【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

正論/『かかしと召し使い』

2009-06-20 17:48:54 | Weblog
 「泥棒をしてはいけません」は“正しい”ことばです。
 では、普通に暮らしている(違法行為などしていない)人に向かって人前で大声で「あなたはこれから泥棒なんかしてはいけませんよ」と言うのは“正しい”行為でしょうか。「これまで」もしていない/「これから」も泥棒はしてはいけない、はもちろん“正しい”ことばですが、人前でわざわざそう言う行為はきわめて不自然で失礼なものに私には思えます。
 この手のことばで有名なのはアメリカの「あなたは明日からは奥さんを殴りませんね?」かな。イエスと言ったら「昨日まで殴っていたのね」、ノーと言ったら「明日から殴るのね」になってしまう。

【ただいま読書中】
かかしと召し使い』フィリップ・プルマン 著、 金原瑞人 訳、 理論社、2006年、1500円(税別)

 戦争で荒れ果て、ブッファローニという家にすべてを支配された国。ある夜、雷が畑に立つかかしを直撃します。その拍子にかかしは生命を得てしまいます。ただし、頭はカブ、脳みそはひからびたエンドウ豆ですから大したことは考えられません。ただ「内なる確信」があるだけです。それと、スプリング谷への強い思い。
 かかしは戦争孤児のジャックに出会います。そこでの会話がまた抱腹絶倒。
「若者よ」かかしはいった。「ひとつ提案があるのだ。見たところ、正直でやる気のある若者のようだな。そして、このわたしは冒険心と才能あふれるかかしだ。そこでどうだろう、わたしの召し使いにならないか」
「どんなことをすればいいんですか?」
「わたしとともに世界じゅうをまわるのだ。そして、使い走りをしたり洗濯をしたり料理をしたり、そのほかいろんなことで、私の役に立ってほしい。かわりに私があたえられるものは、わくわくぞくぞくする体験と名誉だけだ。ときに食べものに不自由することはあるかもしれないが、冒険に不自由することは決してないだろう。さあ、若者よ、どうかね?」
「なります」ジャックは答えた。

 さて、以後二人(一つと一人?)は、山賊と戦い旅回りの劇に出演し、かかしは恋に落ち(それも踊る箒と)失恋し、戦争に参加し(かかしはなんと大尉になります)……そしてそのあとを怪しい弁護士が追い回します。さらに、カラスも。
 思いこみが激しく我慢ができず信じ込みやすいかかしは、行く先行く先でトラブルを引き起こします。賢いジャックはそのフォローに回り事態を収める、と言いたいところですが、かかしに振り回され、事態が収まるのは本当に運がよいから、としか言えないような状態の連続です(もちろんドンキホーテを思い出しますが、本書はあれよりも、面白さも毒もパワーアップしているように思います)。
 さらにかかしは、鳥を追うのが本来の業務ですから鳥を目の敵にしていますが、卵やヒナは敵とできない性格です。戦いのさなかでもひな鳥や巣を守ろうとします。余計なことを、とジャックはため息をつきますが、実はこれが重大な伏線(ヒント終了)。
 そして最後に裁判です。かかしが出廷して、自分自身の所有権について闘うのです。相手はまさに国のすべてを所有しようとするブッファローニ判事。さて、この裁判の行方は、そして毒水に汚染されようとするスプリング谷の運命はいかに。
 いやもう、これまた子どもだけに読ませておくのはもったいない本です。是非ご一読を。



ハイブリッドカー

2009-06-19 18:20:47 | Weblog
 最近話題のハイブリッドカー、トヨタのプリウスとホンダのインサイトが良い勝負をしています。両者(両車)のデザインは極似しているのですが、私が受けるイメージは「なんか違うぞ」。単なる印象でその「違い」が何なのか言語化ができなかったのですが、最近少しわかったような気がします。
 先日、ベンツのCタイプの後ろについてしばらく走ってずっとそのお尻を眺めていて、なぜかプリウスを連想しました。ところがインサイトは連想しません。これは不思議、と思っていて、昔クラウンを見ていて、ベンツ(の大きい奴)を連想したことを思い出しました。トヨタはもしかしたら、ベンツと同じ香りの車を作っているのかもしれません。ですからプリウスもCタイプと同じく「技術力があるからコンパクトに作ってあるけれど、本当はもっとでかいんだぞ」の“無念さ”が漂ってくる、と。対してインサイトは、シビック・フィット・初代インサイトからの流れで「すべてを割り切ってこれで必要十分でしょ」が伝わってくるのではないか、と。
 車には詳しくない単なる印象論ですし、こんなことを考えながらプリウスとインサイトを眺めている人はあまりいないでしょうけれど。

【ただいま読書中】
遠すぎた星 ──老人と宇宙2』ジョン・スコルジー 著、 内田昌之 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1668)、2008年、840円(税別)

 普通新兵ものは、無知で未熟な若者が戦場で成長(変化)する姿を描写します。読者は、戦場という過酷な運命の場でその新兵がどのような人生を送るのか(何を強制され何を自由意志で貫くのか)をともに経験することになります。ところが『老人と宇宙』(07年10月29日の読書日記)では、新兵は老成した人間でした。なんというか無茶苦茶で魅力的な設定です。本書はその続編です。
 いがみ合っていた三つのエイリアン種族が、なぜか不気味な連合を形成します。目的は人類の殲滅。そしてそのキーとなったのは、人類の科学者ブーティンの裏切りでした。そこで地球人は、ブーティンのクローンを作成しそこに彼の精神記録をダウンロードして、なぜ彼が裏切ったのかを探ろうとします。しかしダウンロードは失敗、ディラックと名付けられた「彼」は、特殊部隊「ゴースト部隊」に配属されます。
 このゴースト部隊の隊員たちがとんでもない存在です。兵士として最も効率的に動けるようにDNAは極度にいじられて5本×2。クローン作業が始まって16週間で大人の体となって“出産”され、その日から活動が可能です。頭にはブレインパルと呼ばれる小さな有機コンピュータを埋め込まれていますが、それは膨大なデータベースであると同時にコミュニケーションツールでもあります。通信ができるだけではなくて、戦場では分隊すべての戦友の目を通してあたりの状況を把握できるのです。
 戦場で7ヶ月を過ごし、大切な人を失った直後、ディラックにプーティンの記憶が蘇り始めます。人類の捕虜となっているララエィ族の科学者カイネンはディラックにプーティンを復活させるかどうかの「選択」を求めます。これまで大事なことは何一つ選択することを知らず闘い続けていた戦士に、この世には「選択」というものが存在することを教えたのです。
 さらに仰天の「選択」をした兵士も登場します。宇宙環境に完全に適応した特殊部隊です。自称「ガメラン」。はい、「ガメラ」です。これでどんな格好かはわかりましたね。
 破壊された宇宙ステーション、真空の子ども部屋にぷかぷか浮かんでいる象のババールのヌイグルミ……このシーンは読んでいて切なくなります。
 作中に「過去のSF」に関する言及がたくさん登場します。そういった言及が無くてもこの作品がどんな読書(あるいは映画鑑賞)体験の上にできたものかは大体わかりますが、著者は言いたくてたまらなかったのでしょうね。自分がどのくらいそれらにリスペクトを持っているかを。

 ゴースト部隊員の名前は科学畑の偉人から適当に選択されるのだそうですが、アインシュタイン・ディラック・レントゲン・ハーヴィなどがばんばん射撃している図、は、なんともシュールです。
 本書で重要な、ハードウエアとソフトウエアだけでは人間は機能しなくて、そこに「経験」が必要、というのは、人格形成にエピソード記憶の集積が重要、を意識した記述でしょう。そこがたぶんコンピュータと人間の頭脳との大きな違い。ですから私は割とすんなりその考え方は受け入れました。……だけど、ゴースト部隊全員が合意した「イウォーク族は皆殺しにするべきだ」には、私は賛同できません(笑)。


セロ/『おとなの箸袋おりがみ おかわり』

2009-06-18 18:32:01 | Weblog
 世の中はお笑いブームだそうですが、手品もまた新しいブームを迎えているように思います。
 私が好きな手品師の一人が、セロです。彼はとんでもない新しいマジックもやりますが、古いマジックでも、小道具と見せ方を工夫することでとても楽しめるようになっています。なにより手つきが鮮やか。あれは本当に修練のたまものでしょう。

 この前テレビでやっていたのは、トランプを13枚提示して視聴者が自由にカードを選び、あとはセロが言うように画面に並べられたカードの上を移動をしていくと、結局全員が同じカードに落ち着く、というマジックでした。数字を一つ選んでそれにいろいろ計算を加えていくと自動的に一つの数字に導かれる、手品と言うより論理操作のマジックがありますが、それのトランプ版。自由意志でいろいろやっているように思わされていますが、セロが何か条件をつけるたびに選択肢がどんどん狭められて、最終的には一つの所に全員が落ち着くようになっています。最後にセロが一つのカードを示しますが、そのときには視聴者は自分が最初に選んだカードが何だったかよりも最終的に「まさにそのカード」にたどり着いたことに驚く、という仕組みです。
 ところが私たち夫婦は別のことに驚いていました。13枚のカードから最初に1枚を選ぶ時、二人はまったく同じカードを選んでいたのです。それだけだったら確率は1/13ですから驚くことではないかもしれませんが、「そのカードを選んだ理由」もまったく同じだったのですから。
 長く一緒にいると発想が似てくるのかもしれません。あら、家内がなんだか嫌そうな顔をしています。私のようなごく普通の人間と似るのは別に悪いことじゃないと思うんですけどねえ。

【ただいま読書中】
おとなの箸袋おりがみ おかわり』しがり朗 著、 主婦の友社、2009年、998円

 これは「読書」と言えるのかな、タイトル通り箸袋での折り紙の本です。「おかわり」はつまり第二巻の意。最初はおとなしく、ハート箸置き・イカ・カニ・ネコ・象・カタツムリ、で始まりますが、中盤が、キューピッドの矢・カップル・ソファー・ベッド・ブラジャー・指輪・結婚式・家……なるほど、こうやって相手の注意を引いて盛り上がっていけ、と。そのへんはお子様ではなくて「おとなのおりがみ」の所以なんですね。
 折り紙に興味のある人、コンパでささやかに注目を浴びたい人にはお勧めです。私は目と指が辛くて見ただけで満足でしたが。


検証/『虚報の構造 オオカミ少年の系譜』

2009-06-16 18:46:04 | Weblog
 朝日新聞には現在「検証 昭和報道」が連載されています。で、5・15事件あたりのところではこう書いてあります。「軍人のプライドと国民の熱狂が暴力を容認するなか、新聞は抗する力を失っていった。」……「悪いのは軍と国民。新聞は頑張ったが力が足りなかった」と言いたいようです。軍を批判した政治家などを、軍の尻馬に乗って責め立てて辞職に追い込んだこと、などは気にしていないようです。そもそも新聞抜きで国民が“熱狂”できたと思っているのだろうか。

【ただいま読書中】
虚報の構造 オオカミ少年の系譜』井沢元彦 著、 小学館、1995年、1500円(税別)

 朝日新聞の誤報・虚報がこれでもか、と出てきます。朝日の虚報で私がすぐに思い出すのは「北朝鮮は労働者の天国」「文革万歳」「サンゴ礁の落書き」ですが、本書では「子供ずきなおじさん・スターリン」で始まります。「こども欄」に載ったソ連のスターリン首相追悼記事なのですが、「いくら情報統制されていたとはいえ、スターリン絶賛はひどい。シベリア抑留である程度はわかるだろう」と著者は批判します。ソ連国内でもスターリンについてある程度自由に言えるようになったのは1956年のスターリン批判以後ですから、ある程度は仕方ないだろう、と私はいくらか朝日に同情しますが、その次が「金正日先生ありがとう」です。1984年の北朝鮮訪問記ですが、まるで北朝鮮べったりの礼賛記事になっているのです。まあ、記者の事情もわかります。取材の自由はなくて当局からもらう材料で書くしかないし当局のご機嫌を損ねたら自分だけではなくて後からくる自社の人間にも迷惑がかかりますから。でもそれって、ジャーナリストではなくてサラリーマンの発想ですね。今の記者クラブでも同じようなことを呟きながら記者たちは“仕事”をしているのでしょう。
 警察官が犯人(容疑者)を射殺することを厳しく批判しながら、自社が襲われたときには武装した警官に警護してもらっていたことはどうなんだ、と著者は言います。(そういえば自衛隊を批判しているピースボートも、ソマリア沖では自衛官に警護してもらったんでしたね) 言うこととやることがあまりに乖離している態度が著者にはお気に召さないようです(私も好きではありませんが)。1977年の「日本診断 敗者復活戦」という記事を扱ったところでも笑ってしまいました。この記事の内容は「受験戦争は行きすぎている。大学卒とか学校名とかにこだわらず、広く人材を活用することを考えろ」というまっとうなものです。問題は、それを載せた朝日新聞の記者の採用条件が「大卒」であること。著者は“言動不一致じゃねえか”とあきれてしまっています。

 左翼への偏向・情緒に流れる傾向・偽物の中立性・軍事知識無しで平和を語る危うさ・偽善・秘められた差別意識・無謬性へのこだわりなどの重要なキーワードが次々登場します。
 そうそう、「虚報をするのは、それを求める読者がいるから」という厳しい指摘もあります。クオリティペーパーを育てようと思ったら、読者も育たないといけないのでしょう。
 著者は、「言霊思想」(言葉が現実に影響を与える、という思想:たとえば受験生がいる家庭では「滑る」「落ちる」を言わないようにする、「縁起でもないこと」を言うことは好まれない)が日本では生きていて、しかもそのことに日本人は無自覚であることを難解も指摘します。だからこそ日本には本当の意味の言論の自由は存在しない、と。

 著者はただ「過去をあげつらっているだけ」ではありません。誤報や虚報があった場合、それをきちんと検証すること無しには、また同じことが繰り返される、という点を批判しているのです。当たり前の指摘に、私には思えるんですけどね。


カウンターにへばりつく人/『呪われた首環の物語』

2009-06-15 18:46:18 | Weblog
 またまた図書館で見かけた人、です。
 今回は若く見える女性(といっても、私から見たら40以下の人はみな「若い女性」になってしまうようですが)。要するに、制限冊数を超えて本を貸せ、と貸し出しカウンターで駄々をこねています。「全部いっぺんに読みたいんです」「はみ出たこの一冊のためにまた来いと言うんですか」はただのワガママですが、「ちょっと機械を通してくれれば良いんですよ」に至っては図書館員に不正をしろと言っています。というか、コンピュータは制限冊数以上のものははじきますから「ちょっと通す」は最初から無理です。「家族の方のカードは使えませんか? カードが無くても名前がわかれば手続きができますけれど」とカウンターの職員が言うと「夫は一杯に借りているに決まっているでしょう!」……決まってましたっけ? 「お子さんは?」「……あ、子どものカードを作れば良いんだ。じゃあすぐ作ってください」「後ろのデスクに申込書がありますからそちらで」「じゃあ、そのボールペンを貸して(職員の胸のポケットを指さしながら)」「ボールペンもデスクにありますから」
 いつまでカウンターにねちょりとへばりついているんだ、と後ろから蹴ってやろうかと思いましたが、そこで別の職員が「お待ちの方、どうぞ」と声をかけてくれたので私は犯罪者にならずにすみましたとさ。

【ただいま読書中】
呪われた首環の物語』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 野口絵美 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2004年、1700円(税別)

 湿原には、人間と巨人たち、そして変身能力を持つドリグが住んでいました。人間の長の息子オーバンはドリグの王の息子を、金の首環欲しさに殺します。ドリグは死に際に首環に呪いをかけます。呪いは不運の形でじわじわと湿原全体を犯します。
 オーバンの妹アダーラは長じて湿原に知れ渡る美しい賢女となり、卑劣なオーバンとはまったく性質の異なる男、ガー塚の長、英雄のゲストと結婚し三人の子をなしました。本書はその三人(エイナ、ゲイア、セリの一女二男)の物語として始まります。
 エイナには「先見(さきみ)の能(予言の力)」が発現しました。セリには「遠見の能」。しかし真ん中のゲイアには「能」が出現しません。ゲイアは、自分にはとりえがないと思い、内気になり、勉強に励みます。たとえ無能でも長にはならなければならないのですから。彼は〈言葉〉を操れるようになり、〈知恵〉も知ります。塚の人々はゲイアの優秀さを認めますが、ゲイアは自分が無能だと思い続けています。父のゲストはそんな息子が理解できません。
 しかし……途中で登場する巨人の名前はジェラルド・マスターフィールド、もう一人の巨人ブレンダが持っているラジオからは天気予報……あれ、あれれ? ここはケルト神話の世界ではなかったの? 私は一瞬自分がどこにいるのかわからなくなります。
 1人でいることが多くて寂しい思いをしているゲイアは、自分が他人からは他人を寄せ付けず威張っているように見られていることを知り、二重にショックを受けます。なぜか巨人のことを深く知りたいと思いますが、行動に移せません。塚山の人々がみなで狩りに出かけるのを見ながらとても悪い予感を感じますが、皆を止めることができません。塚はドリグたちに占領され、ゲイアたちは巨人に助けを求めることにします。ラジオを通じて。
 湿原は、ロンドンに住む巨人たちによって貯水池にされることになっていました。それは、ゲイアたちもも巨人も、そしてドリグたちにも大問題です。お互いにいがみ合い傷つけ合っていた三者は、協力への道を探り始めます。ただし、全員子どもです。子どもたちの会談で、世界の平和について決めようとするのです。もちろん子どもの力だけでは世界は変わりません。大人たちを巻き込まなければならないのです。武器を持った大人たちの間で、ゲイアたちは動き続けます。自分の命を賭けて。
 普通のファンタジーだったら、最終決戦があって「正義」が勝利、なのでしょう。本書でも最後に「最終の決戦」はあります。ただずいぶん風変わりな形で、ですが。
 DWJの初期の作品はけっこうストレートなものが多いそうです(実際この作品もそうです)が、そのストレートさが本書では生きています。特に最後、武器を持たない者が死を覚悟してことにあたるところ、平和ボケしている自分にはけっこう強烈です。


濡れた決まり/『時計はとまらない』

2009-06-14 17:22:22 | Weblog
 去は「キョ」と読みます。怯・佉・胠もすべて読みは「キョ」(またはキョウ)です。つまり「去」は「きょ」の音符と言えます。ところが「法」はどうでしょう。「ホウ」です。絶対に「キョ」とは読みません。……なぜ? 私は首を傾げます。
 いくら首を傾げても、知らない知識は出てきません。
 『漢字源』を引いてみました。すると「法」の元の文字はもう少しややこしくて「氵」+「タイ(「鹿の「比」を「烏」の下半分に置き換えた字)」+「去」で、「タイ」(鹿と馬に似た珍獣)を池の中の島に閉じこめて外に出られないようにした状態のことなんだそうです。意味は「ある枠(たとえば島)の中では自由だが、その枠の外には出られない」。で、そのうちに文字が簡略化されて「法」になったわけ。
 漢字の成り立ちはわかりましたが、それでも「法」の読みが「ホウ」であることに納得できたわけではありません。ただ、「法」の漢字の形は時の流れで変わっても、ホウの本質は昔も今も変わらないらしい、ことはよくわかりました。

【ただいま読書中】
ジグソーパズル入門』石井研士 著、 やのまん、2009年、1400円(税別)

 「富士山を動かすのには何日かかるか」で本書は始まります。マイクロソフト社の入社試験の一例なのだそうですが、ビル・ゲイツがジグソーパズルのファン、ということからのオープニングでした。(正解は書いてないけれど、私が答えるとしたら「一日もかからない」ですね。だって地球の動きにつれて富士山はもう動いていますから)
 ジグソーパズルは多彩です。ピースの数は、2から約21万まで(現在メキシコで100万ピースのものを制作中とか。ただしあまりに大きいものは市販はされない特注品です)。絵柄はなんでもあり。形も、平面だけではなくて立体や球体も。材質も、厚紙・布・木・プラスチック・アクリル・ガラス・金属…… 国産で一番大きいのは「バベルの塔(ブリューゲル)」147×216cmの畳二畳分(1万292ピース)。世界で市販されているものでは、「生命・偉大な挑戦」2万4000ピースで157×428cm。(宣伝サイトに各国で最初に完成させた人の写真が紹介されています(http://www.worldslargestpuzzle.com/hof3.html)。
 難解にするためには、ピースの数を増やす、ピースを小さくする(ピースから得られる情報が減る)、色を減らす(モノクロ写真、絵柄を無くして一色にする)などのテクニックが使われます。「世界で最も難しいパズル」とうたっているのはわずか529ピースのものですが、両面に無数のダルメシアン犬が描かれており、さらに表と裏で絵柄が90度ずれており、さらにピースの表裏がわからないように両面から裁断されています。つまり、表と裏とが同時にきちんとつながるように組み立てていくわけで……考えただけで、うわあ、です。アナスターシ・パズルも笑ってしまいます。150ピースくらいなのですが、絵柄が、ジグソーパズルのピースを打ち抜く刃型。実際のピースの輪郭と模様の刃型が微妙にずれて奇妙な感覚が味わえるそうです。
 日本の住宅事情を考えてか、「ジグソーパズルプチ」というシリーズもあります。ピースの大きさは1cmくらい204ピースで完成するとハガキ大で、箱の中にはピンセットが入っています。もっとすごいシリーズでは、ルーペを使いながら組み立てていくものがあるそうです。
 立体パズルも、地球儀とかボールはわかりますが、ドラえもんやビッグ・ベン、ミイラ、ステルス戦闘機とくると、どのマニアでも何かジグソーパズルへの入り口がありそうです。
 ジグソーパズルは18世紀の大英帝国で生まれました。最初は地図を教えるための教材だったそうです(名称も「解体地図」)。国や郡の境界に沿って切り出された木製のピースを組み立てるものです。アメリカでブームが起きたのは世界恐慌のときです。レンタルも登場します。高価なパズルを購入するのではなくて、ドラグストアや図書館で借りて作って楽しむわけです。1932年に厚紙を打ち抜くパズルが登場して商品のオマケとして配布され、ジグソーパズルはポピュラーな存在となります。さらに「毎週新しいパズルを安価に発売する」商売が登場し、一時200社以上がパズルを発売する大ブームとなりました。1974年東京でのモナリザ展で、モナリザのジグソーパズルが日本でのパズル熱に火をつけたそうです。(ちなみに著者は、名画のパズルは絵を見るだけではわからない細部が(文字通り)手に取るようにわかる魅力がある、と述べます) はじめは輸入品でしたが、すぐに国産が始まります。
 工場にも著者は出かけます。打ち抜きの金型は職人の手作りです。まず縦に切り、ついで移動して横に切り、最後にピースをばらすのは手作業です(海外ではオートメーション)。実はそれが日本のパズルが高品質である秘密だったのです。詳しくは、本書をどうぞ。
 学生時代、時間はあるが金がないときに、ベッドの布団の上げたところを専用製作場所にしてでかいジグソーパズルをゆっくり作っていたことを思い出しました。寝るときには布団を戻せば良いのです。今思うと、贅沢な時間の過ごし方でした。今は、そんなことができる場所も時間もありません。ちょっと悲しいな。


世襲議員/『原子力と地域社会』

2009-06-13 18:26:34 | Weblog
世襲議員
 「世襲議員の数を減らそう」は「世襲改革」とでも命名しましょうか。もっともこの改革、世襲議員が過半数になる前にやっておかないと、不可能になります。
 本当は、世襲議員の方ではなくて、後援会の方にメリットが大きい場合が多いんじゃないか、と私は思っていますけれどね。「忠誠を尽くす」美しい姿と「実利」との両方が「世襲」の場合には一挙に実現可能ですから。

 それとも、衆議院を貴族院とか元老院に改名します? 世襲を名称から制度化してしまうと言うわけで、これも一つの「解決策」ですが。

【ただいま読書中】
原子力と地域社会 ──東海村JCO臨界事故からの再生・10年目の証言』帯刀治・熊沢紀之・有賀絵理 編著、野村俊佐久 装画、文眞堂、2009年、1900円(税別)

 1999年9月30日、東海村でJCO臨界事故が起きました。本書は、昨年2月に、茨城大学が東海村と共同で開催した講義の講義録です。聞くのは、茨城大学と福島高専の学生、そして市民・東海村職員・原子力事業者たち。
 私見ですが、学生を主体にするのは素晴らしいアイデアです。利害関係の立場を越えての本当の意味での(日本では希有な)“議論”が期待できる可能性がありますから。
 ちなみに講師は、東海村の係長・村長、内閣府原子力委員会委員長代理、茨城大学研究員・教授・准教授・講師、電力中央研究所研究員、福島高専准教授、(元)水俣市長。公開討論ではフロアからも活発な質問が出ます。

 第一報を受けた村役場が困ったのは、情報不足・シミュレーション不足・縦割り行政、でした。非常時には、国→県→市町村で決定が下ろされることになっていて、当時の法律では村が独自に動いてはいけなかったのです。しかし、わかりやすいように時系列に並べてみると……
10時35分 事故発生
11時33分 村に第一報(「三人被曝、臨界事故の可能性あり」) 災害対策連絡会議を招集
12時15分 村に対策本部設置(その直前に栃木に出張中の村長を呼び戻す)
12時30分 村内に屋内退避を通達
14時30分 科学技術庁が対策本部設置
15時ころ JCO近隣の住民の避難開始、政府が対策本部設置
16時ころ 県が対策本部設置
18時20分 臨界停止
18時30分 原子力安全委員会が会議を開始

 で、村の対応(勝手に屋内退避や避難を始めたこと)が「フライングだ(国の指示を仰いでいない)」と非難されたそうです。村長は「国や県が遅すぎる」とケロッとしていますが。(現在は災害特措法で、地元からの情報発信もOKになっているそうです)
 本書では「安全神話」からの脱却が語られます。花火工場は火薬の爆発事故に備えて頑丈な防爆施設を必要としますが、JCOは人家から80mのところに普通の発泡コンクリートの“町工場”を作ってそこでウラン溶液を扱っていたのです。「絶対安全だ」→「だから万一に備える必要はない」というリクツです。
 地球温暖化と原子力発電の関係から「二酸化炭素の増加と地球温暖化には相関関係はあるが、因果関係はあるのか?」なんて話題も飛び出しますし(これがまたけっこう説得力があります。実は私も「今が間氷期であることも考える必要がある」派ですが)、風評被害の深刻さ、チェルノブイリでの汚染土壌の後始末(水溶性高分子によって土壌を固めたそうです)、良いリスクコミュニケーションと悪いリスクコミュニケーションの実例(リスクコミュニケーションとは、専門家が無知な住民を教育指導することではなくて、コミュニケーションを通じて共に考え行動することだそうです)、避難経路のダイナミックな検討(道路だけではなくて、高低差や混雑も加味すると、通常の3倍の時間を見た方がよいそうです)、神戸の震災復興の過程、そしてラストが水俣です。水俣? 1956年は、水俣病が公式に確認された年であり同時に東海村に原子の灯がともった年でもあります。水俣市は「公害の地域」として衰退しましたが、公害は住民の健康を破壊しただけではなくて、地域社会を徹底的に破壊しました。住民は「チッソ反対派」と「チッソ擁護派」に分裂し、さらに外部からの差別が加わります。内部でも患者差別が行われます。吉井さんは市長就任直後、まず行政としての謝罪を行います。市と住民が患者に対して行なった道義的な罪に対しての謝罪です。それによって、行政と患者や患者団体との対話が復活し、対立していた患者団体(当時16あったそうです)間での対話も生まれ、結果として1995年水俣病の政治解決が実現しました。そこで市長は「もやい直し」(停泊した船の舫綱が絡んでしまったのを、一度ほどいて繋ぎ直すこと)を提案します。崩れてしまった内面世界を再構築する市民の意識改革です。価値観が違う市民たちが共存できる社会を構築しよう、と。具体的には「環境モデル都市作り」です。
 リスクコミュニケーションでも「もやい直し」でも、大切なのは「住民の意見を聞く」ことです。「地域」は人の集合体だから、暴力的な外力によって壊されてしまった地域を再生させるためには多様な住民の力を生かすことが重要、という、新鮮なしかし当たり前のような結論でした。


蜂蜜/『ハチはなぜ大量死したのか』

2009-06-12 18:50:01 | Weblog
 最近上京したら、私は必ず丸ビルの地下に行きます。お目当てはそこの蜂蜜専門店。本当にいろいろな種類がそろっていて見るのも楽しいのですが、いろいろ試食させてくれるのも楽しみです。この前買って帰ったのですごかったのは「蕎麦」。真っ黒で臭くて、家族が誰も食べないから私だけパンに塗って食べてましたが、慣れると癖になりそう。次回も買って帰ろうかな。来月には遊びで上京するつもりですので。(ちなみに、今日読んだ本には「蕎麦の蜂蜜には蜂蜜では抗酸化物質がもっとも多いからのどの痛みなどに良く効く」とあります。体にも良いのね)

【ただいま読書中】
ハチはなぜ大量死したのか』ローワン・ジェイコブセン 著、 中里京子 訳、 福岡伸一 解説、文藝春秋、2009年、1905円(税別)

 蜂蜜は人類が初めて遭遇した強い甘みでした。スペインのバランク・フォンドーという洞窟には、6500年以上前の蜂蜜狩りの情景が壁画として残されています。人はミツバチを追い、その巣を煙でいぶして蜂蜜を手に入れていました。やがて蜂を飼うことが始まります。イスラエルで発掘された紀元前900年頃の人工の蜂の巣が今まで発見された中では最古のものとされています。飼育の歴史の中で、ミツバチは性質が穏和なセイヨウミツバチになります。1851年ラングストロス牧師が、蜂を殺さずに蜂蜜を得ることができるシステムを考案します。垂直に吊された巣板が並ぶ、つまりは現代の方式です。これによって蜜蜂飼いは内職から産業になります。蜜蜂は世界中で飼われるようになりますが、進化論的には「人に協力させて世界に広がった蜜蜂の勝利」だと著者は述べます。
 採餌蜂は蜂蜜を餌とします。一日動き回るので炭水化物が必要ですが、体は成長しませんし寿命はわずか6週間で体の修復も考えてないのでタンパク質はほとんど不必要です。しかし幼虫は、5.5日で1300倍になるのでタンパク質が大量に必要です。そのためには、集められた花粉を乳酸発酵させたものが与えられます。育児蜂は花粉を食べてローヤルゼリーを分泌します。女王蜂はローヤルゼリーだけを食べて2~3年間せっせと卵を産み続けます。
 一つの巣箱には5万匹の蜂がいます。このコロニーは一種の「集合知」として機能しています。仕事の分担(採餌、貯蜜、育児、巣板建設など)、情報伝達と動員のための尻ふりダンスによって、群れはそのとき最適の行動を取るのです。分蜂(巣分かれ)も、ベテランの働き蜂たちによって決定されて女王に飛び立つように促しているのだそうです。とにかく集団での意志決定なのです。ということは、この情報や行動のフィードバックのどこかを崩せば、蜜蜂のコロニーは壊滅することになります。
 蜜蜂を襲う代表がミツバチヘギイタダニです。巣に侵入したダニは幼虫の体液を吸い、結局その巣を壊滅させてしまいます。殺虫剤が使われましたが、蜂に悪影響がありダニはすぐ抵抗力を身につけてしまいます。
 2006年秋、北半球から全蜜蜂の1/4が姿を消しました。しかし、ダニのせいではなさそうです。さらに不思議なのは、ふだん巣箱を襲う天敵が、そういった働き蜂がいなくなった巣箱を襲おうとしないことです。
 この現象は「蜂群崩壊症候群CCD」と名付けられ、調査が始まりました。死体や弱った蜂を調べると、まるでエイズのようでした。免疫力がひどく低下しているのです。原因は? 携帯電話・遺伝子組み換え植物・地球温暖化・菌・ウイルス……CCDの蜂からオーストラリアのイスラエル急性麻痺病ウイルスが発見され「オーストラリア犯人説」が一時盛り上がりますが、反証が次々見つかってぽしゃります。ウイルスは要するに体の弱った蜂にとりついただけでした。やがて、農薬説が浮上します。それも微量の長期毒性の影響が。さらに複合汚染の可能性も囁かれます。となると、すぐに結論は出せません。
 蜜蜂がいなくなっても、蜂蜜を我慢すればいい? そうはいきません。風媒花(トウモロコシやオーツ麦など)や自家受粉(コーヒーなど)以外の花は基本的に受粉に昆虫を必要とします。特に大規模農場は現在蜜蜂なしではやっていけない状況になっているのです。だから、CCDによってレンタル蜜蜂の相場は高騰しています。特に高額商品のアーモンド農園で。
 本書では「蜜蜂の健康増進」についての提言があります。栄養と休養、適度な運動、豊かな自然……蜜蜂の健康を心配しているのか、それとも人間のことを言っているのか、と思います。本書は、昆虫に特化した『沈黙の春』です。たかが蜜蜂ですが、自然の中での花と昆虫の共生、そして人間の自然との関りには長い歴史があることの象徴でもあるのです。

 そういえば、シャーロック・ホームズは探偵を引退して養蜂家になってましたね。彼の「養蜂の研究」には、こういった場合の回答は書いてないのかな?


解凍の対義語/『アイスマン』

2009-06-11 18:52:32 | Weblog
 「解凍」の反対は「冷凍」と子どもの頃には思っていましたが、最近は(少なくともパソコン分野では)「圧縮」が対義語ですね。普通に使っていますが、つくづく眺めるとやはりちょっと変な気がします。

【ただいま読書中】
アイスマン』ジョー・R・ランズデール 著、 七搦理美子 訳、 早川書房、2002年、1600円(税別)

 5月24日に読書日記を書いた『ボトムズ』の前年に著者が書いた作品です。場所は同じ。時代は半世紀くらいあとです。
 母親の死によって、ビルは収入を失いました。母親の死体がベッドの中でミイラになっていくのを我慢して死亡届を出さないから小切手は送られてきますが、サインの偽造が難しいのです。そこでビルは強盗を思いつきます。自宅の向かいにある花火の屋台を仲間と襲えばちょろい、と。ちょろくはありませんでした。“事故”が続き、屋台の店員は死に、ビルの仲間も死に、保安官も死に、ビルは沼沢地(ボトムズ)に逃げ込みます。ビルを襲ったのは数千匹の蚊。蚊アレルギー持ちのビルの体は奇怪に腫れ上がってしまいます。
 彼を救ったのは、ボトムズをはずれた牧草地にキャンプを張っていたフリークショーのリーダー、フロストでした。ビルはフリークの一員として参加することを勧められます。四つ足で歩き回るドッグマン、髭の生えた女、大頭、小頭、小人たち、おとこおんな、完全なシャム双生児、不完全なシャム双生児……そして、アイスマン。氷に閉じこめられた男です。ビルはアイスマンに魅せられてしまいます。フロストはビルに、アイスマンは実はキリストの遺骸という話もある、と聞かせます。
 ビルの顔は少しずつ治ってきてもうフリークに間違われることもなくなりますが、フリークのカーニバルで「肉屋で一番最後まで生き残った豚のような孤独感」におそわれます。このあたり、「正常人」の「フリーク」に対する差別意識は『ボトムズ』で嵐のように吹き荒れた黒人差別の変奏曲です。そしてそこから物語は意外な展開に。フリークを対等に扱うフロストとは対照的に、その妻ギジェットはフリークを嫌っていましたが、ビルは彼女と密通することになったのです。ギジェットはこの生活から抜け出すために、そして二人の“愛”を成就させるために、フロストの殺害をビルに持ちかけます。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(あるいは「白いドレスの女」)です。1度目は観覧車の事故に見せかけようとして失敗。フロストの腹心がかわりに死んでしまいます。しかしギジェットはあきらめません。ためらうビルを二度目の殺人へと誘います。そして……
 ジェットコースターのようにストーリーが展開し、犯罪小説・フリークの世界・『郵便配達は二度ベルを鳴らす』とその内容も次々変化します。ところが最後にはすべてが落ち着くところに落ち着きます。川に捨てたレンチも、ベッドの上でどろどろになった死体も。いやもう、傑作です。それ以外の言葉はありません。


泥船から/『時計はとまらない』

2009-06-10 18:39:12 | Weblog
 鳩山さんが郵政の人事で「社長の続投は絶対認めない」とえらい突っ張っている姿を見ると、そろそろ麻生さんと距離を置くことで「次の次」を意識しているのかな、とも思えます。やはり「次の次」を狙っていたであろう小池さんがやはり人事でごたごたした後で防衛相をあっさり辞任したときのことも思い出したりして。

【ただいま読書中】
時計はとまらない』フィリップ・プルマン 著、 西田紀子 訳、 ピーター・ベイリー 絵、偕成社、1998年、1000円(税別)

 「ライラの冒険」シリーズの作者の作品です。
 ねじを巻いた時計は、たゆみなく動き続けます。そしてそれは、物語でも同様、と著者は述べます。いったんねじを巻いたら最後、誰にも止めることはできず、運命の結末までひたすら突き進むのみ、と。

 むかしむかし、ドイツのある小さな町では、時計職人の徒弟は年季明けに機械仕掛けの人形を製作し、それを町の時計塔におさめる習わしでした。翌朝町の人たちが見守る中、しかけ時計の扉が開き、新しい人形がお目見えするのです。一体こんどはどんな仕掛けなんだろう、と人々は楽しみにしています。
 雪の夜、その町の酒場「ホワイト・ホース亭」では時計職人の見習いカールが暗い顔で飲んだくれていました。翌朝が新しい人形のお披露目なのに、何もできていないのです。しかしそれは誰にも秘密にしていました。ただくよくよ悩むだけです。そこに作家志望のフリッツがやってきます。酒場では彼の作品のファンがフリッツが最新作を読み聞かせしてくれるのを待ちかまえています。しかし、今夜の作品は未完です。出だしはものすごく面白いのに結末がまだ思い浮かばない。話しているうちに何とかなるだろう、とフリッツは原稿を読み始めます。原稿のタイトルは『時計はとまらない』。
 死体となったオットー大公が、心臓のかわりにゼンマイ仕掛けを胸に入れられ、機械的に右手だけを動かして馬を駆り立て橇で雪の中を城に帰ってきました。橇の中には一人息子の幼いフロリアン王子がうとうととまどろんでいます。事態を説明できるのはおそらく偉大なカルメニウス博士だけ。その外見は……
 フリッツの話がそこまできた時、酒場の扉がばたんと開き、雪とともにそのカルメニウス博士が入ってきます。人々は現実と虚構が入り交じったことに驚き、酒場から逃げ出します。逃げなかったのはカールだけ。人形ができなかったことで彼はもう死を覚悟していたのです。あるいは人形が手にはいるのなら悪魔に魂を売っても良い、と。カルメニウス博士は妙な提案をします。明朝のための人形を提供しよう、と。不思議な騎士の人形です。動かすキーワードは「悪魔」。その言葉を聞いた騎士の人形は動き始め、「悪魔」と言った人ののどを良く切れる剣で切り裂くまで止まりません。カールは人形を受け取ります。
 そこで話はまた大公の城へ。フロリアン王子には秘密がありました。実は彼はカルメニウス博士が作った人形だったのです。愛する息子が死んだことに耐えられなかった大公がひそかに博士に作らせたゼンマイ仕掛けの精巧な(成長さえする)人形でした。しかし、ゼンマイ仕掛けですから定期的に故障もします。きちんと治すために必要なのは、ハート(心臓ではなくて心の方)。
 そして、不思議な運命に導かれ、死に瀕したフロリアン王子もまたホワイト・ホース亭に到着します。そのとき酒場の中では、騎士が酒場の無垢な少女グレーテルの命を狙って動き出していました。

 『ブラインド・ウォッチメーカー』(ドーキンス)とか「人体は精緻な時計仕掛けのようなもの」(デカルト)とかを思い出して私はにこにこします。さらに、心が必要な人形でまず思うのは「鉄腕アトム」。ただ、そういったものはすべてこの物語では降る雪の向こう側に押し込められています。著者の巧妙な語り口に乗せられて、馬鹿な若者たちがどんな目に遭うのか、グレーテルは命の危機からどうやって脱出できるのか、はらはらわくわくを読者は楽しめばいいのです。