たとえ確率が低くても起きたらとんでもなく重大な結果を招くこと(たとえば原発の事故)に対しては、とことん考えられるだけの予防措置を可能な限りしておく、がリスク管理の常道です。ところが今回の裁判では、東京電力幹部の明らかな「未必の故意」に対して「100%津波が来る、とは言えなかったから、何もしなかったのはOKOK」と裁判所のお墨付きが出ました。
この裁判官って、自分の判断が100%正しい、という自信があって判決文を書いたんですかねえ。少なくとも私から見たら「東電幹部も裁判官も明らかにリスク管理の勉強が足りないのを屁理屈で誤魔化しているだけ」と思えるのですが。
【ただいま読書中】『殴り合う貴族たち ──平安朝裏源氏物語』繁田信一 著、 柏書房、2005年、2200円(税別)
源氏物語や平家物語から、私たちは「雅な貴族の世界、野蛮で残酷な武家の世界」という印象を持ってしまいます。しかし、それは本当でしょうか?
本書の巻末に11〜12世紀に渡る「王朝暴力事件年表」がありますが、貴族による殺人・強奪・集団暴行・監禁・強姦・邸宅破壊……いやあ、貴族もけっこう“野蛮"です。
まず紹介されるのは、万寿元年(1024)七月十七日、権右中弁藤原経輔と蔵人式部丞源成任のとっくみあいの喧嘩です。しかし場所がすごい。内裏の中枢である紫宸殿で、後一条天皇が相撲観戦をしているすぐそばなのです。この話を聞いた小野宮右大臣藤原実資は前代未聞だと嘆息しています。さらに4日後には藤原経輔が源成任を一方的に「打ち凌じ」ています(と藤原実資は日記に残しています)。この現場も内裏で、這々の体で源成任は蔵人の控え室に逃げ込みましたが、藤原経輔の従者たちは外からがんがん控え室を破壊してしまいました。
藤原家と蔵人とでは、同じ貴族でも身分には天と地ほどの較差があります。殿上人の藤原経輔としては、復讐される心配はほとんどない状況での暴行だったのでしょう。
藤原経輔と同じ「藤原道隆の孫」である藤原道雅は「荒三位」の異名を取る暴れん坊でした。彼は「いまはただ/思ひたえなん/とばかりを/人づてならで/いふよしもがな」の名歌で知られています。この歌は禁断の恋(臣下と皇女の恋は禁止でした)として引き裂かれてしまった自分の思いを詠ったものだそうですが、こういった「身分の壁」に対する鬱憤を「暴れること」で晴らそうとしていたのかもしれません。
貴族の従者には、兵(つわもの、武士のようなもの)もいましたが、多くは武道には素人、しかし荒くれ者が揃っていました。主人の言うことなど聞かず、乱暴狼藉をして、もしそれでひどい目に遭ったら集団で復讐に出かける連中です。それが主人から「○○の家で暴れてこい」と言われたら、これはもうストッパーが外された暴力集団です。まず掠奪をしてから邸宅を破壊してしまった、の例がいくつか本書には紹介されています。
「幼稚で凶悪な御曹子たち」の章では、藤原道長一族が取り上げられています。道長自身もあまり学がなくて行儀が悪い“御曹子"ですが(『御堂関白記』(道長の日記)を一読したらその学の無さはすぐわかります)、その息子たちの多くもまた素行の悪さでは父親以上であることを誇りました。彼らの、実に幼稚な動機による暴力沙汰は、読んでいてため息しか出ません。
「源氏物語」や「枕草子」からは、内裏での女房の生活は(表面上は)穏やかなものだったようなイメージですが、たまには暴力沙汰もあったようです。道長の日記には、三条天皇の女房の一人が「闘乱」を起こした、と記録されています。相手は男で、翌日検非違使が現場検証をしている、ということは、けっこうな事件のようです。もっとも捜査資料は残されていないので、事件の詳細についてはよくわからないのですが。
なお本書は、角川ソフィア文庫で入手可能です。