【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

民事警察

2019-09-05 06:50:13 | Weblog

 「警察は民事には介入しない」とよく聞きます。しかし、最近話題の幼児虐待やDV、ヘイトスピーチなど、「まだ刑事事件にはなっていないが、境界領域にある事柄」はいくらでもこの社会に満ちています。といって、警棒と拳銃を持った警察官がそれらすべてに介入するのも、たしかに変。だったら、交番に「民事警察官」も配置したらどうでしょう。で、境界領域のあれこれから「これは事件の匂いが強いぞ」だけ「警察」につないでもらう。もしかしたら夫婦げんかの仲裁などで忙しくなるかもしれませんが、市民の側から見たら「トラブルの相談窓口」としてとても頼もしく思えそうです。

【ただいま読書中】『戦国武将を育てた禅僧たち』小和田哲男 著、 新潮社、2007年、1100円(税別)

 幼少期に禅寺に預けられて養育された戦国大名はけっこういます。武将のブレーンに禅僧も目立ちます。戦国大名と禅宗とは密接な関係があったようですが、それはなぜでしょう?
 (のちの)北条早雲は若い頃禅僧を目指して禅寺(京都の建仁寺と大徳寺)で修行していました。ところが読んでいたのは中国伝来の兵法書。それを一休宗純が苦々しく思っていたことが彼の著作に残されています。逆に早雲を「武勇の禅人」と肯定的に評する人も大徳寺にいました。
 禅僧は五山文学で鍛えられていて、その訓話(特に君子論や統治論)は真っ直ぐに戦国武将の心に届いただろう、と著者は推測をしています。その根幹には儒学の教えがあります。これは君子論ですから戦国武将にはありがたいものだったことでしょう。
 鎌倉時代に北条氏は臨済宗に深く関わり、以来禅宗の中でも臨済宗は時の政治権力と結びついて「五山」を中心に発展しました。しかし室町中期から、座禅を重視する「林下」(大徳寺、妙心寺など)の活動が盛んになり、地方の戦国大名はそちらと結びつくようになります。大名は「教え」を得ることができ、寺は荘園以外の収入源を確保でき、ウィンウィンの関係です(「五山」は荘園経営が難しくなって経済的破綻に見舞われる運命でした)。
 戦国大名の「必須教科」は「馬」と「茶の湯」でした。そして「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」という言葉の通り、茶は禅と一体となっていました(そもそも茶を日本にもたらしたとされる栄西は臨済宗の僧ですし、茶器を中国から日本にもたらしたのも禅僧たちでした)。
 足利義持の後継者を選ぶのに「くじ」が使われた、は有名な話ですが、このときくじを引いた義持の弟たち4人が、すべて「寺」に入れられていた、ということに著者は注目しています(それぞれ、天台宗、真言宗、臨済宗、梶井門跡です)。大名は後継者を確保することも仕事の一つです。しかしたくさん候補者がいたら紛争が起きます。そこで片っ端から寺に入れておいて、もしも後継者がいなかったら、寺にプールしておいた人材の中から一人選択をする、というシステムが機能していたのでしょう。そしてそれは、将軍家だけではなくて、地方の大名たちでも事情は同様でした。今川家初代の今川氏親は三男〜五男を寺に入れました(長男は病弱だったので、次男は“スペア"として手もとに置いたようです)。氏親は宗派にこだわりを持っていないようですが、若狭武田氏は五山に集中させています。“人材プール"だけではなくて、子を出家させれば一族が滅んでも菩提を弔う人が残っている、という“安心"が大名には得られますし、寺は大名からの保護が期待できます。
 子供には教育が必要、ということで、禅僧は教育者も兼任することになります。教材は主に四書五経。これが後世の寺子屋につながっていきます。
 徳川家康は、今川家の「人質」時代に、雪斎(今川義元を養育した禅僧)をつけられて教育を受けました。その教材には、四書五経だけではなくて兵法書も入っていたようです。この雪斎は、自ら兵を率いて大将として出陣したこともあります。なんだか、すごい坊様です。さすがに「大将」は珍しいのですが、合戦に従軍する禅僧(陣僧と呼ばれました)はたくさんいました。戦場で倒れたとき、僧に拝んでもらって極楽往生を、という願いが侍の側にはありました。また、死体処理係や医者としての側面を陣僧は持っていました。加持祈祷や吉凶の占いも僧の役目です。今川氏や甲斐武田氏の軍勢では、およそ100名の兵に一人の割合で陣僧がいたようです。けっこうな数ですが、寺の側には陣僧を提供する義務(あるいはそれを免除される特権)がありました。
 飛脚も僧の役目でした。出家した人間はどこの味方でもない、という建前から、僧は身の危険なく日本のどこにでも手紙を届けることができたのです。これは「使僧」と呼ばれます。安国寺恵瓊は最初は毛利氏の使僧として活動していましたが、やがて外交交渉も担当するようになりました。最終的には六万石の大名になるのですから、この人も大した僧です。
 仏教嫌いと言われる織田信長にも禅僧の教えの影響がある、とか、面白い記述が次々登場します。
 データにきちんと基づいた歴史って、やはり面白いですね。