「人影」「星影」「月影」「影も形もない」「死の影」「影武者」……日本語では「影」とは、ただの「陰影」のことだけではなくて、実は「実体(あるいはそのもののコピー)」のことも意味していたのではないでしょうか?
【ただいま読書中】『ミレニアム3 ──眠れる女と狂卓の騎士(下)』スティーグ・ラーソン 著、 ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利 訳、 早川書房、2009年、1619円(税別)
病院に閉じ込められたままのリスベットは、ミカエルの行動によってネット接続環境を取り戻し、ハッカーを集めます。おとぎ話だと、龍によって塔に閉じ込められたお姫様は騎士が助けに来るまで待っていなければなりませんが、こちらの“お姫様”は寝たふりをしながらネットを通じて現実に関与していきます。「ミレニアム」編集部から大新聞に移籍したエリカが、ストーカーにつきまとわれてエライ目に遭っているのを、いつかの恩返しのために助けようとする余裕さえあります。
しかし、「公安警察の“正義の味方”」と「民間の素人探偵」と「ハッカー」がなんとなく協力して、公安警察内部の悪の集団に対抗する、というのは「絵」になるようなならなような、読んでいて私は複雑な気分になってきます。ただ、「国家権力の陰謀の犠牲になる個人」だと“定番”の「個人の絶望的な戦い」とはひと味違います。“コンピューターの魔術師”リスベットが、塔じゃなかった、病室に幽閉されているという“ハンディキャップ”があってちょうど良いくらいの戦い、かな。なにしろ公安(悪の集団)は「守勢」を強いられているのです。いくら権力の行使や国家機密の壁や殺人も厭わない倫理観の欠落があっても、「誰が何をやったかを公表されたらおしまい」という重大な弱みを抱えています。しかも“攻める側”には「武力」は足りませんが、知力と技術はたっぷりあります。ネット時代というものは、「武力を欠いたヒーロー」が活躍できる“舞台”だったんですね。
ただし、やはり「武力」は強大です。公安(悪の集団)は、なんと殺し屋を雇ってレストランで機関銃をぶっ放すことでミカエルを暗殺する、という手段を採用します。とにかく関係する人間を全滅させれば悪事はばれずにすむ、という論法です。
そして、裁判所に、体のあちこちにタトゥーを入れパンクなファッションと奇天烈な化粧をする“お姫様”がついに登場すると、観客は「おおー」と嘆声を漏らすしかありません。その内面がどんなになっているものかをまったく見ようとせずに。「外見」と「内面」と言えば、「難民」とか「移民」という「民」が存在しないことも本書では明確に示されます。存在するのは「難民になった個人」「移民になった個人」で「個人」はそれぞれ違う存在なのです。私とあなたが違うように。それを「○民」でひとくくりに論じることがいかに愚かな行為かもよくわかります。
「1」「2」と違って、大筋は大体予想がつくのですが、それでもページから目を離すことができません。「悪」を追い詰める過程が少しずつ少しずつ盛り上がっていくのですが、勧善懲悪とはまた別のエンディングが読者を迎えてくれます。これは読む価値があるシリーズです。
私が初めて実物を見たのは、東京国立科学博物館でした。「地球の上」ではなくて「宇宙の中」でゆったりと「自分の運動」を繰り返している振り子を見たとき、自分は世界の何を見ているのだろう、なんてことも思いましたっけ。知識がなければただのでかい振り子です。知識があって初めて地球の運動に思いが及びます。だけどそこから、寒々とした「宇宙」を実感するためには、知識だけではなくてある種のセンスも必要なのではないか、とも感じましたっけ。あのときの感動を味わうために、また上京したくなります。「現物のインパクト」がありますので。
「何しに?」「振り子を見に」というのは、ちょっと変な会話ですが。
【ただいま読書中】『ミレニアム3 ──眠れる女と狂卓の騎士(上)』スティーグ・ラーソン 著、 ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利 訳、 早川書房、2009年、1619円(税別)
『ミレニアム2』が終わった「その夜」から本書は始まります。頭を撃たれ土に埋められたリスベットと負傷し逮捕されたミカエルとが救急病院に運び込まれます。典型的な“無能な警官”は、殺人犯人をわざわざ逃がしてやります。
リスペットを殺そうとしていたギャングとそれを支援していた公安警察は、事件のもみ消しに動き出します。事件の真相が明らかになったら、自分たちには致命的な大打撃だからです。そのためには、証拠を改竄・消滅させ、危ない証人は消す必要があります。それがわかっているから、ミカエルの方も“味方”を集めます。アテになる警察官、リスペットがかつて働いていた警備会社のボス、信頼できるマスコミ人……病院のベッドに縛り付けられているリスベットを守る「騎士」が集結します。
それにしても、ソ連から亡命した大物スパイから情報を取るために身分を偽装して匿っていた公安警察(の一派)が、そのスパイがギャングに転身してからもその秘密を守り続けていかなければならないのは、ある意味ストレスだっただろうとは思います。国益のための手段が、いつのまにか保身のための目的にすり替わってしまったのですから。そしてそのためには、一人の少女を精神障害に仕立て上げて精神病院に閉じ込め、決して社会復帰できないようにする“工夫”さえする必要があったわけです。
『ミレニアム』は「1」では個人が大金持ちの犯罪をいかに暴くか、が主題となり、「2」では個人が組織犯罪者と戦うことになりました。それがこんどの「敵」は「国」です。話がどんどん大きくなっていきます。ただ常に「基調低音」としてなりひびいているのが「女性に対する卑劣な犯罪行為」です。男としてはちょっと居心地が悪いんですけどね。
居心地が悪いのは、公安警察も同じです。厳しい職業倫理を要求される職場に“腐ったリンゴ”が混じっている、と指摘されたのですから。その情報が本当なのかどうか、公安警察憲法保証課のメンバーも動き始めます。これまた心強い“騎士”ですが、この人たちは「憲法の制約下で動かなければならない」「内部で誰が敵かわからない」という厳しい制約が課せられています。こういった立場にはあまりなりたくないものです。
日本に火縄銃がもたらされたとき、ポルトガル船はまず琉球に寄港してから種子島に到着しました。幕末の「黒船」ペリー提督もまず琉球に寄港してから日本を目指しています。日本の歴史の教科書では「琉球」はなるべく無視するように書かれていますが、世界の「海」の住人からは、「日本」よりも「琉球」の方が実は“大きな存在”だった、という可能性はないでしょうか?
【ただいま読書中】『琉球からみた世界史』村井章介・三谷博 編、山川出版社、2011年、3200円(税別)
2007年の史学会第105回大会公開シンポジウム「琉球からみた世界史」のまとめです。古代から琉球処分まで、琉球から世界史を見たらどのようなものが見えるか、様々な視点からの論文が掲載されています。
硫黄島と言えば、太平洋戦争での激戦地で知られていますが、実は薩南諸島にも「硫黄島」が存在していました(種子島の西側)。そこの特産である硫黄が、日宋貿易での主力輸出品だったのではないか、という指摘から本書は始まります。なお、平家物語で俊寛たちが島流しになった「鬼界ヶ島」の候補として、この「硫黄島」も上げられているそうです。
明との冊封関係で琉球が繁栄したことはよく知られています。倭寇に悩んだ明は海禁政策によって海上貿易のルートを自ら閉じてしまいました(海禁令は清でも継続されます)。そこで琉球が「冊封」を名目に明と東南アジアをつなぐ重要なパイプ(中継貿易の拠点)として働いたわけです。建国後もモンゴル残存勢力との戦いが継続していた明にとって、琉球からの馬や硫黄という“軍需物資”はとても重要でした。単なる貿易関係ではなくて軍事同盟的性格もこの「冊封」は持っていたようです。ヤマトと琉球は、同じ明の冊封で対等のはずですが、両者の文書のやり取りではヤマトの方が優位に立っていたようです。そして、応仁の乱で琉球・京都の直接の連絡が絶たれると、島津氏の存在が重くなってきます。ただし島津氏はまだ九州の覇者ではなく、琉球の方が優位に立っていました。その力関係を維持するためには、九州(や西日本)が群雄割拠状態であることが望ましく、軍事ではなくて貿易によって琉球はその状態を維持するように関与しようとします。
1609年琉球王国は薩摩藩の侵攻に敗れ、中国との冊封関係は残したまま薩摩藩の支配を受けるという二重支配になります。琉球史では1609年から1879年の「琉球処分(沖縄県として日本に編入される)」までを「近世」と呼び、それ以前の「古琉球」と区分しています。
19世紀には、ヨーロッパ人が次々琉球を訪れます。ペリーは浦賀来航の前後に5回も琉球に寄港していますが、それは琉球が重要な補給基地として機能したからでしょう。ペリーには、太平洋で覇権を争う米・英・露の争いには絶対に勝利しなければならないという使命がありました。また、サンフランシスコ=上海の蒸気船航路にとって、琉球は重要な寄港地になる、という将来構想もありました。そこでペリーは琉球でも「砲艦外交」を繰り広げようとします。対する琉球は、軍事力がありませんから平和外交で「柔よく剛を制す」を狙います。艦隊の水兵たちのレベルは低く、住民に対する強姦や発砲が相次ぎましたが、結局犯人は罰せられずうやむやに。なんだか現代の沖縄問題と二重写しに感じられます。
そして「琉球処分」。「日本」国内では激しい議論が行われましたが、そこで問題になったのは「国王の身分」でした。廃藩置県でかつての藩主はすべて華族として扱われます。しかし「国王」は「藩主」ではないから華族にするのはおかしいかおかしくないか、という議論であって、琉球の人びとの話などだれも論じる必要があるとは思っていなかったようです。「近世」の外交関係では、「タテマエ」としての冊封関係に誰も公然と異議を唱えなければそれがそのままタテマエとしてまかり通るものでした。しかし明治政府は「タテマエはあるが、琉球は実質は日本の支配下にある」と公然と宣言したわけです。これは「東アジアの外交関係」の「近代化」だったのだそうです。欧米列強が進出する中で東アジア的な外交上の「タテマエ」が尊重される保証はなかったから、明治政府としては焦っていたのではないか、とも思えます。文学では「近代化」とは「多義的な意味」から「言語と意味が一元化」される過程なのだそうですが、政治・外交においても「多義的な意味」が「一元的な解釈」へと変容することが「近代」だったようです。琉球人には迷惑だっただろうとは思いますが。
西欧でも、一国家一言語とか「近代化」が進められていましたが、今はむしろ「近世的」な「価値の多様化」「他民族が共存する世界」なんて動きも進行中です(それに逆らう「近代化」(たとえば「ネオナチ」「イスラム国家」など)も頑強に行われていますが)。すると「琉球」から得ることができた視点で「世界史」を眺めたら、世界の明日が見えてくるかもしれません。
殺人犯が罰せられるのは、その人が「悪いこと」をしたからではありません。単に法律に「殺人を犯した者は罰せられる」と記述されているからにすぎないからです。
【ただいま読書中】『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』マーク・トウェイン 著、 砂川宏一 訳、 彩流社、2000年、4500円(税別)
著者が手に入れた手書きの本(再利用の羊皮紙製)には驚くべき内容が記されていました。あるコネチカット人が1879年から528年に飛ばされてしまった、というのです。しかもその土地はアーサー王が支配していました。
アーサー王の物語は、壮大で悲痛ででもどこかユーモラスなものだと私は思っていますが、結局は過去の伝説・神話・壮大な物語、です。ところが本書では「その世界で実際に生きた人(それも“現代人”)」が“肉声”で“その世界”を描写してくれるのです。私は冒頭からもう大笑いしながら没入していきます。あまり笑っていると、騎士たちから「無礼者め」とあっさり死刑を宣告されるかもしれませんが。
魔法の服(ただのつるしの背広)を着ていた「わたし」は、うろんな奴め、ということでサー・ケイに捕えられアーサー王の宮廷に連れて行かれてあっさり死刑を宣告されます。しかし一発逆転、現代人の知識を使うことで「わたし」は大魔術師としてアーサー王の右腕になります。そしてこの世界を文明化しようと努力を始めます。その第一歩は、特許局の開設。19世紀がどんな時代だったか、これだけでもいろんなことがわかります。
しかし「19世紀の快適な生活」を懐かしみながら「6世紀の人間はこんな生活でも十分満足しているんだよな」と思う「わたし」の姿を見て、21世紀の読者は「19世紀の人間は19世紀の快適さ(石鹸、マッチ、着色石版刷りの絵、など)で満足していたんだな」と思うわけです。これは著者の狙いとは外れた楽しみ方かもしれません。
「陰の権力者」としてそれなりに快適に暮らしていた「わたし」は、騎士の義務として冒険の旅に出立することになります。目指すは、4本の腕を持つ一つ目の巨人の三人兄弟が住む城ですが、そこに44人の処女が捕えられているというのです。ただし城の位置は不明です。そして、重たい鎧兜に身を固めての騎馬行は、あまりに悲惨なものでした。
この旅路の物語は、「裏返しのドンキホーテ」といった感じです。鎧の重さや暑さや遍歴の先が見えないことなど、悲惨である点は同じですが、意識の持ちようがまったく逆さま。自分の熱情でめらめらと燃えていたドンキホーテとは違って、こちらの「わたし」は自分の境遇や悲惨な「自由民」たちの姿に絶望しながら、それでもそれをなんとか改善しようと試みます。しかし周囲の人たちが「わたし」の思惑にまったく無理解・無頓着なのは、ドンキホーテの場合と同様でした。
この時代は、権力の暴力的な面が露骨に出ています。教権と王権から見たら人の命はとても軽く、権力者の一言で人はあっさりと消されてしまいます。その中で「わたし」は、少しずつ社会を変えようとしていきます。魔術師として立ち回りながら。ただし教会そのものは敵に回さないように気をつけながら。
幕間喜劇では、アーサー王と「わたし」が奴隷に売られてしまい、そのためにアーサー王は奴隷制度について世界で一番熟考する王になってしまいます。奴隷制度は廃止され、工場や学校が作られ鉄道や電信線が引かれ……世界は「文明化」をしようとしますが、そこでストップが。「わたし」は忠実な部下のクラレンスと生き残った52名の少年たちとで、「全イングランド」数万の騎士を相手に最後の戦いに臨みます。無茶な話です。
いやもう、こんなコメディーを思いつくとは、著者はただ者ではありません。いや、ただ者ではないことは知ってはいましたが、ここまでとは知りませんでした。強烈な作品です。未読の方は、ぜひ。
常套句や美辞麗句や引用に頼っている人は、「自分には創造力とコミュニケーション能力が無い」と白状しているだけです。
【ただいま読書中】『そうだ、葉っぱを売ろう!』横石知二 著、 ソフトバンククリエイティブ、2007年、1500円(税別)
徳島県上勝町は四国では「最も人口が少ない町」です。高齢化率は徳島県ではトップ、典型的な田舎の過疎化と高齢化が進む農業の町です。
昭和54年、農業大学校(2年制)を卒業した著者は、上勝町農協に営農指導員として採用されました。著者は驚きます。高齢者の男性は、雨が降ると農協か役場に集まって朝から酒を飲んでいることに。女性は井戸端会議で朝から晩まで他人の悪口を言い続けていることに。何とかしないといけない、と著者は思いますが、「よそ者の若造」の言葉に誰も耳を貸しません。しかし、2年後に、緊急事態が。異常寒波で町の主力商品の蜜柑の木がほぼ全滅してしまったのです。主力を蜜柑から転換するにしても時間がかかります。とりあえず短期間で現金収入があるものを。著者は走り回ります。ワケギ、切り干しイモ、分葱、ほうれん草…… 「災い転じて福となす」となり、上勝町農協の売り上げはかえってどんと伸びました。しかし著者は貪欲です。体力がない人でも売れるものはないか、季節限定ではなくて通年で売れるものはないか、とアンテナを張り巡らします。そこに引っかかったのが「妻物(つまもの:料理に添える葉っぱや花)」。妻物という名前さえ知らなかった著者は、料亭に通って実際の使われ方を“勉強”します。給料は全部料亭につぎ込み、センスはどんどん向上しますが、ひどい食生活から痛風になってエライ目に遭います(体型もすごいことになっていきます)。
1986年、著者は葉っぱ事業を「彩(いろどり)」と命名。少しずつ良い値段がつき始めます。軽くてきれいですから、おばあちゃんでも参加できます。落ち葉の掃除が大変だった柿の木が「金のなる木」になります(たとえばある柿の大木は、1年で25万円を稼いでいます)。
「良い商品」でも、売れなければ意味がありません。著者は全国に営業をかけます。文字通り全都道府県に。さらに生産者農家の人たちを、大阪や京都の一流料亭に連れて行きます。実際にどのように自分たちの商品が使われているのかを見てもらうために。
町は変貌しました。活気が満ちるようになり、人口は(わずかですが)増加します。かつて自分の町の悪口を言っていた人たちは町に誇りを持つようになります。著者は、町の防災無線ファックスを、注文取りにも活用します。市場からの特別注文を無線で農家に流して、農家が早い者勝ちでその注文を獲得して商品を届けるのです。今ではおばあちゃんたちは、一秒でも早く農協に電話するために、携帯電話を握りしめて短縮ダイヤルで注文を取っているそうです。人気コンサートのチケット予約を取るのと、姿は変わりません。
40歳を前にして著者は人生の転機が来たと感じます。上勝でやれることはやったから、と農協に辞表を出します。それを聞いた町の人はびっくり仰天。著者がいなくなったら町はどうなるんだ、と。そこで町ぐるみの慰留運動が起き、著者は特例で町役場に中途採用となります。立場が違うのでもう農協のことには口が出せません。すると農協の売り上げが億単位で落ち始めました。これは大変、とまた町ぐるみで知恵を絞り、第三セクターで株式会社を設立することになります。農家がまとまって会社の運営費を拠出する形式は、非常に珍しいそうです。著者はその会社の取締役に任命されます。社長は町長ですから、実質的な責任者です。
著者はパソコン導入をもくろみます。通産省から予算を獲得、おばあちゃんたちが気楽に使えるように工夫したパソコンで、商品や市場の状況を村中に流します。これにより、ファックスの時には難しかった出荷調整が簡単にできるようになりました。農家の人は、市況を読み、楽しみながら何を多めに出荷するかを決定するようになります。さらに売上高は公表されますから、競争も激しくなります。
「地域の活性化」が最近の日本の流行り言葉ですが、こうやって実践をした人の本を読むと“評論家”がいかに無力かがよくわかります、というか、本書では“評論家”は有害な存在とされています。著者は“評論家”にはあまり良い感情を持っていないのかな。
本書での「成功体験」は、たぶん他の地域ではそのまま応用可能なものではないでしょう。「その土地」と「その時」と「その人(働きかける人と働きかけられる人)」との関係の中での「成功」でしょうから。ただその本質を学ぶことはできるはず。少なくとも座り込んで文句を言っているだけよりは、「成功」の確率は上昇するはずです。
「交差点」は英語だと「crossing」とも言いますが、私には「crossroad」の方が馴染みがあります。ここで面白いのは、日本語だと“そこ”は「点」なのに英語だと「road(=線)」であること。言語が違うと世界の見方が違っているのかな、なんてことも思っていたら「十字路」という言葉も思い出しました。残念……というか、何を残念がっているのでしょうねえ。
【ただいま読書中】『地方官人たちの古代史 ──律令国家を支えた人びと』中村順昭 著、 吉川弘文館、2014年、1700円(税別)
律令制度で、国司は中央貴族が任命されましたが、郡司は(本家の中国とは異なって)“現地採用”でした。実際にその土地を支配している豪族を“活用”していたわけです。
班田収授法は、理想と現実のギャップから形骸化する傾向がありました。たとえば人口と田んぼのミスマッチから、志摩国の村人に尾張国の田が支給されたりするのです。また、租税回避目的で男を女として戸籍登録する偽籍も広く行われましたが、“真面目な役人”がきちんと調べると当然それはばれますがそこで「戸籍上本来そこに居住しているべき人が存在しない」と「逃亡人」となり「本来そこにいるべきではない人が居住している」と「浮浪人」として届けられることになります。すると「女の逃亡人」と「男の浮浪人」がやたらと多い村は偽籍が横行していた、と言えそうです。そういった「非現実的な事象」をどう処理するか、も郡司(たち)のお仕事でした。
「里」は50戸から成り、それぞれに「里長(郷長)」が置かれました。文書の作成・管理能力も必要ですから、それなりの“エリート”だったはずです。仕事は、戸籍管理・税の徴収・仕事の督励・治安維持……など様々です。位階も給与もなく、ただ、庸と雑徭が免除されるだけ、という扱いです。
田植えの命令が記された木簡では、参加するべき人も名指しされています。さらに、その脇に「参加チェック」の点も打たれていて、さぼったかどうかが簡単にわかるようになっています。同時代の正倉院文書などではわからない「地方の実像」が想像できます。
正倉院文書もまた「宝の山」です。東大寺写経所の帳簿類がけっこう大量に残されているのですが、当時は紙が貴重品ですから、別の書類の裏紙を利用しています。だから「裏に書かれたこと」もまた(断簡ではありますが)史料として価値があるのです。そういった文書の中に、郡司と中央の下級官吏との癒着を思わせるやり取りも残っています。租米を横領(かまたは寸借)してそれをごまかそうとしているフシがあるのです。
中央貴族との結び付きもあります。郡司などの地方豪族が中央貴族に物や人を贈っている文書が残っています。地方豪族が中央貴族になった例としては、和気清麻呂が有名です。例外的な大出世ではあるのですが。
郡司の地位は魅力があったのでしょう、責任を問われる現郡司の失脚を狙って各地の正倉に対する放火事件が8~9世紀に頻発しました。そのため、現郡司の責任は問うが、放火犯は死罪という勅も出ています。しかし勅の効果はなく、さらに現郡司が正倉の米を使い込んでそれをごまかすために放火、ということもあったため、延暦五年(786)に「郡司は解任しない。損害を補填しろ」と政府は方針を変更します。これで失脚狙いの放火は意味を失うし、使い込みがあってもそれが補填されれば政府は損をしない、というわけです。
7世紀前半まで、国司制度は機能していませんでした。地方の豪族が国造(くにのみやつこ)・伴造(とものみやつこ)・県稲置(あがたのいなき)など様々な形と内容で大和政権に服属していました。それが7世紀後半(白村江の戦いや壬申の乱の時期)に制度が整備されていき、中央から派遣される国司制度が始まります。「管理の強化」ですが、地方の小豪族にとっては、郡司ではなくて国司と直接結びつくチャンスが増えることでもありました。国司の権限は強くなり、郡司の勢力は落ちていきます。律令からは無視されていた中小豪族が結集することで、日本という国の形が変化し始め、これがのちの武士の勃興や下克上へとつながっていきます。「中央」中心の歴史の教科書ではわからない「日本の歴史」がここにありました。
「美しい花」君はつぶやく
「花より団子」にべもない僕
だけど
花に見とれる君の笑顔が僕は好き
【ただいま読書中】『スエズ運河を消せ ──トリックで戦った男たち』デヴィッド・フィッシャー 著、 金原瑞人・杉田七重 訳、 柏書房、2011年、2600円(税別)
ジャスパー・マスケリンは、有名なマジシャンを輩出した一族の出身で、自身も高名なマジシャンでした。第二次世界大戦が始まり、38歳のジャスパーは軍に志願しますが、「マジックでドイツ軍を翻弄したい」という彼の希望はなかなかまともに取り合ってもらえません。しかしあまりの熱心さに「ヒトラーも掟破りのことをしているんだ。こちらも変わったことを試してみよう」という人が現れます。
ジャスパーが配属されたカモフラージュ部隊は、画家・婦人服デザイナー・彫刻家・動物の擬態の専門家・舞台装置家・電気技術者・漫画家・詩人……などのごたまぜ部隊でした。厳しさとユーモアが入り交じった訓練の後、舞台はスエズに派遣されます。ヒトラーがロンメルとアフリカ軍団を派遣したのとほぼ同時でした。ロンメルは、リビアにいるイギリススパイを相手に偽装作戦を決行します。たった二つの大隊を使って、大部隊が到着したように見せかけたのです。さらに、フォルクスワーゲンに木製大砲をつけた偽装戦車で装甲部隊を“増量して”イギリス軍を奇襲します。ロンメルも戦場のマジシャンだったのです。それも優秀な。ただ、良港のトブルクがなかなか落ちず、想定外の長期戦になってしまいます。
ジャスパーの最初の任務は、マジック対決でした。「魔法使い」を自称する族長からイギリスへの協力を取り付けるために「自分の方が優れた魔法使いである」ことを証明する対決です。それに成功したご褒美か、あるいは厄介払いか、「実験分隊」としてジャスパーは“独立”を得ます。その初仕事は「4万リットルのペンキを何もないところから取り出す」こと。新たに配備された238台の戦車は森林用の緑のペンキが塗られていたので、それを砂漠用の砂色に塗り直さなければなりませんが、そのペンキがないのです。そこでジャスパーたちは、ゴミ捨て場と道ばたから材料を調達してペンキを作り上げます。次は、ロンメルに気づかれないように機甲部隊を砂漠に展開させるため、戦車をトラックに偽装します。これまで戦車ではないものを戦車に偽装するダミー戦車はありましたが、戦車を偽装する試みはありませんでした。偵察機からどの角度で見られてもトラックに見えるようにし、さらにキャタピラ跡も偽装しなければなりません。「マジックギャング」たちはせっせと働きます。
次は「港」です。イギリス軍の補給の要、ドイツ軍の爆撃の主要目標、アレクサンドリア港、それを丸ごと隠せ、という命令です。さすがに「消失トリック」は使えませんが、ジャスパーは「1マイル移動させる」手を思いつきます。爆撃機を騙してダミー港を爆撃させよう、というのです。これがまんまと成功し、以後、重要な空港や海軍基地を模したダミーがあちこちに作られ、ドイツの爆弾を無駄遣いさせることになります。
次の課題は「ロンメルの攻撃開始を遅らせる」。大量のダミー戦車とダミー兵士で、前線の隙間を埋めて大部隊がいるように見せかけます。ボール紙で作った“大砲”は、なんと一斉砲撃時にはちゃんと本物に合わせて発火し煙も出ます。
「ギャング」たちは、軍隊の中では異端者でした。しかしそれぞれがまったくばらばらの存在です。しかし、一緒に難題をこなしている内に結束は高まっていきます。さらに各人が少しずつ変容していきます。本書ではそういった「ギャングたち」の人間像と関係の変化についても丁寧に描かれています。
そして「スエズ運河を消せ」。ロンメルも本気でスエズ運河を破壊はしないはずですが(占領したあとで自分が使いたいはずですから)、何らかの手段(船や機雷を沈めたり)で一時的に封鎖をすることは考えられます。だからロンメルの目から運河を隠したいのですが……全長160km以上ですよ。しかしジャスパーはそれをやってのけます。
諜報部からも協力を要請され、ジャスパーは脱出マジックを応用した「捕虜収容所からの脱出」講義を20万人以上の兵士に行いました。そのおかげで、実際に脱出できた兵士は数多かったそうです(この功績でジャスパーは戦時の終身少佐に昇進します)。また、手品を応用したスパイツールをいくつも考案しました。
快進撃を止められたロンメルの悩みは兵站線の長さでした。地中海を渡ってトリポリに補給物資を揚陸したら、1600kmをトラック輸送しなければならないのです。ついにイギリス軍は総攻撃を始め、戦争の潮目が変わります。さらに真珠湾攻撃によってアメリカが参戦。優勢に戦える戦争では、偽装の出番はもうありません……ないはずだったのですが、これからマジックギャングたちは“長いアンコール”を演じることになります。たとえば「折りたためる潜水艦」の製作、とか「マルタ島を消す」とか「全長220mの戦艦(のダミー)」製作とか。“大繁盛”なのです。
そして、エル・アラメインの戦いでロンメルを押し返したモントゴメリーは、最終決戦直前にマジックギャングに「幅65kmの平原で、15万の兵士と1000両の戦車を敵(スパイと偵察機)の目から隠して欲しい」と言います。ロンメルを混乱させることができたら、主力戦車部隊が敵の地雷原を突破する時間が稼げるのです。ジャスパーはマジックのトリックを用いることにします。仕掛けの段階から観客に手順を見せて、客に自分で判断させるやり方です。ただし、客が視線を集中しているのとは別のところでマジシャンは別のことをやっているのですが。
戦争の“舞台裏”でも(暗号解読とか諜報とか)さまざまな“戦い”があったことは聞いていますが、これはまた意外な“戦争”でした。割とお気楽な感じだったマジシャンが、悩んだり苦しみながら「兵士」に変容していく様もリアルに描かれていて、自分が同じ立場だったらどうしただろうか、とわりと真剣に思わされます。
かつて「輪転機をじゃんじゃん回せば良い」と時代錯誤な発言をした政治家もいましたが、いくら紙幣を印刷してもそれが市場に出回ってじゃんじゃん使われなければ倉庫に山積みになるだけです。だから市中銀行に「もっと貸し出しをしろ」とか別の努力を始める必要が生じます。そんなことをするよりも、全国民にたとえばアマゾンコインを10万円分支給したら、発行のコストは(紙幣を印刷するよりも)とても少なくて済むし、さらに「1年間有効」とか期限を限定しておいたら、おそらくそのほとんどはきちんと使用されることが期待できるでしょう。その方がよほど日本経済を活性化させるのではないかしら。(別にアマゾンでなくても良いです。国民が好きなのを選択できたら良いし、ネット環境がない人には希望の商品券でも良いでしょう。キモは、紙幣でないことと有効期限があること、です)
【ただいま読書中】『「仮想通貨」の衝撃』エドワード・カストロノヴァ 著、 伊能早苗・山本章子 訳、 角川EPUB選書、2014年、1400円(税別)
最近「ビットコインが大量に消失した」事件がありましたが、そういった高名な「仮想通貨」以外でもすでにこの社会には「仮想通貨」が広く流通しています。たとえばマイレージサービスとかお店のポイントサービスとかを貨幣価値に換算すると、すでにその総計は紙幣と硬貨のトータルを上回っているのだそうです。
「現実」を「リアル」と「ヴァーチャル」に分けるのは、便利ですが実はあまり正確ではありません。両者は重なり合っているのですから。そして「仮想通貨」はその「リアル」と「ヴァーチャル」が重なり合っている領域に存在しています。だからこそ「仮想通貨」は重要なのです。
ところで「貨幣の価値」は本来“ヴァーチャル”な存在です。皆が「“これ”には価値がある」と思っているから「もの(価値)と交換可能」なわけ。だったら、紙や金属でなくて「デジタルデータ」でも「貨幣と同等」の存在として扱うことには、それほどの無理はありません。あとは「管理」の問題です。誰が発行し誰が保証するか。
「国(または君主)」でなければ貨幣を発行できないと思ったら、それは間違いです。たとえば「手形」は個人や法人が勝手に発行可能ですし、それは貨幣と同等の価値を持っています。リスクは国家のものよりは高くなっていますが。
多種多様な通貨は、扱うのが煩雑です。両替所で払う料金は純然たる損失です。だから「世界共通通貨」だったら経済には便利そうです。「通貨と通貨の交換計算」はひたすら面倒ですから。しかし、コンピューターが「どんな計算でも引き受ける」となったら話は変わってきます。かくして現在の社会では様々な仮想通貨が大量に流通するようになりました。
では、仮想通貨の未来は? 著者は「通貨」を「制度」と規定し、制度の変化は「進化」の概念で取り扱える、と主張します。生物と同様、そのときの環境に適応しているものが生き残る、と。つまり「多くの人が使う通貨は生き残るし、使われないものは淘汰される」のです。つまり、グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」です。著者に言わせれば「政府保証の通貨」は「悪貨」そのものです。コインも紙幣も現物は額面通りの価値を持っていませんし、その価値は(長期的に見たら)どんどん落ちて行っています(物価が上昇しています)。金との兌換も保証されていません。しかし、民間会社が発行する仮想通貨は、基本的に「良い通貨」です(必ず“何か”と交換可能であることを保証していますから)。例外は国が保証する仮想通貨だけ。これは何との交換も保証されていません。ただ、とりあえず「国の通貨」では「交換するもの」に制限がないため、使いやすいから市場では喜ばれます(アマゾンコインでは近くのスーパーでは(まだ)買い物はできませんから)。
「リアル」と「ヴァーチャル」の境界は揺らいでいます。通貨に関して、将来必ず大きな変化が起きますが、それが急激なものか緩慢なものかはわかりません。ただ、テクノロジーによってヴァーチャルは容易にリアルになるようになりました。だから「変化」は必ず起きます、というか、おそらく現在その「変化」は進行中です。
日本語では「科学技術」とまとめて言われることが多いですが、実際には「科学」と「技術」は、密接に関係はしていますが、別のものです。科学が扱う対象は、「物」である場合もありますが(数学や理論物理学のように)「理論」である場合もあります。しかし「技術」が扱うのは、基本的に「物」です。もちろん「技術」は理論も扱いますがそれはあくまで「物を扱うための手段」としてです。私にはそれが「理系の強み」だと感じられます。
【ただいま読書中】『理系の子 ──高校生科学オリンピックの青春』ジュディ・ダットン 著、 横山啓明 訳、 文藝春秋、2012年、1700円(税別)
インテルISEF2009(インテル国際学生科学フェア2009)に参加した1502人の学生のうちから、著者が特に心を動かされた6人、それと過去の受賞者5人についてまとめた本です。
最初に登場するのはテイラーという一見かわいらしい少年です。彼は10歳の時に爆弾を作り、次に原子炉に興味を持ちます。目標は「ファーンズワース・フューザー(慣性静電気閉じ込め式熱核融合炉)」の製作。彼には、同じ趣味を持つ大人たちのサポートがありました。
次は、非常に効率的な太陽熱利用装置を組み立てたギャレット。彼がこの装置を作った理由を、著者はギャレットが住むナヴァホの特別保留地に行って納得します。彼はサイエンスフェアに参加するためではなくて、一家が生き延びるためにこの装置を作らなければならなかったのです。彼は貧しい家の子で学力も低く、必要な材料はすべて廃車置き場やゴミ捨て場から集めたものでした。車のラジエターや空き缶、ガラス……それで一軒の家の温水や暖房がまかなえるのです。
16歳でハンセン病の宣告を受けたBBという少女も会場にいました。彼女は自分の病気を研究し発表したのです。BBは幸い治療が奏功しました。それで「よかったよかった」で済ませるのではなくて、自分の体験を多くの人に共有してもらうことで、無知による恐怖(とそれによる差別)を減らしていこう、と言うのです。研究テーマは、治療後の体に細菌がどのように残っているか(2年の治療ですべての菌を殺すことができますが、菌の痕跡をすべて消すには5年が必要なのです)。
少年院からの参加もあります。少年院を大人の刑務所へのただの「通過点」と見なしている少年たちに、科学の面白さを説いた奇特な理科教師の努力がその陰にありました。しかし、その「努力」には「犠牲」も必要でした。
馬の調教に熱中するキャトリンの姿も紹介されます。馬の調教と科学に何の関係が? さらに科学オリンピックへの参加に、キャトリン一家は多くのものを賭けていました。父の病気とキャトリンの事故で背負った借金のため、科学オリンピックで大学の奨学金を勝ち取らなければ、彼女は進学できないのです。
ケリードラ(カミツキガメ)という名前の少女は、サイエンス・フェアのために水辺の研究をしていて、FBIのテロリスト名簿に載せられてしまうことになりました。ケリードラが住むパーカーズバーグはデュポン社の“城下町”です。デュポン社がテフロンを生産するさいに使っているPFOA(ペルフルオロオクタン酸)が環境に漏れていましたが、この物質には発癌性があります。デュポン社は環境保護庁に1025万ドルの罰金を払い、町の浄水場にフィルターを設置して問題解決としましたが、実際に水がどうなっているのか、をケリードラは調査したのです。それはデュポン社に対する“反逆”でした。かくして彼女の一家は街の中で試練を味わうことになり、ケリードラは一家の中で試練を味わうことになります。そしてFBIが家に訪れてくることに。
小さな時に性的虐待を受けて男に対して拒絶反応を示すセイラは、高校教師によって男子とチームを組まされました。それは、科学オリンピックで賞を取るためには仕方のない選択でしたが、教師にはもう一つ、別の目的がありました。
ライアンは、まだオムツをつけてはいはいをしている赤ん坊の時にバターナイフを壁の電気ソケットに突っ込み、2歳のクリスマスプレゼントの希望は、延長コードと白熱電球。増築した部屋の配線を独力でやったのは5歳の時。8歳で歩き回る等身大のロボットを作り上げます。好奇心と才能はあり余っていますが、友達はいません。ライアンが初めて得た「友達」は、40年働いたロスアラモス研究所を退職した物理学者のジョンでした。年齢差は52歳。中学校では深刻ないじめに遭っていたライアンですが、ジョンとの活動、そして高校でのコンピューターの授業で転機が訪れます。交友関係が広がっていったのです。フットボールのスター選手などが“ガード”となったため、いじめる奴は遠ざかりましたがそれはライアンには実に助かることでした。いじめ対策ではなくてロボット製作に時間を使いたかったから。高校1年で迷路踏破ロボット、2年で高校内の危険物探索ロボットを製作(ちょうど「コロンバイン高校事件」が起きた頃です)。どちらも科学オリンピックで入賞しますが、3年生ではライアンは「手袋」を作ることにします。この手袋で宙に文字を書くとそれが液晶ディスプレイに表示されるという、耳が聞こえない人を助ける手袋です。これも入賞。3年間でライアンが稼いだ賞金はなんと42万ドル。しかし最高の“賞品”は…… ここはもう、最高の「青春ドラマ」なので、ネタバレはしません。読んでにやりとして下さい。
本書は単なる「すごい天才がいてこんなすごい発明をしました」物語ではありません。それぞれの少年少女には「人生」があり、周囲の人びとの人生がそれに交叉をしています。本書は、そういった人生の物語と「科学」が交叉したとき何が生まれたか、の物語なのです。さらに本書に描かれるのは、アメリカの様々な地域社会の断片、つまり「アメリカの今」です。そして、それらを注意深く読むと「アメリカの未来」も読めてきます。「子供たちの物語」は、彼らの成長後の「大人たちの物語」に移行すると同時に「彼らが切り開いた道を歩む次世代の子供たちの物語」でもあるのですから。
テレビやラジオで最近目立つのが「四拍子」です。
「うんうんうんうん」とか「何何何何」とか、相づちを打ったり映像を見ながら感想を口走るときに同じ単語(というか二つの音)を4つ重ねるのが流行っているようです。だけど、なにもそこまでスピーディーに重ねなくてもいいのに、と思う私は、たぶんもう古い人間なんでしょうね。
【ただいま読書中】『曽根崎心中』近松門左衛門 著、 祐田善雄 校注、岩波書店(岩波文庫)、1977年、400円
流れるような文章(本当は語り)に乗って、嫋々と情景描写がまず行われ、そして徳兵衛が登場します。「水もしたたるいい男」ではなくて「生醤油の袖したたる」いい男なんだそうです。そこに茶屋の中から女の声が。「ありや徳様ではないかいの。コレ徳様徳様」。はい、お初です。
ストーリーは単純明快です。徳兵衛とお初は恋仲ですが、徳兵衛に縁談があり、親戚が勝手に結納をしてしまいます。徳兵衛はそれを拒否しますが、ならば結納金を取り返してこい、と難題が。やっとお金を取り返したところに親友がそれを貸せ、と。証文を取り3日だけと期限を切りますが、返してくれません。催促をしたら「お前は嘘つきだ」と散々に人前で罵倒され、徳兵衛は面目を失います。金を返せなければ結婚は破談にできずお初とは結ばれません。面目も望んだ結婚もできず、徳兵衛は死を決意します。そして、お初も道行きをともにすることに。
文庫本でわずか34ページの本当に短い脚本で、話はさくさくと進んでいきます。しかし、当時の人たちにとって、この作品は、胸が締め付けられるような「自分たちの物語」だったことでしょう。だからこそ人気が沸騰し、現代にまで作品が残ったのでしょうね。ただ当時と違うのは、語りを聞いて即座に理解する能力を現代人が失っていること。ですからまず脚本を読むことで「予習」をしたら、その舞台がとても理解しやすくなるでしょう。たとえばオペラだって、突然舞台を見ても台詞は聞き取れないから結局「予習」が必要になるのですから、同じようなものだ、と私は思っています。
本書には他に「卯月紅葉」「堀川波鼓」「心中重井筒」「丹波与作待夜の小室節」「心中万年草」「冥途の飛脚」が収載されています。