瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

師から見た修行者を描く

2006年11月14日 | 読書日誌
10月19日付けのコメントでクシャトリアさんから、井上希道著『座禅はこうするのだ』(地湧社、1996年)という本を薦められ、読んでみた。著者は少林窟道場主の禅僧である。少林窟道場のホームページは以前覗いたことがある。この道場について批判めいたコメントを聞いたことがあるが、詳しくは知らない。

本を読んだかぎりでは、すこぶる興味深かった。著者が何人かの参禅修行者を指導していく様子をきわめて具体的に描いており、そのひとつひとつの指導や指摘は、ヴィパッサナー瞑想を実践していく上でもおおいに刺激となり、参考となった。

印象としては、目指すところや修行方法の本質的な部分で、かなりの共通点があるが、ヴィパッサナー瞑想の方が、おおくの手がかり足がかりが用意されていて、初心者が確実に一歩一歩進んでいける親切さがある、という感じである。

また、修行者と師と双方の熱烈なる菩提心には、読んでいてつねに刺激を受け続けた。自分が日々実践していることを、やや別の角度から、本質は変わらないが少し違う方法において、私がいつも使っているのとは少し違う禅的な表現で、確認できた。それによって逆に、自分がおこなっている修行が、本質的に間違いがないということを再確認することができた。こんなところか。

詳しくは追って触れていきたい。

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3 コメント

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どうも (クシャトリア)
2006-11-16 13:10:20
ご多忙の中、お読みいただき感想まで聞くことが出来て嬉しく思います。noboruさんにとってもビパッサナー瞑想に何か関連するところがあったようで、よかったですね。

ところで、速度を10分の1に落として綿密にやる方法においてどう思いましたか。理屈で僕の考えをいうと、今に綿密にあれば確かに過去や未来その他入る隙間はないけれども、逆に今に囚われてしまい縄をかけた猫のように不自由になるのではないかということです。
しかしこれが成りきるという状態にまでなれば、話は別かもしれません。何度かやってみましたが、只、自転車を漕いでいること数十分、確かにそれは無念無心の心に近く、深めれば無念の念に行き着くかもしれません。
結局、途中でこのように探りを入れてしまうからいけないのですが・・。今まで、僕が偶然にそのような状態になったのはまさに一瞬に近い出来事でしかなかったので、そういったやり方に首を傾げるのです。もしかしたらそのような過程を踏んでいて、無意識の意識上気付かないだけだったのかもしれませんが。
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詳しくは日記で (Noboru)
2006-11-16 22:42:00
クシャトリアさん、

私にとっても大変に興味深く、刺激になった本でした。ご紹介いただいたこと感謝します。

速度を10分の1に落として綿密にやる方法は、まさしくヴィパッサナー瞑想における日常の立ち居振る舞いでの瞑想と同じことですね。今の身体感覚に注意を注いで、拡散する思考をおさめていくやり方ですね。

これについてですが、日記の方で、おいおい取り上げて行きたいと思います。ご了承ください。
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Unknown (クシャトリア)
2006-11-20 02:24:39
ありがとうございます。

本書で、確か白隠禅師の、雑念を入れずに只、それをすればよろしい、とかを聞いたおさんどんのお話。彼女はそれから只、する。だけの日常の末、道を開いたといいいます。 今一瞬を生きることには確かにそれは足がかりとなるのでその綿密にやる方法に関心があります。
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