私たちの脳内おしゃべりは、なかば夢に似ている。
多くの場合それは、何かを意識的に考えようとして始まるのではなく、自分の自覚的な意図とは関係ないところで始まり、展開していく。夢が自分の意図とは関係なく展開していくように。
脳内おしゃべりが展開する仕方にはいくつものパターンがあるだろう。よくあるパターンをひとつあげてみよう。
(1)家の外のクラクションの音→(2)クラクションの音に関係する思い出Aのこと→(3)その思い出にかかわる人物Xのこと→(4)人物Xにかかわる別の思い出①‥‥‥
こんな風に思考が展開していったとしよう。きっかけは家の外で聞こえたクラクションの音だが、そこから、なぜ関係する思い出Aが連想されたのかは、ほとんどの場合、無自覚だろう。関係する思い出BやCが思い出されず、Aだったのはなぜか。意図的に振り返れば理由がわかるかもしれないが、わざわざ振り返ること自体が特殊ケースだろう。多くは、無意識のうちにAが連想されるのだ。(3)の人物Xについても同じことが言える。人物YやZが連想されても不思議ではないが、なぜXだったのか。これについても無自覚のうちに連想されたのだ。
このようにして無自覚のうちに、次から次へと連想が展開していく場合が、日常的な思考の多くの部分を占めている。その意味で日常的な思考は、同じように無自覚のうちに展開していく夢に似ている。
また、夢の内容が無意識層に関係する意味をもっているのと同じように、他の何かではないAや、他の誰かではないXが連想されて展開していく思考にも、無意識に関係する何かが、次になにが連想されるかを方向付けているかもしれない。
夢と日常的な思考は、似ていない部分もある。夢はイメージ中心に展開するが、脳内おしゃべりは、言葉による。しかし、ぼーと何かを考えているうちにイメージの展開が中心になっていたなどということもあるだろう。ハッと我に帰って今日の仕事の段取りを考え始めたとすれば、それは意図的な思考となる。
テーマは、私たちの盲点としての日常的思考(脳内おしゃべり)であった。問題は、私たちは絶えず脳内おしゃべりを続けていながら、そのおしゃべりについて、無自覚で受動的だということだ。自分で充分コントロールもできず、なかば気づくこともない何かが、頭の中でたえず活動しているのに、とりたててそれを問題にしない。問題にする必要も感じていない。それが「盲点」という言葉で言いたかったことだ。
多くの場合それは、何かを意識的に考えようとして始まるのではなく、自分の自覚的な意図とは関係ないところで始まり、展開していく。夢が自分の意図とは関係なく展開していくように。
脳内おしゃべりが展開する仕方にはいくつものパターンがあるだろう。よくあるパターンをひとつあげてみよう。
(1)家の外のクラクションの音→(2)クラクションの音に関係する思い出Aのこと→(3)その思い出にかかわる人物Xのこと→(4)人物Xにかかわる別の思い出①‥‥‥
こんな風に思考が展開していったとしよう。きっかけは家の外で聞こえたクラクションの音だが、そこから、なぜ関係する思い出Aが連想されたのかは、ほとんどの場合、無自覚だろう。関係する思い出BやCが思い出されず、Aだったのはなぜか。意図的に振り返れば理由がわかるかもしれないが、わざわざ振り返ること自体が特殊ケースだろう。多くは、無意識のうちにAが連想されるのだ。(3)の人物Xについても同じことが言える。人物YやZが連想されても不思議ではないが、なぜXだったのか。これについても無自覚のうちに連想されたのだ。
このようにして無自覚のうちに、次から次へと連想が展開していく場合が、日常的な思考の多くの部分を占めている。その意味で日常的な思考は、同じように無自覚のうちに展開していく夢に似ている。
また、夢の内容が無意識層に関係する意味をもっているのと同じように、他の何かではないAや、他の誰かではないXが連想されて展開していく思考にも、無意識に関係する何かが、次になにが連想されるかを方向付けているかもしれない。
夢と日常的な思考は、似ていない部分もある。夢はイメージ中心に展開するが、脳内おしゃべりは、言葉による。しかし、ぼーと何かを考えているうちにイメージの展開が中心になっていたなどということもあるだろう。ハッと我に帰って今日の仕事の段取りを考え始めたとすれば、それは意図的な思考となる。
テーマは、私たちの盲点としての日常的思考(脳内おしゃべり)であった。問題は、私たちは絶えず脳内おしゃべりを続けていながら、そのおしゃべりについて、無自覚で受動的だということだ。自分で充分コントロールもできず、なかば気づくこともない何かが、頭の中でたえず活動しているのに、とりたててそれを問題にしない。問題にする必要も感じていない。それが「盲点」という言葉で言いたかったことだ。