私の中で何かがますますはっきりしてきた。私はもう、それをほとんど全く疑っていない。その「何か」については、最近しばしばここに書いてきた。前回も書いた。しかしその「何か」への思いをもっと明確に表現したい。自分にももっとはっきりさせたい。そんな思いで今日もまた書く。
私たちが、死すべき命を与えられてこの世を生きているということ。だからこそ私は、死すべき命としての「私」を超えた存在を感じる。それを何々と積極的に表現することはできない。しかし、それは虚無ではない。それは確かに「私」の存在を支えている。
私が「自我」に埋没して生きれば生きるほど、それは見えなくなる。日常の時間の中で世俗に夢中になればなるほど、それは気づかれない。しかし、死すべき命を自覚するとき、「自我」の一切の追求は挫折することも知られる。時間の中に生きる「自我」の限界を自覚するとき、限界を超えた何かも自覚される。
「自我」は、物心両面で様々なものを所有しようとする。根源の「自我」の不安を押し隠そうとするためである。しかし、そうすればするほど、「自我」を超えたものは見えなくなる。
「自我」がすべてを失う覚悟をしたとき、「自我」という最後の砦さえも失う覚悟をしたとき、「自我」を超えた大切なものが出現するのだろう。
私は、私の「自我」が後生大事に抱きかかえているものを、誰かのために失ってもよいと思いつつ、なおそれを逡巡している。
私たちが、死すべき命を与えられてこの世を生きているということ。だからこそ私は、死すべき命としての「私」を超えた存在を感じる。それを何々と積極的に表現することはできない。しかし、それは虚無ではない。それは確かに「私」の存在を支えている。
私が「自我」に埋没して生きれば生きるほど、それは見えなくなる。日常の時間の中で世俗に夢中になればなるほど、それは気づかれない。しかし、死すべき命を自覚するとき、「自我」の一切の追求は挫折することも知られる。時間の中に生きる「自我」の限界を自覚するとき、限界を超えた何かも自覚される。
「自我」は、物心両面で様々なものを所有しようとする。根源の「自我」の不安を押し隠そうとするためである。しかし、そうすればするほど、「自我」を超えたものは見えなくなる。
「自我」がすべてを失う覚悟をしたとき、「自我」という最後の砦さえも失う覚悟をしたとき、「自我」を超えた大切なものが出現するのだろう。
私は、私の「自我」が後生大事に抱きかかえているものを、誰かのために失ってもよいと思いつつ、なおそれを逡巡している。