【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

小学生の放送部員は大臣になれるか?

2020-05-21 07:22:17 | Weblog

 今回のコロナ禍で「使える知事」がある程度「普通の知事」や「使えない知事」から差別化して見えてきたような気がします。で、国会でも「使えない大臣」が見えますね。たとえばどんな質問をされてもあらかじめ用意された原稿だけ読み上げてそれで仕事をしたつもりになっている人。原稿読むだけで良いのだったら、小学生の放送部員でもできるでしょう。大人には小学生以上の能力を要求したいし、大人の大臣には普通の大人以上の能力を要求したい、つまり、小学生の放送部員と同じ程度の仕事しかできない大人は、大臣はしない方が良い、が私の“三段論法”です。
 いや、実は能力はあるのに、なぜか政権中枢から「お前は小学生並みの仕事だけしていれば良いのだ」と原稿読みだけ強制されているのかもしれませんね。だったら、ある一つの適当なテーマに関して、たとえば私とフリーディスカッションをやってみたら数時間でどの程度の大臣かは判定できるのではないでしょうか。「小一時間問い詰める」になっちゃうかもしれませんが。

【ただいま読書中】『チャイコフスキー・コンクール ──ピアニストが聴く現代』中村紘子 著、 中央公論社、1988年(89年13刷)、1030円

 著者は1982年の第7回チャイコフスキー・コンクールと86年の第8回、続けてピアノ部門の審査員を務めました。約1箇月間ほぼ連日1日平均10時間世界各国から集まったピアニストの演奏を聴き続ける、という生活だそうです。ほとんど修業ですね。
 チャイコフスキー・コンクールは正式名は「チャイコフスキー記念国際コンクール」、1958年の第一回以来4年ごとにモスクワのチャイコフスキー記念音楽院(コンセルヴァトーリ)大ホールを中心に「ピアノ」「ヴァイオリン」「チェロ」「声楽」の4部門で開かれています。参加資格制限は年齢だけ(著者が本書を著した時期は17〜32才)。6月から1箇月かけて、一次予選・二次予選・本選と勝ち上がっていくシステムですが、86年のピアノ部門には34箇国から111名のコンテスタントが参加しています。(参加予定は159名だったのですが、直前のチェルノブイリの影響か、ずいぶん減りました)
 第一回の話を聞いたとき著者は中学生。ニューヨークでパンフレットを入手したジュリアード音楽院教授のレヴィン夫人は田舎に籠もった教え子のヴァン・クライバーンがこのコンクールにぴったりだと感じ、誘いの手紙を出します。この文面が、人を説得するのに必要な要素が過不足なく含まれている、という素晴らしいもの。そしてクライバーンは優勝して「アメリカのヒーロー」となり(そしてアメリカ社会に“消費”されてしまい)、レヴィン夫人はのちに著者の恩師となります。人はいろんなところでつながっています。
 最初の「国際ピアノコンクール」は1890年ベルリンで開催された第一回国際アントン・ルビンシュタイン・コンクールだそうです。無名だが才能のあるピアニスト発掘が目的だったはずですが、「年齢制限」があるのは「異常に早熟な天才や異常に晩熟の天才を排除する」目的だろう、と著者は推測しています。つまり「市場」に受け入れられる音楽家の供給です。そこで初期の段階から、国際コンクールでは、優勝者に賞金や演奏契約が与えられました。
 ところで「神童」とか「コンクールの優勝者」になるには、才能と技術だけでは不足です。著者は「幸運」も重要、と言います。ここで挙げられる“実例”には、色々思うことが多くあります。
 ……なかなかチャイコフスキー・コンクールが始まりませんね。クラシック音楽の演奏会では、演奏が始まる前の静かなざわめきの時間も楽しいものですが、本書も「タイトルに書かれた本題の前」もざわざわと実に楽しい雰囲気です。
 そして第三章「コンクールが始まる」第四章「採点メモから」など、コンクールで私たちが見たことがない“風景”の描写が始まります。審査員が控え室でサッカーの話題に興じている(ちょうどサッカー世界選手権と時期が重なるのです)、なんてことは、その場にいないとわかりませんよね。
 そして、著者の危惧「コンクールというシステムは、ピアニストから何か大切なものを奪っている場合があるのではないか」に私は考え込んでしまいます。「音楽」と「商業」が結合しているのですから、そこには当然「搾取の原理」が働いていてもおかしくはないのですが、私自身はその“利益”を享受する立場にあるものですから、コンクールがなくなるのはちょっと困る、という自己中心的な理由が強いのです。