瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

エッジ:気づきの限界点

2004年12月17日 | 瞑想日記
15日の「未消化の問題」について読者の方からメールをいただいた。アーノルド・ミンデルのエッジという考え方が、私の瞑想に役にたつのではないかと、わざわざ書いてくれたのだ。ミンデルには以前から興味をもっているが、プロセス指向心理学の方法を本格的に実践するまでには至っていない。プロセス指向心理学のワークに出てみたいという気持ちは、ずっともっているが、具体的に動こうと思うほど強いものではなかった。

ただ、2002年~2003年★ヴィパッサナー瞑想合宿レポート の中で、メガネの錯覚にイメージでアプローチしているのは、何かしらミンデルの影響を受けているかも知れない。

メールをいただいたのが刺激となってエッジについて復習する気になった。エッジとは、「がけっぷち」のようなもので、「気づきの限界点」だという。たとえば、「自分はやさしい」というアイデンティティの言葉は、「自分は冷たい人間ではない」という限界をもっている。しかし、現実においてやさしいだけではどうにもならなくなってきて、無意識に「もうやさしい人はいやだ」という声が出てくる。そのとき、やさしさと冷たさや厳しさとを統合して、全体性を回復するプロセスが始まる。このように従来の自分のアイデンティティでは受け入れられないメッセージをプロセスが伝えようとするときが、エッジである。

もしかしたら、これはヴィパッサナー瞑想の心随観におけるラベリングの本質につながるものがあるかも知れない。通り一遍のラベリングでは何も変わらないときに、これまでよりも自分をもっと広い視野から、あるいは新しい視点から見るようなラベリングがどこからか浮かんでくる。それは、全体性をとりもどそうとするプロセスから出てくる声なのかも知れない。

ともあれ、「エッジとは、自分が受け入れられる限界であり、既知の世界と未知の世界とをへだてる境界線なのである。」(ミンデル『自分探しの瞑想』地湧社)
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未消化の問題

2004年12月15日 | 瞑想日記
最近めずらしく、ある人物とちょっとした言い争いをした。互いの認識にずれがあり、どうしても相手の見方を認めることができなかった。ささいなことだったが、私が正しいと思って主張したことを相手は「分けがわからん」と強く否定し、互いにプライドを傷つけ合うかたちとなった。自分がついつい声を荒げたことに、私は自分の中の受容しきれていない問題を強く感じた。無意識に押さえつけたままにしている何かが刺激されたから、ああいう反応となってしまったのだ。そして、痛切に何とかしなければならないと感じた。自分自身がかかえこんで未消化のままになっている問題やその反応で人を傷つけてはならないと思った。

受容しきれていない何かを受容し、開放すべきときに来ている。そして、今の私にとってそれを可能にするのは深い瞑想だ。
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もろき体への感覚

2004年12月14日 | 瞑想日記
◆傾聴瞑想
採点作業のとき、妄念(思考)が浮かんだらすぐに「思考」とサティして、採点に集中するようにした。解答用紙をしっかりみつめそこから注意をそらさないようにした。結果は、やはりこれまでに比べるとミスが非常に少なかった。これからは、様々な日常の作業で、同じようなサティを工夫していくことになるだろう。

ただし、自分が話をしたり講義をしたりしているときのサティは難しい。キーボードをたたいているときは、工夫しだいでできるかも知れない。文章を考えながらキーボードをたたいてるときは、そのテーマに集中する。文は頭の中でまとまっているときは、キーボードの指の動きに集中できるかも知れない。直接関係のない思考が浮かんだら、そのづどサティする。

人の話を聴いているときというのは、非常に大切だ。まさに自分の主観や偏見から自由に聴く、あるがままを聴くという意味で「傾聴瞑想」ともいえそうだ。いつか触れたかも知れぬが、もう一度引用しておく。

「今」に生きるための方法の一つは、
人のいうことに心から耳を傾けることです。
一つ一つの会話を大切にして、
新たな気持ちで相手がどんなことを伝えたいのかを、
「本当に」聞こうとすれば、あっという間に人生を変えることができます。
(エリエール&シーヤ・カーン 『今ここに生きる力』voice)

◆体の感覚
日常生活の中でサティをしていると、普通なら自覚化せぬままに消えていく様々な体の感覚に気づく。微妙に変化する気の感覚や、胃の順調なぜん動。足裏の小さな痛み、呼吸にともなう腹の動き。腹の動きにともなう気の充実を感じると、とりあえず健康であることの喜びも感じられる。

今日はしかし、その健康がはかなく脆い基盤の上にしかないことへのかすかな不安も感じた。多くの人々が、そのはかない基盤を侵食されて絶望的な苦しみを味わっているだろうことへの思い。そしてふと思った。私が瞑想合宿時にいつも、かけていないのにかけているかのように感じてしまう「メガネ」の錯覚は、そのはかなく脆い「基盤」を直視することへの抵抗ではないかと。肉体というものの本質的なはかなさ、もろさを直視することへの抵抗。もちろん「メガネ」の意味は重層的なのだろうが。しかし今日、「メガネ」の意味の一端にかすかに触れたような気がした。
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「死んでも生き返る」

2004年12月13日 | 普通の日記
帰宅して少ししてから、8時前後だったと思うが、TBSラジオの番組スタッフという方から電話があった。「死んだ人が生き返ることがあると考える子供が5人に1人いること分かった」という、小中高生を対象とした意識調査の結果が、11日のニュースで流れていた。それに関係した番組のための調査ということで、臨死体験についていくつかの質問をしたいとのことだった。聞かれるままに簡単に答えていると、実は番組は今夜(12時すぎ)で、そこで電話によるインタビューという形で出演してもらえないかと打診された。急なことでびっくりしたが、予めだいたいどんな内容の話をすればよいのか教えていただけるのなら、ということで承諾した。出演しらもらうことになるかどうかまだはっきりしないのだが、ともあれ9時過ぎにはもう一度電話をするとのことだった。

このニュースは、ざっと読んだ記憶はあったが、念のため確認してみた。「死んでも生き返る」

これと臨死体験とをどんな観点から結びつけて話せというのか、はっきりしなかかったが、ともあれ電話を待った。10時近くにあった電話の結果は、「臨死体験とのからみでお話を聴く時間はとれないようなので、なしになりました」というものだった。私自身、子どものこうした意識と臨死体験とに直接関係があるとも思えなかったので、ラジオ局の判断は当然だと思った。

しかし、以下のようなことは考えられなくもない。

肉体が完全に死んでしまったのに、その肉体ととも再び生き返るということは、もちろん、ありえない。子どもたちが、そういうことがありうると考えているのだとすれば、かなり深刻な問題だ。質問の文面がどのようなもので、どのように意味をとったのかも問題だ。それがはっきりしないと確かなことは言えない。

ただ、生まれ変わりと混同した子どもたちが多かったのかも知れない。(1995年の調査、大学生3773人の調査で、その52パーセントが、輪廻転生の存在に肯定的だったという数字もある。)

臨死体験そのものは、最近それほどメディアで取り上げられることは多くないが、多くの子どもたちが、臨死体験について一度や二度はテレビでなどで見たり、身近な人に話を聴いたりしたことがあるだろう。さらにそれが体外離脱のイメージと重なったりして、そういう漠然としたイメージをもとにして、「生き返ることがある」と答えたとも考えれる。可能性はある。

いずれにせよ、気になる数字ではある。 
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真実を呼び覚ます場

2004年12月12日 | 瞑想日記
朝の座禅、40分ほど。昨日よりも思考が多い。一方で、きまめて微妙な思考にもサティが入っているのを感じる。たとえば、少し思考が続いたのに気づき、腹の動きに戻ろうとする、その戻ろうとする意志、ほとんど思考とも言えないような「戻ろう」というかすかな思考にサティが入る。

瞑想へのサティへの思いが再び強くなり、深まりつつある。それは、最近の瞑想に何かしら手応えを感じているからかも知れない。しかし、そこにまた「期待」という躓き石が巧妙に忍び込んでくることに自覚的でなければならない。

昨日アップした、夏の合宿のレポートに確認のためもあってさっと目を通した。2・3字句を訂正しなければならないことに気づいた。また、今回は急いでアップしたため、「はじめに」に当たる部分がなかった。後ほど入れよう。

レポートを読み返していて、合宿時の感覚が体によみがえってくる。何かが私の中に響き始める。あえて言葉にすると、「自分の中に隠された真実を呼び覚ますための場」に、心の奥の方が共鳴し始めるとでもいおうか。
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