◆脱同一化
やはり思考に気づくことが多くなっている。たとえばトイレに座ると、まずは何かを考え始める。何かを考えていたことにハッと気づく。それからはサティが始まる。また少しすると考えている。その繰り返した。風呂に入って湯船につかる。またハッと思考に気づく。あとは、湯の中での様々な体感覚や感情に気づいていく。
必要があって「臨死体験・気功・瞑想」の「覚醒・至高体験の事例集」の中の「心理学専攻の女性」の事例を読み返していた。たとえば次のような文章。
「ある日、周囲の現象や事物が今までとはどこか違ってみえることに気づいた。ひとつひとつの事物がなんとくっきり、あざやかにみえることか、店頭の果物や野菜までがぴちぴちと生きている。一輪の草花もその存在を主張するように明るく輝いて私に語りかけてくるようだ。私も共にあるそう強く感じると同時に深い感動と歓びが根底 からわきあがるのを覚え、何ものかに感謝し、叫びだしたい気持ちに襲われた。」
結局、大切なのは今ここでの体験なのだ。統制のきかない思考に没頭しているときは、完全に今ここから離れてしまう。だからこそ、そのつど思考から今の体験に舞い戻る。今ここをどれほど深く体験しているか。思考に気づくことは、今に立ち返ることでもある。
昨日、「脱自化」などと変な言葉を書いてしまったが、書きたかったのは「脱同一化」である。自我に埋没して生きるのではなく、自我から一歩退いて自我の働きを見る、そんな意味合いで書いた。
やはり思考に気づくことが多くなっている。たとえばトイレに座ると、まずは何かを考え始める。何かを考えていたことにハッと気づく。それからはサティが始まる。また少しすると考えている。その繰り返した。風呂に入って湯船につかる。またハッと思考に気づく。あとは、湯の中での様々な体感覚や感情に気づいていく。
必要があって「臨死体験・気功・瞑想」の「覚醒・至高体験の事例集」の中の「心理学専攻の女性」の事例を読み返していた。たとえば次のような文章。
「ある日、周囲の現象や事物が今までとはどこか違ってみえることに気づいた。ひとつひとつの事物がなんとくっきり、あざやかにみえることか、店頭の果物や野菜までがぴちぴちと生きている。一輪の草花もその存在を主張するように明るく輝いて私に語りかけてくるようだ。私も共にあるそう強く感じると同時に深い感動と歓びが根底 からわきあがるのを覚え、何ものかに感謝し、叫びだしたい気持ちに襲われた。」
結局、大切なのは今ここでの体験なのだ。統制のきかない思考に没頭しているときは、完全に今ここから離れてしまう。だからこそ、そのつど思考から今の体験に舞い戻る。今ここをどれほど深く体験しているか。思考に気づくことは、今に立ち返ることでもある。
昨日、「脱自化」などと変な言葉を書いてしまったが、書きたかったのは「脱同一化」である。自我に埋没して生きるのではなく、自我から一歩退いて自我の働きを見る、そんな意味合いで書いた。