瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

クリアなサティが持続する

2006年10月25日 | 瞑想日記
今日は、職場でもサティをしようとする意志と実際のサティとが、ある程度は持続した。そして何より実感するのは、サティ中にときおり想念が浮かんでもかなり的確にサティが入るということである。そのときはもちろん、その想念と自我との関係も確認する。「ああ、今のは、あの人との関係で優越感を確認するための思考だったな」等々。

今までは職場では、たとえば廊下を歩いているときなど、ごく限られた行動でのサティしかしていなかったような気がする。職場以外でも日常生活の中では本当に部分的にしかもかなり散漫なサティしかできていなかった。

しかし、今日は違った。たとえば、椅子に座ったり、立ったり、ロッカーを開け閉めしたり、上着を着たりという動作にまできめ細かにサティが入るようになった。お茶を入れたり、飲んだりするときのひとつひとつの手の動きにもサティが入った。さらにキーボードを個々の打つ指の動きにもサティは入るのだということが分かった。

全体にサティの間に浮かぶ思考に対しても的確にサティが入ることが多くなった。小さな思考にサティが入り、それが「自我」との関係で何らかの小さな洞察につながっったことが、今日も何回もあった。

職場から駅まで歩いた20分間は、おそらくこれまでこの道を歩いた中でいちばんクリアにサティが持続した時間だった。何が今、知覚の中心対象なのかが自動的に判断され、めぐるましく変化し続ける対象にすばやくサティが入った。かすかな一瞬の思考にもサティが入った。その状態は、駅についても途切れることがなかった。

かなりの疲れがあった。電車にのって座席に座ると眼を閉じた。それでもサティはしっかりと入れることが出来た。そのうちウトウトして夢のようなイメージを見ていたときはサティが入らなかったが、入らなかったのはその時だけだったような気がする。

電車を乗り換えて立っていた時に思い出した。これは先日、寝床の中で半分寝ぼけながら「なんだ、完璧にサティが入っているじゃないか」と感じたのと同じ状態だと。あの時と同じことが出来ているらしいと。逆に、あの時、寝ぼけながら感じていたことはやはり本当のことだったようだ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« サティへの自覚 | トップ | 小さな発見の新鮮な感覚 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

瞑想日記」カテゴリの最新記事