【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

政府の諮問委員会

2020-05-03 15:45:07 | Weblog

 諮問の「諮」って、唯々諾々の「諾」となんだか似ていますね。実際問題として、政府の方針に委員会が明確に異を唱えたことって、どのくらいあるのでしょう?

【ただいま読書中】『電子立国日本の自叙伝(中)』相田洋 著、 日本放送出版協会、1991年、1456円(税別)

 日本電気でトランジスタ製造を始めた頃、良品の生産歩留まり率があまりに悪いため、「トランジスタ製造は、工業ではなくて、農業か漁業だ(あるいは名人芸を必要とする芸術だ)」と内部では悪口を相当言われていたそうです。トランジスタ研究を始めようとした人に対して「研究費は出さない。仕事以外の時間に勝手にやれ」と言い、研究が成功して製造ができるようになったらその歩留まりの悪さを責めまくる……なんだか、先見の明とか協力体制とか部下にとってありがたいアドバイスとかにまったく縁がない上役が、どこにでもいるものだ、と私は感じます。ついでですが、通産省も「日本にトランジスタ産業が根づくはずがない」と、産業の成長を(参入企業の数を絞ったりアメリカ企業との提携を禁止したり)せっせと妨害しました。
 やっと得られた「良品」のトランジスタも、空気中の湿度に非常に鋭敏で、すぐに性能が劣化しました。今は樹脂で封じる技術がありますが、昔は「真空」を使いました。真空容器にトランジスタを封じ込めて性能を保持していた……つまりは「真空管の中のトランジスタ」です。想像すると笑っちゃいます。ただこれでは、コスト度外視の軍事用ならともかく、民生用としては使えません。それでもプレーナ型トランジスタが登場して劣化の問題はほぼ解決します。日本のトランジスタは急成長、昭和34年には生産量がアメリカを抜いて世界一になりますが、その原動力は農村出身で目が良く手先が器用な「トランジスタ孃」でした。しかしアメリカは、軍事と宇宙に大量に使うために、温度変化に弱いゲルマニウムではなくて安定しているシリコントランジスタに舵を切っていました。
 ゲルマニウムトランジスタラジオで大成功した東京通信工業はラジオの商標の「ソニー」に会社名を改めていましたが、こんどはシリコントランジスタをテレビのために必要としていました。そこで国際的に通用するシリコントランジスタが開発されますが、ここで開発者が直面したのが日本の「国産蔑視外国崇拝」の態度です。そのため外国に売り込んでそこで高い評価を得たら初めて日本で売れるようになる……つまり「自分では何も評価せず、評価は外国の受け売り」のが日本のスタンダード。これでは国産技術は育ちません。
 1956年マウンテンビューの谷間でショックレー半導体研究所が操業を開始します。「シリコンバレー」の始まりでした。もっとも、本当にシリコンバレーを作ったのは、ショックレー研究所で運営方針をめぐる対立から集団退社した若手たちが作ったフェアチャイルド社(とそこからスピンオフでできた多くの会社)だったのですが。
 1960年ころから電子回路の組み立てが問題となりました。トランジスタと他の部品を何千個何万個も結線する手間と時間が大変になったのです。また、部品の小型化にも限界があることがわかってきました。そこで登場するのが、1958年にテキサス・インスツルメンツ社にスカウトされてきたジャック・キルビーです。彼は、トランジスタ・抵抗・コンデンサを一枚の半導体基板にまとめて作り込んでしまおう、というとんでもない発想で開発を始めました。できたものは最初は「集積回路(IC)」ではなくて「ソリッドサーキット(固体電子回路)」と呼ばれていたそうです。1961年に製品として売り出されたICに最初に飛びついたのは米空軍でした。コンピューターが小さくなるのは嬉しいことですが、もっと嬉しいのは、ミサイルに誘導コンピューターが搭載できるようになることだったのです。
 ICの成功を見て、様々な人や企業が製造に参入します。しかし、真空管製造で成功した大企業は軒並み失敗。過去の成功体験が邪魔をしたのです。もっとも参入しなかった企業はもっとはやく落ちぶれていったのですが。
 この「新技術で大成功して大企業になったところは、さらに新しい技術が登場したらそれに乗れずに落ちぶれていく」現象は、これからも繰り返されることになります。

 


黄色人種には独創性はない

2020-05-03 15:45:07 | Weblog

 19世紀より前、欧米列強には「清国にはたしかに文明や文化のように見えるものがあることはある。しかし彼らはキリストを信じない上に、我々を文明国家人として特徴付ける独創性がない」という見方が支配的でした。人種差別と清国を侵略する行為の自己弁護、と私は見ますが、当時の欧米人は「自分たちはフェアに戦っている」と主張するでしょうね。
 昭和の末頃、日本はGDPが自由世界二位となり対米輸出は急増、自動車や半導体生産では世界トップを誇りました。そこで「ジャパンバッシング」をする人たちが熱弁したのが「日本はアンフェアだ」「日本人は勤勉だが独創性がない」でした。日本でもそれを受けてか「DRAMの生産は確かに世界一だが、知的独創性の塊であるCPUはアメリカが世界一だ」と自虐だかアメリカへの阿りだかを表明する人がいましたっけ。
 コロナ禍の直前、中国は「世界の工場」になっていましたが、そこでも言われたのは「中国はアンフェアだ」でしたね。「独創性がない」はあまり聞かなくなったように私は感じていますが、それは中国人に独創性があるようになったのか、悪口を言う側が言い飽きたのか、どちらかかな?
 しかし、1世紀以上黄色人種に似たような悪口を言い続ける態度は、独創性がある、とは言えませんね。

【ただいま読書中】『電子立国日本の自叙伝(上)』相田洋 著、 日本放送出版協会、1991年、1456円(税別)

 現在「半導体」の原料はシリコンです。それが大量に採掘される現場を求めてNHKの取材チームはノルウェーのタナ鉱山に飛びます。そこで採掘される「石」のシリコン含有率は世界最高水準の46%。鉱山から出荷されるときの値段は1トンあたり2640円。ほとんどは人件費だそうで、ということは「石」そのものはほとんどただです。ノルウェーの水力発電は昔から有名ですが、その豊富で安価な電力を使って電気炉でシリコンが精錬され、純度92%になります。それを化学処理すると純度98%の粉末シリコンになりますが、1トンあたり21万6000円。その輸出の7割が日本向けでした。しかし半導体製造に使うには、純度が「99.999999999%」である必要があります。日本でシリコンの超高度精製をする工場は4つ。どこも独自のノウハウの塊で、だから取材は難航を極めています。
 そこまで純度を高めておいてから、意図的に「不純物」を混ぜて求められる電気特性を獲得させてからシリコンは平たい「ウエハー」に形作られます。これでやっと「LSIの土台」ができたわけです。
 これ、30年前の番組ですが、今放送しても面白く視聴できるのではないかな。30年前にはパソコンは「オタクの遊び道具」でしたが、いまスマホは生活必需品ですから。
 1906年真空管が発明されました。1960年代の我が家のラジオはまだ真空管ラジオで、トランジスタを使ったものは「トランジスタラジオ」と別に呼ばれていました。最初のトランジスタは1947年に登場。専門家には衝撃を与えますが、一般人にはその意味はわかりませんでした。しかし技術はどんどん進歩しトランジスタはLSIへと進歩します。私が初めてLSIを触ったのは80年代初頭。APPLE][のメモリー増設にLSIを買って来て自分で基板にはめ込みました。
 面白いのは、アメリカからの情報で「トランジスタ」を知った日本人たちが「それがどんな原理で動いているのか」さえわからないのに(というか、アメリカでもそれがわかっている人はほとんどいない状態でした)、トランジスタに夢中になってしまったこと。ただし彼らは非常に少数派で、日本電気でも東芝でも「真空管をやっていれば良いんだ」とトランジスタ研究自体が妨害されていました。それでも熱心な人は、勝手に勉強をします。論文は文も図も筆写です。江戸末期に勝海舟が辞典を筆写したことを思い出します。インタビューである人は「筆写した紙は重ねると2mになる」とさらりと言います。巻紙の長さじゃないです。重ねた厚みのことです。さらに実験では、同じ条件ではできないから様々な工夫をします。すると、思わぬ発見や発明ができました。
 最初に注目されたのはシリコンではなくてゲルマニウムでした。そういえば私が小さい頃には「ゲルマニウムダイオード」という言葉が使われていましたっけ。しかし日本にゲルマニウム鉱山はありません。そこで石炭(廃液)から抽出する技術が日本で開発されます。これが世界から注目され、開発者の家に「技術を教えろ」という外国人(特に共産圏の人)が日参してきて、奥さんは不気味で恐かったそうです。
 日本の半導体は、たしかにアメリカの「模倣」で始まりました。ただ、初期の“サムライ”たちは、まず「すべて」を自力でやってみることから始めました。機械を買いそれを真似した機械を作りました、ではなくて、原料の段階からすべて、です。これはつまり、アメリカの研究者が失敗したことも同じように失敗することを意味します。しかしこういった愚直な「模倣」から「独創」が生まれてくるのは、面白い現象です。
 そして「真面目に学ぼうとする日本人」をアメリカ人は温かく迎えてくれていました。どん底からの復興を少しでも応援しようという善意の人たちです。だからそれを恩に着た人たちは、こんどはアメリカから賓客が来日したときにはお礼のために接待攻勢をかけたそうです。
 そしてとうとう「トランジスタラジオ」の登場。ここでソニーの井深さんの「歩留まりの低いものは、宝の山」という印象的な言葉が登場します。歩留まりが低いものは利益率が低く会社の足を引っ張るはずですが、だからこそソニーは大成功した、というのです。あのころのソニーはチャレンジャーだったんですねえ。