死すべき命としての私を超えた「何か」を思うとき、生き方も変わる。生き方ないし行為の基盤が「自我」から、自我を超えた「何か」に移されるからだ。
「自我(エゴ)」は、限りある仮そめの存在である。それに根ざして行為するのはむなしい。エゴを中心として世界を歪曲し、エゴの枠を通して行為するとき、エゴを超えた「何か」は退いて、それに触れることができない。
エゴを超えた「何か」に根ざして、エゴの関心を超えた立脚地から、ただひたすらに真っ直ぐに行為するとき、「何か」の存在はますます確かとなる。そのような生き方は、かつて夢の中で白鶴のイメージとなって現れた。
しかし、白鶴のイメージはどこかでそういうイメージに酔う「自我」の臭いを感じる。同時に現実には、「何か」の確かさを感じつつも、あいかわらず「自我」に必死にしがみついているのを感じる。
ただ、一瞬一瞬の行為において、以前ほどエゴにとらわれなくなった気がする。すべてを投げ出す覚悟が、わずからながらでき始めたように思う。
「自我(エゴ)」は、限りある仮そめの存在である。それに根ざして行為するのはむなしい。エゴを中心として世界を歪曲し、エゴの枠を通して行為するとき、エゴを超えた「何か」は退いて、それに触れることができない。
エゴを超えた「何か」に根ざして、エゴの関心を超えた立脚地から、ただひたすらに真っ直ぐに行為するとき、「何か」の存在はますます確かとなる。そのような生き方は、かつて夢の中で白鶴のイメージとなって現れた。
しかし、白鶴のイメージはどこかでそういうイメージに酔う「自我」の臭いを感じる。同時に現実には、「何か」の確かさを感じつつも、あいかわらず「自我」に必死にしがみついているのを感じる。
ただ、一瞬一瞬の行為において、以前ほどエゴにとらわれなくなった気がする。すべてを投げ出す覚悟が、わずからながらでき始めたように思う。