瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

一日半断食終了

2010年06月27日 | 断食・少食
◆今回の一日半断食は、これまででいちばん楽だったかも知れない。断食中の摂取カロリーは、最近ではいちばん少なかったにもかかわらずだ。豆乳と牛乳合わせてコップ一杯と少し、オレンジジュースをコップに4分の1ほどだけだ。いや中途半端に食べなかったら、かえってよかったのかも知れない。しかし、かつてもこれぐらいの摂取量でやったことはあるが、もう少し空腹を感じた気がする。(体重は、昨日の朝から1.8キロの減。)

楽だった理由としてもうひとつ考えられるのは、「食べたい」心理をしっかりサティしていこうと始めから意識していたので、逆に心理的な空腹感が起らなかったのかも知れないということ。あらためて、空腹感にとっては心理的な要因がこれほど大きいのか、と感じる。瞑想合宿中も極端に食事量が少なくなるが、空腹感もなくなる。日常の中でも本当にサティがしっかりできれば、生理的に必要とする以上の食べすぎ、肥満はなくなるはず、ということになる。反省しきり。

◆昨晩、風呂に入っているときも、床に就いたときも、ほとんど断食中ということを忘れるほど空腹感はなかった。起床時に空腹感がさらになくなっているのはいつもの通り。すぐに40分瞑想。昨日に比べると思考が多かった。9時半に父を車椅子で隣駅の教会につれていく。歩いて15分ほど。私はそのまま歩いて帰る。帰宅すると約束のあった来客が来ており、一時間半ほど話す。その後、また父を迎えに行く。12時過ぎに帰宅。ここまでも、あわただしくて空腹感は全くなかった。12時半ごろ断食終了。
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「食べたい」心理をサティしつつ

2010年06月26日 | 断食・少食
◆今、14時50分。これまでに豆乳をコップに4分の1ほど、オレンジジュースを同じくらい飲んだ。あとはほうじ茶を2・3杯。今のところほとんど空腹感がないので、食欲に関するサティは必要なし。またあとで報告したい。

◆17時前に軽くコップに一杯(豆乳が切れたので)牛乳を飲んだ。今日は、お茶以外はこれだけでいきたい。少し空腹感が出てきた感じもあるが、腹の感じをじっくり味わうと、むしろすっきりと気持よいだけだ。

◆今23時過ぎ。その後、ほうじ茶を2杯ほど飲んだ。今日は妻が仕事の関係で帰宅が遅くなるとの連絡があり、私が夕食の準備をすることになったが、断食しながら料理というのは辛いので、父と息子には出来合いのもので勘弁してもらった。イトーヨーカ堂に買い物に行った時、食材の匂いが少し食欲をそそったが、それも一瞬に過ぎない。

なぜか空腹感は今に至るもほとんどなし。「食べたい」心理をサティしつつ、というほどには空腹感がなく、明日の昼までこのまま順調に行きそうだ。
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音読と集中

2010年06月26日 | 瞑想日記
◆起床後、50分ほど瞑想。後半、1分ぐらいだったか思考が連続したときがあった。そのとき以外は、すぐにサティが入っていたと思う。課題は、瞑想から日常生活に戻ったときだろう。そのときどきの行動にラベリングしつつサティ(気づき)を継続させることをできるだけ心がけていきたい。以前と比べ、それを努力としてではなく静かな心でできそうな気がする。ただサティを持続させるための工夫は必要だと思う。たとえばパソコンに向かっているときも、ときどき目を閉じて腹の動きに集中するなど、サティを思い出すための体勢を意識的に作ることなど。

◆古典を読む読書会を何人かの友人とやっている。次は8月下旬までにルソーの『人間不平等起源論』を読んでおいて話し合う。いつも直前まで読まず、あわててざっと読んで参加ということが続いていたので、今回はよく読んで参加したいと思った。それで昨晩から5ページほどづつ音読をすることにした。

本の音読もまた「集中」を意識的に行なうには適している。音読しながら何らかの語句に刺激されて思考に飛んでしまうと、文意がとれなくなる。意識して集中を心がけながら読むのはいい訓練になる。ちょうど、人の話をまっさらな気持で全力を傾けて聴けば、それが「瞑想」になるのと同じだ。

◆今日は、また一日半断食を行う予定だ。今回はとくに「食べたい」という欲求が生まれたときのサティを充分に心がけ、そこでの気づきをここに遂次報告していきたい。日常生活の中でのサティを、食べたいという心理的な欲求をひとつのテーマにしてやってみたい。
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静けさを伴う観察

2010年06月25日 | 瞑想日記
YuTube上の関野あやこの動画については、これまで2回取り上げたものについては印象が強かったが、他のものについては、ここにその言葉の一部を起こしてみるところまでは意欲が湧かなかった。すべて見ているわけではではないが、ことに講演風のビデオについては、それほど強い印象は受けなかった。むしろ少し鼻につくような感じがないでもない。それがどこから来るのかはよく分からない。私の中の何かの投影かも知れない。

ともあれ、私自身がいくつかのビデオから刺激を受け、結果として自分の中に新たな希望のようなものが生まれたのは確かだ。それは大切にしていきたい。これからもビデオを見たり、本やDVDを買って見たりはしたい。セミナーなどは高額なので参加する気はない。本はすでに一冊注文して手元に届いている。『バシャール&関野あやこ 次の地球へ』という本だ。また読んでいないが、読むとまた違った印象を受けるかもしれない。

彼女から刺激を受けたのはどんなところだろうか。まずは「自分につながる」ということ。統合という言葉で言い換えてもいい。私にとってそれは、自分の中にある真実の感情に敏感になり、そこに戻っていくということだ。具体的には、自分の日常的な思考(いわゆる雑念)やそれに伴う感情に少しでも深く気づいていくこと。結局それは、サティということなのだが、彼女のビデオを見たかとが刺激となったためか、自分の思考に気づき、観察していることがより多くなった気がする。というより、すでにあったそういう流れが少し加速したという感じだろうか。しかもとってつけたような観察ではなく、こころの静けさを伴う観察とでも言おうか。

もう一つは、物質的次元がイリュージョンだということ。これも彼女が何度も強調していることだ。分離の意識は、そのイリュージョンに執着するが、本当の自分につながればつながるほど(気づきが深まれば深まるほど)、それが幻のようなものでしかないことが分かってくる。

私は、そこのところを分かっているようで実は分かっていない。なぜならたっぷり執着しているから。物質的次元の一切が、変化消滅する以上、そこに執着することは意味がないのだが、相変わらず執着している。しかし、そういう自分を否定的に捉えることはない。むしろ執着している自分を楽しめばよい。そういう自分を素直に生きつつ、自覚を深めればよい。執着するということは、執着することが必要な次元にいるということだ。そういう自分を自覚的に生き抜いて、さらに深く自分につながっていけばいいのだ。
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さらに関野あやこの動画から

2010年06月22日 | 瞑想日記
2外を成功させる生き方から-関野あやこ-2009.2.17

関野あやこの動画から何を感じとったのかを、自分でも確認したいため、気の済むまで、動画で語られた言葉の一部を起こしながら、感じたことを書いていきたい。

「私はね、こらから一人ひとりが、自分につながって、ワクワクした生き方を始めるときだと思う。外に何かがあると思って、自分と離れて行ったら、出て来るものは虚しさや、分離感や、複雑さ、難しさ。でも自分につながってきたら、満ちてきて、そして遠くまで見渡せて、自分の中からハーモニーが生まれてくるからね。」

「そうよ、自分につながっていったら、みんな自分の次元に出る。たくさんの概念を学んだ、ああでもない、こうでもない、これをやるとこうなってしまう、こうすればこうなるというルールとか法則とか学んだ。そして、それが本当のように体験していた。この次元から出ることができるのよ。自分につながっていくと、ものと高い意識につながっていける。宇宙意識、宇宙と同じ。」

昨日も書いたが、この人の語りの新鮮さは、自分が体験し、感じたことを実感を込めて直接に語りかけることだ。それが、聴く人の中の何かを目ざめさせる力になるのかも知れない。

一方で、あまりの語りのうまさにどこかでひっかかっている。でも何かが確実に伝わる。そして私もつながりたいと思う。自分の中のハーモニーに還りたいと思う。そんな感じだろうか。もっと具体的にいうと、自分自身にもっと素直になっていこうと思う。

「本当のように」、リアルなものとして体験しているこの次元は、いづれ死に、滅びる次元。生滅変化する仮の次元。それに執着する一方で、統合への道を進みたいと思う。かぎりなく自分に素直になる道。
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