瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

今にあらがはない

2009年05月23日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『Stillness Speaks: Whispers of Now』(訳書は、『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)より

A simple but radical spiritual practice is to accept whatever arises in the Now ―― within and without.

「単純だが根源的なスピリチュアルな実践は、「今」において――心の内側にであろうと外部にであろうと――あらわれるすべてを受け入れるということだ。」

ここにエックハルト・トールからのメッセージの一切が集約されているといってもよい。これをひとつの言葉でsurrender(降伏、明け渡し、放下)と置き換えてもよい。与えられた現実への、自我による一切のあらがいを止めてしまうこと。そのまま受け入れてしまうこと。

現実には、私の内側にも外側にもささやかな苦しみがある。それらへのあらがいを一切、放下してしまうことができるか。苦しみが、もっと大きな、たとえば深刻な病だったらどうか。一切を放下することができるか。しかし、悟りとはそういうことなのだろう。「今」あるすべてを受け入れ、それ以上を望まないこと。

それは、常に死を自覚する生き方でもあろう。死の前で、自我によるすべてのあらがいは虚しい。その虚しさに徹するとき自我は放棄されるのだろう。そして、自我が放棄されたとき、自我を超えたところで生きるようになるのだろう。

私にとっては、こうしたことを書かないよりは、書いて確認することで、自我や日常の虚しいあらがいに埋没する生き方から一瞬でも目覚めることを可能にする。その意味でも書くことが大切だと思う。
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われに返る

2009年05月23日 | 瞑想日記
相変わらずコメント欄でお返事することができない状態なのでこちらでお返事します。

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◆えりさん(2009-05-20 )へ

>ふと思ったのですが、エックハルト・トールのようにありのまま、そのままで、静けさの中で聴くことが、ブッタもできたのでしょうね。

>それも、素晴らしく、ありのまま受け取ることができたからこそ、沢山の人が悟りに到ったのではないかな?と考えました。

まさにその通りだと思います。そのような精神の状態にある人は、意識してどうこうしようというのではなく、結果的に周囲の人々の変化を多かれ少なかれ誘発していくのでしょうね。だからこそ師につくといことが大切なことなのでしょう。本物の師は、つねに相手のあり方にいちばん適した対応ができる人なのかも知れません。エックハルト・トールの、紹介させていただいたケースのように「何もしない」ことがベストの場合もあるでしょうし、激しい「叱責」が目覚めにつながることもあるのでしょう。

ロジャーズ派のカウンセリングは、何もしないあり方をクライエント中心療法として方法化したのですが、カウンセラーのあり方が問われます。「あり方」がエックハルト・トールやブッダに近づけば近づくほど、その「効果」はあらわれるということです。

>そう考えると、ヴィパッサナー瞑想、もうちょっと本腰をいれて、日々やろうと思いました。

そうですね、私もブログを書いたあとは書いた内容も忘れて日常の仕事にすっかり埋没してしまうことが多いので、ブログを書いたりコメントをいただいたりするこが、何度も何度も「われに返る」ことにつながります。

◆えりさん(2009-05-21、常に「今」だけ)

> いつも、自分が真に接することのできるのは、「今」だけだというのなら、どの瞬間も取り返しのつかない、そういうものだとしたら、とても真剣に向き合わなくてはならない。
そう思ってしまいます。

>ふわふわと、いつまでも生きていられると思って、夢の中みたいな生き方をするのは、もったいないなあと。

そうですね。この辺が、覚醒した人と、そうでない私たちとの意識のあり方との大きな違いのひとつなのでしょうね。私にできるのは、意識が十全に今に向き合っているかどうか、意識が過去や未来に飛んでいってしまっていないか、繰りかえしチェックして「われに返る」ことだと思っています。それさえ、忘れることが多いのですが。
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