「自我(エゴ)」の欲求と企ては、どのみちすべて挫折する。その事実への気づきが、思考や知識のレベルにとどまるなら、私たちの生き方にどんな変かももたらさないだろう。
「人は必ず死ぬ」ということは、誰もが知識としては知っている。しかし、それだけでは、ひたすらエゴ拡大を目指す生き方に変化は起きない。生きて死ぬという、限りある人の命に直面して、生き方さえも変わっていくのは、どのようにしてなのか。
ひとつは、「自我(エゴ)」追求の生き方が、直接に限界状況にぶつかるときだろう。エゴ追求を諦めざるを得ないような状況に追い込まれたとき。それは、エゴの追求を徹底的に無意味してしまう。やむを得ず「自我(エゴ)」を剥ぎ取られ、エゴを超えた「何か」しか残らない。
幸か不幸か限界状況に追い詰められず、そこそこ幸せに暮らしている場合はどうか。「自我(エゴ)」の働きをじっと見つめる(気づいている)状態を保つならば、「自我(エゴ)」の実態のなさ、それを保持することのむなしさが少しずつ見えてくるのかも知れない。
「人は必ず死ぬ」ということは、誰もが知識としては知っている。しかし、それだけでは、ひたすらエゴ拡大を目指す生き方に変化は起きない。生きて死ぬという、限りある人の命に直面して、生き方さえも変わっていくのは、どのようにしてなのか。
ひとつは、「自我(エゴ)」追求の生き方が、直接に限界状況にぶつかるときだろう。エゴ追求を諦めざるを得ないような状況に追い込まれたとき。それは、エゴの追求を徹底的に無意味してしまう。やむを得ず「自我(エゴ)」を剥ぎ取られ、エゴを超えた「何か」しか残らない。
幸か不幸か限界状況に追い詰められず、そこそこ幸せに暮らしている場合はどうか。「自我(エゴ)」の働きをじっと見つめる(気づいている)状態を保つならば、「自我(エゴ)」の実態のなさ、それを保持することのむなしさが少しずつ見えてくるのかも知れない。