◆昼前に50数分の瞑想。なぜか今日は足の痺れがまったくなかった。組み方によるのだろうか。いつも瞑想を始める前、わずかに「めんどうくさい」という思いが起る。しかし始めてから少したつと、瞑想による生理的な深い安定がきわめて居心地よくなる。
「瞑想しよう」と思うのは自我だ。しかし瞑想がめざすことは「自我に死ぬ」ことだ。ここに絶対的な矛盾がある。瞑想をするということはこの矛盾を生き、矛盾に苦しむことだ。これまで何回か参加した瞑想合宿のなかでさんざん苦しんできたのもこの矛盾のゆえだったと思う。期待が強く、かつそれに無自覚であればあるほど妄想に囚われ瞑想ができなかった。
自我は、修行の経過にともなって効果や成果が出ることを願う。効果がでないとやる気が萎える。しかしもし瞑想の「成果」や「結果」があるとすれば、それは自我へのご褒美としてのいっさいの「成果」「結果」への関心がゼロになること、それだ。ここに瞑想に限らず、求道そのものに内在する矛盾がある。
しかし、成果を期待する自我を否定することは無益だろう。誰もが自分を変えたいからこそ瞑想を始める。ご褒美を求めてもよい。ご褒美を求める今の自分を受け入れ、それをうまく利用しつつ、そういう自分を自覚していればよい。成果を期待して瞑想に励んでもよいのだ。大切なことは、そういう「自我の営み」を完全に自覚しているかどうかだ。そこに「気づき」があればそれでよい。「気づき」こそがすべてだ。
◆今日は雲っていたし薄着だったので瞑想の途中から少し寒くなった。だいぶ時間もたっていたので「やめたい」という気持も起ってきた。以前は、そう思うと、そういう気持の変化に充分サティせずに瞑想をやめることが多かった。最近は、やめたいという思いに充分気づき、確認してからやめることにしている。しかし今日は、「やめたい」とラベリングしてやめるだけでは、サティになっていないことに気づいた。
いつもは足の痛みが起ると瞑想をやめようとく気持が起る。しかし、今日は足の痛みやまったくなく寒さが原因だった。「寒さ」とあらためてラベリングする。寒さを感じているのは確かだ。しかし次に「やめたい」ではラベリングにもサティにもならない。自分の中の「やめたい思い」に気づいたうえで「やめたい思い」とラベリングするのが「正解」だろう。今日は充分に時間をとって「やめたい思い」をしっかり自覚した上でやめた。
「瞑想しよう」と思うのは自我だ。しかし瞑想がめざすことは「自我に死ぬ」ことだ。ここに絶対的な矛盾がある。瞑想をするということはこの矛盾を生き、矛盾に苦しむことだ。これまで何回か参加した瞑想合宿のなかでさんざん苦しんできたのもこの矛盾のゆえだったと思う。期待が強く、かつそれに無自覚であればあるほど妄想に囚われ瞑想ができなかった。
自我は、修行の経過にともなって効果や成果が出ることを願う。効果がでないとやる気が萎える。しかしもし瞑想の「成果」や「結果」があるとすれば、それは自我へのご褒美としてのいっさいの「成果」「結果」への関心がゼロになること、それだ。ここに瞑想に限らず、求道そのものに内在する矛盾がある。
しかし、成果を期待する自我を否定することは無益だろう。誰もが自分を変えたいからこそ瞑想を始める。ご褒美を求めてもよい。ご褒美を求める今の自分を受け入れ、それをうまく利用しつつ、そういう自分を自覚していればよい。成果を期待して瞑想に励んでもよいのだ。大切なことは、そういう「自我の営み」を完全に自覚しているかどうかだ。そこに「気づき」があればそれでよい。「気づき」こそがすべてだ。
◆今日は雲っていたし薄着だったので瞑想の途中から少し寒くなった。だいぶ時間もたっていたので「やめたい」という気持も起ってきた。以前は、そう思うと、そういう気持の変化に充分サティせずに瞑想をやめることが多かった。最近は、やめたいという思いに充分気づき、確認してからやめることにしている。しかし今日は、「やめたい」とラベリングしてやめるだけでは、サティになっていないことに気づいた。
いつもは足の痛みが起ると瞑想をやめようとく気持が起る。しかし、今日は足の痛みやまったくなく寒さが原因だった。「寒さ」とあらためてラベリングする。寒さを感じているのは確かだ。しかし次に「やめたい」ではラベリングにもサティにもならない。自分の中の「やめたい思い」に気づいたうえで「やめたい思い」とラベリングするのが「正解」だろう。今日は充分に時間をとって「やめたい思い」をしっかり自覚した上でやめた。