昨夜妙な夢を見ました。夢の中で「『人は一本の蘆である』は誰の言葉だったっけ?」と考えているのに、どうしても「パスカル」が出てこないのです。こんな有名な固有名詞が出てこないとは、ああ、歳を取って呆けてきたか、と悲しい思いをしていると、「たとえばフェルマーから連想したら出てこないか?」という“ヒント”が出されます。自分一人でボケてそこに自分が柔らかくツッコミを入れている、という一人漫才の体ですが、夢の中のことですから私は別に不思議には感じません。
フェルマーねえ。フェルマーの最終定理は蘆には無関係だろうし、そもそもパスカルは哲学者、おっと数学者でもあったな、パスカルとフェルマーの往復書簡から「確率論」が形作られたのは数学界では有名な話だった……というところで目が覚めて、さっそく「おいおい、ちゃんと『パスカル』(とフェルマー)って言ってるじゃないか」と私は夢の中の私に盛大にツッコミを入れました。
【ただいま読書中】『アノスミア ──わたしが嗅覚を失ってからとり戻すまでの物語』モリー・バーンバウム 著、 ニキ リンコ 訳、 勁草書房、2013年、2400円(税別)
食べものの繊細な味わいを愛し、学校卒業後に料理人の修業を始めたばかりの著者は、交通事故で多数の骨折や脳挫傷などの重傷を負います。やっと回復してきたとき、著者は自分が嗅覚を失っていることに気づきます。アノスミア(嗅覚脱失)です。そしてそれは味覚の減退も起こしていました。
嗅覚が失われると味覚も落ちる、というのは不思議です。味覚は味蕾で感じるもののはずですから。もちろん味蕾の五味(塩味、甘味、苦味、酸味、うま味)は生き残っています。しかし、嗅覚が失われると、その五味“しか”感じることができなくなってしまうのです。著者は「ステーキと暖めた段ボールの区別がつかない」と表現します。実際、風邪で食欲が落ちるのは、発熱などのせいもあるでしょうが、鼻が詰まって嗅覚が落ちることで食事の味が落ちてしまうことも関係あるかもしれません。
プロの料理人への道は断たれ、それどころが、自分の人生さえ失ってしまった、と著者は打ちのめされます。喪失の悲しみに暮れる日々の後、著者は「残されたもの」を数え始めます。まず、トウガラシの辛さ。これは味覚や嗅覚ではなくて三叉神経の刺激だから(味覚と言うよりも痛覚刺激だから)わかります。そして、触感と温度と色彩。これもわかります。そして、松葉杖をつきながらおそるおそる台所へ。でも料理をする勇気は出ません。著者はまだ自分が空っぽだと感じます。そして、孤独の臭いを嗅ぎます。そして、まずクッキー。最初のクッキーにトウガラシ(著者にもわかる味)を入れるのには笑ってしまいます。そして、レシピを厳格に守る限りできあがりが一定であることが期待できるお菓子やパン。
そしてある日、台所で著者は「森のにおい」を嗅ぎます。手にはローズマリーの束。その臭いで、著者は過去に真っ直ぐ戻ってしまいます。まるでプルーストの『失われた時を求めて』の主人公のように。
ここで科学のお話が登場します。臭いの感覚は脳の扁桃体に直接つながっていますが、側頭葉の内側に位置する海馬にも直接つながっています。そしてその両者とも、長期記憶・感情・行動をつかさどる辺縁系の入り口なのです。他の感覚もここにつながっていますが、嗅覚とは違って他を経由してからです。だから特定の臭いによって過去の記憶が爆発的に蘇るのは、不思議ではないのです。プルーストがそれを知っていたとは思いませんが。
数日後には、どこに行っても感じる不思議な臭いが著者につきまといます。「自分の脳のにおい」と著者は直感しますが、家族は誰もそれを信じません。そして数週間後、その不思議なにおいは消えさります。そして、次に戻ってきたのは、チョコレートのにおい。それと、著者の症状だけではなくて、著者そのものに向き合い理解を示そうとする医者との出会い。
ここでまた科学の話。昆虫のフェロモン、人の性ホルモンのフェロモン的作用、そして「臭紋」(その人固有の臭い、おそらく数百種類の化合物の組み合わせで、遺伝によって決定されていて、指紋のように全く同じ人は存在しないそうです)。
単なる闘病記だったら、単なる闘病記だったでしょう。しかし著者は、自分の人生についてもけっこうあけすけに語り(ここまで明かして良いのか?とちょっと心配になります)、専門家にも会い、科学の世界についても詳しく調べています。それがこの本に(物理的にと内容的に)厚みを与えています。
「失って初めて“それ”の大切さに人は気づく」と良く言いますが、「嗅覚」もまた「大切な“それ”」でした。
一つ、また一つ、と著者は「におい」を取り戻していきます。その過程はゆっくりですが劇的です。だって「なくしたもの」が突然戻ってくるのですから。そして著者は少しずつ「世界」を取り戻していきます。嗅覚細胞は、衝撃などで簡単に死んでしまいます。しかし、神経細胞では珍しいことに、ゼロからでも再生することがあるのです。著者にはそれが起きたのでした。ただ、それは一直線の“回復”ではありません。まるで著者を焦らすように、試すように、一つ一つ、戻ったり消えたりずれたり、とらえどころがない臭いのように、嗅覚の回復も揺れ動きます。オリヴァー・サックスに手紙を書き、料理を試し、著者は自分自身を回復させる手立てを模索します。
本書で面白いのは、著者が街の情景も他人も自分のキスシーンもすべて「嗅覚」で表現することです。これ、斬新な手法です。私も真似をして、世界を嗅覚で表現してみようと目を閉じて鼻に神経を集中させてみましたが、“見え”たのは実に貧相な世界でした。
ちなみに、嗅覚に障害を持つ人は、アメリカ成人の1〜2%だそうです。しかしそのほとんどは「どうして私だけ」と不幸の臭いが充満した孤独な生活をしているのです。そして、おそらくそれはアメリカに限定した話ではないでしょう。
「におい」を表現するとき、私たちは言葉に困り、結局「○○のにおい」と言うしかありません(たとえば硫黄は「腐った卵のにおい」、バナナは「バナナのにおい」)。すると、たくさんのにおいを嗅いでそれを記憶の中にしまっておいた人は、それだけたくさんのものと出会って生きていた、ということになります。つまり嗅覚は「人生の記憶」も担当しているのかな? ところが著者は、嗅覚が復活して「それぞれのにおい」はわかるようになったのに、その「におい」と「もの」とを結びつける能力がなくなっていました。「嗅細胞」と「記憶」とが分断されてしまったのです。これはもどかしい。それでも著者は、自分と世界の結び付きを取り戻す努力を続けます。この努力の力強さに私は心打たれます。それと、著者の自己観察が徹底していることにも。ここまで自分を客観視できるとは、著者はただ者ではありません。さらに、嗅覚を取り戻しても、著者は「以前の自分」ではない「異なった自分」となっています。彼女の人生は、ここからまた新しく始まっていくのです。