瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

捨ててしまえ

2008年11月14日 | 瞑想日記
ある人の「生きる姿勢」が私を苦しめているのだが、その苦しみを通して聞こえてくる声がある、「捨ててしまえ」と。「日常的な自我」としての私が、後生だいじに守ろうとしている一切を捨ててしまえ。元気に健康に生きることが出来たとしても、たかだかあと10年だろう。それだって、今のように普通に活動できる状態が続くとはかぎらない。最低限の衣食住を保つことが出来る以上の何が必要だというのだ。

さとりは、「自我」の死であり、大転換であろうから、「自我」である私にとっては、その一歩を踏み出すことに少なからぬ躊躇や絶大な恐怖があるだろう。しかし、たかだかあと10年、何を守ろうというのだ。何を恐れることもないではないか。捨ててしまえ、そして、本当に大切なことだけをしていこうと。
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一瞬一瞬が、気づきのチャンスだ。

2008年11月13日 | 瞑想日記
具体的に書くことは出来ないが、いままでずっと問題として横たわっていた件が、この数日、いよいよ決定的に確実な問題として見えてきてしまった。しかも、当面こちらからどうすることも出来ない。

確かに、苦しく悲しい現実なのだが、一方で、この苦しみが私を成長へと促しているのも確かなようだ。苦しみを意識することは、人生そのものの「無常」を意識することにつながっていた。「自我」とその「物語」を相対化し、客観視する視点を与えてくれた。

「私」とその「物語」という構築物を支える根拠は、実は何もない。根源的に不安定なものだのだ。それをいちばんはっきりと示すのは「私」の死という現実だろう。その構築物の虚構性、はかなさ、無常性をより強く実感するのは、苦しみに直面したときだ。

瞑想する時間も多くなっている。たぶん無意識の衝動に駆られるようにして延々と繰り広げられる「日常的思考」に気づいている時間も多くなっている。ちょっと前に心随観は比較的よくやっていると書いたと思うが、とんでもない。気まぐれ程度に、自分が気づいた時だけやっていたに過ぎないということが分かった。常時、起こっては消える様々な感情にそのつど気づきが入っていれば、どれほど素晴らしいかを少し実感した。

様々な思考が起こっては消える流れのなかで、それが「自我」にとってどんな意味があって、自我にどんな感情(満足や悔しさや怒りや苛立ちといった)を湧き起こすかを、そのつどチェックできたなら、「自我」とその「物語」の相対化は、いちだんと進むだろう。

一瞬一瞬が、気づきのチャンスだ。
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不毛な議論

2008年11月10日 | 瞑想日記
◆日常生活のなかでの際限のない無自覚な思考(声なきおしゃべり)に、可能なかぎり自覚的でありたい。瞑想中は、たとえ声なきおしゃべりが始まったとしても、それにすばやく気づくことのできる状態が保たれる。そのような瞑想時の気づきは、たとえわずかでも日常の気づきに反映していくと思う。

妻との会話、ちょっとした口げんかをそばで聞いていた息子が、「お父さんたちは、時々、不毛な議論をするね」と言ったのには驚いた。知らないうちにずいぶんと成長している息子。それに比べ、相も変らぬ夫婦。息子はこうも言っていた、「お母さんが何か言っても取り合わなければ、不毛な議論にならないのに」。そう、私の中のエゴが妻のエゴに反応している。いきなりエゴを超えるのはかんたんではないにしても、自分の反応にしっかりとサティする、自覚的であることは、少し意識すればできるのに。日常生活の中で、とくに妻とのやりとりの中でいかにサティが甘いか。

◆食事のこと。昼食を買い物する時間がなかった。リッツビスケット、200kcalくらい、コーンスープ二杯で200kcalくらい、それとプルーン五個、おやつで「柿の種」小さな一袋。夕飯は海鮮どんとあげ豆腐。夕食前に腹が空いてせんべいを食べたのが余計だった。まだ瞑想への影響をどうこう言えるほど少食にはなっていない。

その前に、食べたいという心理が働くとき、体の要求と心理的な要求とを厳密に区別できるようなサティの訓練をもっとしっかりやるべきだろう。最近、体重がオーバー気味なのは、そもそもそういうサティの実践が出来ていないからだ。

◆ということで今日も、書いているうちに課題ができた。妻との関係でしっかりサティをすること、食べたいという欲求へのサティをしっかりすること。この二つの課題についても、できるかぎりブログに記録していきたい。

書くことが自分の修行を促す刺激になるよう、このブログを書き続けてみようと思う。
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瞑想やサティをしていると

2008年11月09日 | 瞑想日記
瞑想やサティをしていると、あちこちを無秩序に飛び回るような「日常的な思考」の世界が、いかに深く闇であり、いかに迷い、煩悩、無明の世界であるかが、ますますはっきりしていく。そのようなことがはっきりとするだけでも、瞑想をしサティをする意味は大きい。

そして「私」として意識される自我が、いかに根拠のない幻影であるかということもますます疑えない事実になる。ただその事実の「分かり方」が不充分なので、相変わらず「私」という幻影にしがみついてはいるのだが。

食事の様子を毎日、記録していく予定であった。11月6日は、行事があって江戸川沿いで半日を過ごした。午後二時ごろまでは水分だけ。しかし、その後は数人でうなぎを食べた。夕食も普通にとった。7日は、昼はリッツビスケット・ひじきの五目煮・もずく・プルーンなどいつものパターンで少なめ。夜は普通の量。と、ここまでは順調だったが、土日はどうしても手元にいくらでも食べものがあるので、食べすぎ。週日の少な目の食事がチャラになってしまう。

今日は、めずらしく午前中頭痛があり、瞑想はしなかった。夜はなおり、30分ほど瞑想。
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エックハルト・トールの新著『ニュー・アース』

2008年11月08日 | 瞑想日記
エックハルト・トールの新著『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』は、期待を裏切らず素晴らしい。

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』は、平易さと説得力をかねそなえた新しいさとりの書だった。新著も、その平易さと、一つ一つの文章が訴えかける力は相変わらずだが、さらに人類史という視点からさとりを語っているところが新鮮で、しかもこの混乱の時代だからこそ、深く共感を覚える。ページをアンダーラインで一杯にしながら読んでいる。

人類の歴史が、おおまかに言えば狂気の歴史だったという指摘は、世界史を少しでも学んだものだったら納得できるだろう。そして、何か根源的な変化が起こらないかぎり、同じ悪夢が繰り返されるだろうという予感も、多かれ少なかれ誰もが共有するはずだ。いや、科学技術の力がこれだけ巨大化してしまった以上は、悪夢が取り返しのつかない結果を招く恐れも充分にある。

そしてエックハルト・トールは「人間の心の構造が変化しなければ、私たちはいつまでも基本的に同じ世界を、同じ悪を、同じ機能不全を繰り返し創造し続けるだろう」と指摘する。人間が、全体として心の構造変化を遂げることは、かぎりなく難しいことのように思える。しかし、わずかながら希望はある。「心の構造変化」を遂げる人が相対的に増え始めているように思えることだ。わずかな変化が、その周囲にわずかな変化をもたらし、それが次々と広がっていくならば、それは巨大な変化につながっていくかも知れない。私たちは、いまその変化のスタート地点にいるのかも知れない。

この本は、まだ読み始めたばかりだが、今後折々に感想をつづっていきたい。
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