を受けるという二重支配になります。琉球史では1609年から1879年の「琉球処分(沖縄県として日本に編入される)」までを「近世」と呼び、それ以前の「古琉球」と区分しています。
19世紀には、ヨーロッパ人が次々琉球を訪れます。ペリーは浦賀来航の前後に5回も琉球に寄港していますが、それは琉球が重要な補給基地として機能したからでしょう。ペリーには、太平洋で覇権を争う米・英・露の争いには絶対に勝利しなければならないという使命がありました。また、サンフランシスコ=上海の蒸気船航路にとって、琉球は重要な寄港地になる、という将来構想もありました。そこでペリーは琉球でも「砲艦外交」を繰り広げようとします。対する琉球は、軍事力がありませんから平和外交で「柔よく剛を制す」を狙います。艦隊の水兵たちのレベルは低く、住民に対する強姦や発砲が相次ぎましたが、結局犯人は罰せられずうやむやに。なんだか現代の沖縄問題と二重写しに感じられます。
そして「琉球処分」。「日本」国内では激しい議論が行われましたが、そこで問題になったのは「国王の身分」でした。廃藩置県でかつての藩主はすべて華族として扱われます。しかし「国王」は「藩主」ではないから華族にするのはおかしいかおかしくないか、という議論であって、琉球の人びとの話などだれも論じる必要があるとは思っていなかったようです。「近世」の外交関係では、「タテマエ」としての冊封関係に誰も公然と異議を唱えなければそれがそのままタテマエとしてまかり通るものでした。しかし明治政府は「タテマエはあるが、琉球は実質は日本の支配下にある」と公然と宣言したわけです。これは「東アジアの外交関係」の「近代化」だったのだそうです。欧米列強が進出する中で東アジア的な外交上の「タテマエ」が尊重される保証はなかったから、明治政府としては焦っていたのではないか、とも思えます。文学では「近代化」とは「多義的な意味」から「言語と意味が一元化」される過程なのだそうですが、政治・外交においても「多義的な意味」が「一元的な解釈」へと変容することが「近代」だったようです。琉球人には迷惑だっただろうとは思いますが。
西欧でも、一国家一言語とか「近代化」が進められていましたが、今はむしろ「近世的」な「価値の多様化」「他民族が共存する世界」なんて動きも進行中です(それに逆らう「近代化」(たとえば「ネオナチ」「イスラム国家」など)も頑強に行われていますが)。すると「琉球」から得ることができた視点で「世界史」を眺めたら、世界の明日が見えてくるかもしれません。