瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「私」への集中

2007年03月14日 | 瞑想日記
調べたいことがあってサイト上に瞑想日記を公開しはじめた「さるさる日記」の時代からの日記をざっと読み直している。2001/05/23付けの日記にこんな内容のものがあった。

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「私を意識し続ける」

◆先日、「覚醒・至高体験の事例集」にリンクという形で「私の宗教的体験」というサイトを紹介した。私のサイトの掲示板に何回か投稿してくださった光波さんがそのサイトへ彼自身の至高体験をメールを送られたようで、そのサイトに紹介されていた。

「ある本に、覚醒するための方法として次のような内容が書かれていました。その内容の通りに、即実行しました。

ちょうど、一ヶ月の間、『私』に対して意識を四六時中持続させるという、訓練をしてみたのです。
トイレに行こうが、食事をしていようが、お客さんと話をしていようが、眠りに就こうが、朝目覚めようが、『私』という何かに対して意識を集中し続けました。」

そしてある旅行の帰り次のような体験をしたという。

「目は開いていますが、前方の景色が白金色に空間が満ち溢れてきました。光が遍満してきたのです。それでも、車は40キロで走っていました。ただし、後で知りましたが。」

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これに刺激を受けて、私自身が「私」に集中することを試み、その感想を何日か書いている。それらも必要に応じて再録していこうと思う。

私が、はじめてグリーンヒル瞑想合宿所の10日間合宿に参加したのは、この年2001年の夏だから、この日記を書いた時点では、ヴィパッサナー瞑想の方法についてはまだほとんど知らない時期である。

ヴィパッサナー瞑想の経験をある程度積んだ今、上の日記を読み直して、思うことが多かった。それで再録したのである。

一つ感じたのは、ヴィパッサナー瞑想のサティという方法を知った今では、「私」への集中ではないにしても、「私(自我)」への気づきは、サティをしてればしばしば起るということである。

一瞬一瞬の「私」の思考や感情に気づき、「私」へのとらわれに敏感になるのがサティだからである。

そう、一瞬一瞬の思いか感情に気づけば気づくほど、それは「私」に気づいていくことなのである。
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「自我」が挫折するとき

2007年03月12日 | 瞑想日記
「自我(エゴ)」の欲求と企ては、どのみちすべて挫折する。その事実への気づきが、思考や知識のレベルにとどまるなら、私たちの生き方にどんな変かももたらさないだろう。

「人は必ず死ぬ」ということは、誰もが知識としては知っている。しかし、それだけでは、ひたすらエゴ拡大を目指す生き方に変化は起きない。生きて死ぬという、限りある人の命に直面して、生き方さえも変わっていくのは、どのようにしてなのか。

ひとつは、「自我(エゴ)」追求の生き方が、直接に限界状況にぶつかるときだろう。エゴ追求を諦めざるを得ないような状況に追い込まれたとき。それは、エゴの追求を徹底的に無意味してしまう。やむを得ず「自我(エゴ)」を剥ぎ取られ、エゴを超えた「何か」しか残らない。

幸か不幸か限界状況に追い詰められず、そこそこ幸せに暮らしている場合はどうか。「自我(エゴ)」の働きをじっと見つめる(気づいている)状態を保つならば、「自我(エゴ)」の実態のなさ、それを保持することのむなしさが少しずつ見えてくるのかも知れない。
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その「何か」に従って生きる

2007年03月06日 | 瞑想日記
限りある命を自覚すると、同時にそれを超えた「何か」も意識される。生死を超えた「何か」。そして、その「何か」に従って生き、行為したいと思う。そこには深い安らぎがある。

その「何か」に従って生きるとは、実にシンプルなことだ。「自我(エゴ)」を中心にせずに生き、行為するということである。そうすれば自ずから、生死を超える「何か」に従って生きることになる。

「自我(エゴ)」を中心にせず、エゴによってゆがめずに現実を見ることができるなら、その瞬間瞬間の状況や関係の中で、その状況や関係にとって何がもっとも大切なことであるかが、自ずから見えてくるであろう。少なくとも真に必要とされていることが何であるかが、エゴに囚われている人よりもよく見えてくるであろう。

一個人の生死を超えた「何か」とは、連綿と続く生命や宇宙の生成であると言ってもよい。しかし、それを唯物的に機械論的にとらえたり、「盲目的な意志」ととらえてしまえば、私の感じていることとはずれてしまう。

これ以上語ると説明になってしまいそうなので止める。少なくとも、その「何か」から真っ直ぐにエゴを超えた生き方が響いてくる。その「何か」を感じるからこそ、エゴによって惑わされない生き方が、深い意味を帯びて「何か」に支えられる。
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エゴを超えた大地から

2007年03月04日 | 瞑想日記
死すべき命としての私を超えた「何か」を思うとき、生き方も変わる。生き方ないし行為の基盤が「自我」から、自我を超えた「何か」に移されるからだ。

「自我(エゴ)」は、限りある仮そめの存在である。それに根ざして行為するのはむなしい。エゴを中心として世界を歪曲し、エゴの枠を通して行為するとき、エゴを超えた「何か」は退いて、それに触れることができない。

エゴを超えた「何か」に根ざして、エゴの関心を超えた立脚地から、ただひたすらに真っ直ぐに行為するとき、「何か」の存在はますます確かとなる。そのような生き方は、かつて夢の中で白鶴のイメージとなって現れた。

しかし、白鶴のイメージはどこかでそういうイメージに酔う「自我」の臭いを感じる。同時に現実には、「何か」の確かさを感じつつも、あいかわらず「自我」に必死にしがみついているのを感じる。

ただ、一瞬一瞬の行為において、以前ほどエゴにとらわれなくなった気がする。すべてを投げ出す覚悟が、わずからながらでき始めたように思う。
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「自我」の逡巡

2007年03月03日 | 瞑想日記
私の中で何かがますますはっきりしてきた。私はもう、それをほとんど全く疑っていない。その「何か」については、最近しばしばここに書いてきた。前回も書いた。しかしその「何か」への思いをもっと明確に表現したい。自分にももっとはっきりさせたい。そんな思いで今日もまた書く。

私たちが、死すべき命を与えられてこの世を生きているということ。だからこそ私は、死すべき命としての「私」を超えた存在を感じる。それを何々と積極的に表現することはできない。しかし、それは虚無ではない。それは確かに「私」の存在を支えている。

私が「自我」に埋没して生きれば生きるほど、それは見えなくなる。日常の時間の中で世俗に夢中になればなるほど、それは気づかれない。しかし、死すべき命を自覚するとき、「自我」の一切の追求は挫折することも知られる。時間の中に生きる「自我」の限界を自覚するとき、限界を超えた何かも自覚される。

「自我」は、物心両面で様々なものを所有しようとする。根源の「自我」の不安を押し隠そうとするためである。しかし、そうすればするほど、「自我」を超えたものは見えなくなる。

「自我」がすべてを失う覚悟をしたとき、「自我」という最後の砦さえも失う覚悟をしたとき、「自我」を超えた大切なものが出現するのだろう。

私は、私の「自我」が後生大事に抱きかかえているものを、誰かのために失ってもよいと思いつつ、なおそれを逡巡している。
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