【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

花火大会

2020-07-20 07:19:05 | Weblog

 今年は花火大会はどこも中止ですよね。あまりに残念ですが、せめて写真でも見て心を慰めようと、図書館から借りてきました。

【ただいま読書中】『花火のえほん』冴木一馬 写真・著、 あすなろ書房、2008年、1200円(税別)

 まずは打ちあげ花火の構造の解説から。花火玉の中には二種類の火薬が入っています。「割薬(割り火薬)」と「星(星火薬)」です。前者は空中で花火玉を割り、星を遠くへ飛ばすための火薬で、星よりも粒が小さく形成されています。星は花火玉が破裂してから、光や色・煙を出しながら飛び散る火薬の粒です。
 星を作るためには、星かけ機という斜めに設置された回転釜で、菜種などの芯のまわりに火薬を少しずつ付けていきます。なんだか金平糖を作る作業に似ています。次に、ボール紙を固めて作った半球状の入れ物(玉皮)に外側から、星と割薬を交互に層状に詰めていき、半球分がぎっしり詰まったらそれを二つ合わせて球状にします。
 花火の大きさは「号」で表現され、2号〜40号まで様々なものがあります。30号が直径90cmということは、「号」は「寸」のことですね。
 打ち上げには、打ちあげ筒が用いられます。その底に打ちあげ火薬をセット、上からそろそろと花火玉を詰め、点火をしたら、打ちあげ火薬の爆発で打ち上がると同時に導火線に点火して上空に行ってから花火玉が爆発、となるわけです。
 「黒玉」という業界用語も紹介されています。これは、不発弾のことです。花火師は、打ち上げの時には花火玉が割れたかどうか見ていて、割れなかったものは、花火大会終了後に必ず捜索をするそうです。残しておいたら危ないですもんねえ。
 スペイン、アメリカ、イタリア、中国の花火も紹介されていますが、それぞれ個性があります。中国では花火玉の大きさは一種類で、青は使わない、というのはなぜなんだろう?
 昭和半ばの花火大会は、「たまや〜」「かぎや〜」というかけ声が似合うようなゆったりしたタイミングで打ちあげられていました。連発は一番最後だけ。それが今では、迫力はありますが、なんだかやたらと「感動しろ」「感動しろ」とせっつかれているような連発だけとなっています。いや、文句を言いたいわけではありませんが、風情よりも感動の時代なんですね。

 


自転車で飯を食う

2020-07-20 07:19:05 | Weblog

 「自転車で飯を食えるようになる」と言えば、ヨーロッパだったら「ツール・ド・フランス」などを目指すことになるでしょうが、日本だったら競輪選手でしょう。では、アメリカでは? アフリカでは?

【ただいま読書中】『健脚商売 ──競輪学校女子一期生24時』伊勢華子 著、 中央公論新社、2015年、1500円(税別)

 タイトルでまずひと笑い。『剣客商売』のもじりですか? もっともあちらは「けんきゃく」ではなくて「けんかく」ではありますが。
 2011年に競輪学校は女子36名を第一期生として受け入れました。
 ところが「女子の競輪選手」はこれが初めてではありません。1949年に競輪が始まったとき、「ミス・ケイリン」と呼ばれる女子選手が開幕から3年で669人もいたのです。ただし人気はすぐに消え、女子選手の募集は5期で終了しました。それどころか、16年目に突然女子競輪は「廃止」となったのです。男子選手は5000人以上に対して女子選手は600人程度。層が薄く、ギャンブルの魅力の一つ「波瀾」が生じにくいレースばかり、が人気が落ちた理由でした。常に本命が勝つのだったら、興奮はありませんから。しかし、当時の選手の話では、そんなに楽にレースをしていたわけではなさそうです。まず親や世間の無理解と戦い、レースでは当時の女子には許されていた「競り(身体をぶつけ合うこと)」で身体は傷だらけ。落車したら死ぬかもしれません。「レース」は大変な商売なのです。
 そして48年。「競輪学校の女子第一期生」が募集されます。応募したのは実に多様な人たちでした。父親が競輪選手なのでその後を追って・オリンピックのケイリンでメダルを目指して、はなんとなくわかりますが、これまで自転車で競技をしたことがない人では、他のスポーツをしていて新たな挑戦を・高校生・教師・モデル・主婦……19歳から49歳までと年齢もばらばら。
 競輪学校は、修善寺の山奥にあります。寮では、携帯電話やパソコンは使用禁止。3食で4000キロカロリーが義務づけられています。著者はそこに自分も泊まり込んで個別にインタビュー。さらに彼女らを取り巻く人たちについても取材をします。色々な人が選手に関わっています。自転車店・コーチ・メカニック・所属チーム・スポンサー……そうか、選手は一人で走っているのではないんだ。
 そういった話を読んでいると「現実はきびしい」と思います。スポーツは「アマチュア」と「プロ」に大別されます。しかし、アマチュアでも「趣味の延長」と「チャンピオン・スポーツ」とは別物です。後者は世界で勝つために行うスポーツで、頭の中はプロと同じなのです。しかし金は稼げません。生きるためにバイトに励むと、練習時間が減ります。自転車一台70万円の世界で、これは大変です。
 「競輪」と「ケイリン」はまったく別の競技だそうです。「競輪」では、同郷の選手が数人チームを組みます。ラインの先頭は風圧が激しく(台風並みだそうです)消耗するので大体若手が担当。ラインの後ろの先輩たちは他のチームの選手を体当たりでブロックして若手が抜かれないように援護します。その動きを読むことで、ファンは車券を買います。だから「競輪」は「記憶のスポーツ」とも呼ばれるそうです。対して「ケイリン」は、各国の選手がばらばらに参加するため、チームを組んだり誰かのために犠牲になったりの動きは一切ありません。単に自分がいかに速く走るか、だけ。
 「ツール・ド・フランス」や「ジロ・デ・イタリア」では、「チーム」があり、集団の先頭を走って風圧を引き受けるとか自己犠牲のストーリーがありますね。「競輪」はそういった長距離自転車競技のスプリント版、ということになるのかな。
 オリンピックへの夢が潰れた人、Vリーグのバレーボールで夢が叶わなかった人、アパレルのOLが趣味で自転車を始めたら深みにはまった人……様々な人が集い、競輪学校を無事卒業できたら「勝負!」の世界に入っていきます。その中には、オリンピック代表に挑戦する人もいました。
 「競輪」は、競技場の“中”でだけ行われているのではなくて、日本全体、さらには地球規模にまで広がったスポーツであることが、本書一冊でもわかります。女子選手だけでこれなのですから、それより数がはるかに多い男子競輪は、一体どんな世界なんだろう、と私は興味を持ってしまいました。