諮問の「諮」って、唯々諾々の「諾」となんだか似ていますね。実際問題として、政府の方針に委員会が明確に異を唱えたことって、どのくらいあるのでしょう?
【ただいま読書中】『電子立国日本の自叙伝(中)』相田洋 著、 日本放送出版協会、1991年、1456円(税別)
日本電気でトランジスタ製造を始めた頃、良品の生産歩留まり率があまりに悪いため、「トランジスタ製造は、工業ではなくて、農業か漁業だ(あるいは名人芸を必要とする芸術だ)」と内部では悪口を相当言われていたそうです。トランジスタ研究を始めようとした人に対して「研究費は出さない。仕事以外の時間に勝手にやれ」と言い、研究が成功して製造ができるようになったらその歩留まりの悪さを責めまくる……なんだか、先見の明とか協力体制とか部下にとってありがたいアドバイスとかにまったく縁がない上役が、どこにでもいるものだ、と私は感じます。ついでですが、通産省も「日本にトランジスタ産業が根づくはずがない」と、産業の成長を(参入企業の数を絞ったりアメリカ企業との提携を禁止したり)せっせと妨害しました。
やっと得られた「良品」のトランジスタも、空気中の湿度に非常に鋭敏で、すぐに性能が劣化しました。今は樹脂で封じる技術がありますが、昔は「真空」を使いました。真空容器にトランジスタを封じ込めて性能を保持していた……つまりは「真空管の中のトランジスタ」です。想像すると笑っちゃいます。ただこれでは、コスト度外視の軍事用ならともかく、民生用としては使えません。それでもプレーナ型トランジスタが登場して劣化の問題はほぼ解決します。日本のトランジスタは急成長、昭和34年には生産量がアメリカを抜いて世界一になりますが、その原動力は農村出身で目が良く手先が器用な「トランジスタ孃」でした。しかしアメリカは、軍事と宇宙に大量に使うために、温度変化に弱いゲルマニウムではなくて安定しているシリコントランジスタに舵を切っていました。
ゲルマニウムトランジスタラジオで大成功した東京通信工業はラジオの商標の「ソニー」に会社名を改めていましたが、こんどはシリコントランジスタをテレビのために必要としていました。そこで国際的に通用するシリコントランジスタが開発されますが、ここで開発者が直面したのが日本の「国産蔑視外国崇拝」の態度です。そのため外国に売り込んでそこで高い評価を得たら初めて日本で売れるようになる……つまり「自分では何も評価せず、評価は外国の受け売り」のが日本のスタンダード。これでは国産技術は育ちません。
1956年マウンテンビューの谷間でショックレー半導体研究所が操業を開始します。「シリコンバレー」の始まりでした。もっとも、本当にシリコンバレーを作ったのは、ショックレー研究所で運営方針をめぐる対立から集団退社した若手たちが作ったフェアチャイルド社(とそこからスピンオフでできた多くの会社)だったのですが。
1960年ころから電子回路の組み立てが問題となりました。トランジスタと他の部品を何千個何万個も結線する手間と時間が大変になったのです。また、部品の小型化にも限界があることがわかってきました。そこで登場するのが、1958年にテキサス・インスツルメンツ社にスカウトされてきたジャック・キルビーです。彼は、トランジスタ・抵抗・コンデンサを一枚の半導体基板にまとめて作り込んでしまおう、というとんでもない発想で開発を始めました。できたものは最初は「集積回路(IC)」ではなくて「ソリッドサーキット(固体電子回路)」と呼ばれていたそうです。1961年に製品として売り出されたICに最初に飛びついたのは米空軍でした。コンピューターが小さくなるのは嬉しいことですが、もっと嬉しいのは、ミサイルに誘導コンピューターが搭載できるようになることだったのです。
ICの成功を見て、様々な人や企業が製造に参入します。しかし、真空管製造で成功した大企業は軒並み失敗。過去の成功体験が邪魔をしたのです。もっとも参入しなかった企業はもっとはやく落ちぶれていったのですが。
この「新技術で大成功して大企業になったところは、さらに新しい技術が登場したらそれに乗れずに落ちぶれていく」現象は、これからも繰り返されることになります。