調べたいことがあってサイト上に瞑想日記を公開しはじめた「さるさる日記」の時代からの日記をざっと読み直している。2001/05/23付けの日記にこんな内容のものがあった。
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「私を意識し続ける」
◆先日、「覚醒・至高体験の事例集」にリンクという形で「私の宗教的体験」というサイトを紹介した。私のサイトの掲示板に何回か投稿してくださった光波さんがそのサイトへ彼自身の至高体験をメールを送られたようで、そのサイトに紹介されていた。
「ある本に、覚醒するための方法として次のような内容が書かれていました。その内容の通りに、即実行しました。
ちょうど、一ヶ月の間、『私』に対して意識を四六時中持続させるという、訓練をしてみたのです。
トイレに行こうが、食事をしていようが、お客さんと話をしていようが、眠りに就こうが、朝目覚めようが、『私』という何かに対して意識を集中し続けました。」
そしてある旅行の帰り次のような体験をしたという。
「目は開いていますが、前方の景色が白金色に空間が満ち溢れてきました。光が遍満してきたのです。それでも、車は40キロで走っていました。ただし、後で知りましたが。」
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これに刺激を受けて、私自身が「私」に集中することを試み、その感想を何日か書いている。それらも必要に応じて再録していこうと思う。
私が、はじめてグリーンヒル瞑想合宿所の10日間合宿に参加したのは、この年2001年の夏だから、この日記を書いた時点では、ヴィパッサナー瞑想の方法についてはまだほとんど知らない時期である。
ヴィパッサナー瞑想の経験をある程度積んだ今、上の日記を読み直して、思うことが多かった。それで再録したのである。
一つ感じたのは、ヴィパッサナー瞑想のサティという方法を知った今では、「私」への集中ではないにしても、「私(自我)」への気づきは、サティをしてればしばしば起るということである。
一瞬一瞬の「私」の思考や感情に気づき、「私」へのとらわれに敏感になるのがサティだからである。
そう、一瞬一瞬の思いか感情に気づけば気づくほど、それは「私」に気づいていくことなのである。
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「私を意識し続ける」
◆先日、「覚醒・至高体験の事例集」にリンクという形で「私の宗教的体験」というサイトを紹介した。私のサイトの掲示板に何回か投稿してくださった光波さんがそのサイトへ彼自身の至高体験をメールを送られたようで、そのサイトに紹介されていた。
「ある本に、覚醒するための方法として次のような内容が書かれていました。その内容の通りに、即実行しました。
ちょうど、一ヶ月の間、『私』に対して意識を四六時中持続させるという、訓練をしてみたのです。
トイレに行こうが、食事をしていようが、お客さんと話をしていようが、眠りに就こうが、朝目覚めようが、『私』という何かに対して意識を集中し続けました。」
そしてある旅行の帰り次のような体験をしたという。
「目は開いていますが、前方の景色が白金色に空間が満ち溢れてきました。光が遍満してきたのです。それでも、車は40キロで走っていました。ただし、後で知りましたが。」
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これに刺激を受けて、私自身が「私」に集中することを試み、その感想を何日か書いている。それらも必要に応じて再録していこうと思う。
私が、はじめてグリーンヒル瞑想合宿所の10日間合宿に参加したのは、この年2001年の夏だから、この日記を書いた時点では、ヴィパッサナー瞑想の方法についてはまだほとんど知らない時期である。
ヴィパッサナー瞑想の経験をある程度積んだ今、上の日記を読み直して、思うことが多かった。それで再録したのである。
一つ感じたのは、ヴィパッサナー瞑想のサティという方法を知った今では、「私」への集中ではないにしても、「私(自我)」への気づきは、サティをしてればしばしば起るということである。
一瞬一瞬の「私」の思考や感情に気づき、「私」へのとらわれに敏感になるのがサティだからである。
そう、一瞬一瞬の思いか感情に気づけば気づくほど、それは「私」に気づいていくことなのである。