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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-米国のハワイ侵略 第1幕-(GHQ焚書図書開封 第68回)

2017-05-29 18:17:29 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第68回
-米国のハワイ侵略 第1幕-
戦後、「憧れのハワイ航路」の歌が流行ったように、日本とは因縁の深かったハワイ。18世紀にジェームス・クックによって発見されている。
「発見」とはヨーロッパ人を中心としたものの見方で、ヨーロッパ人の世界像の中に新しい土地がつけ加えられたという意味。
島々には酋長がいて、1791年にはアメリカの支援を受けたカメハメハ王とイギリスの支援を受けたマウイ王が争いをおこなっていた。
最終的に、全島を支配したのがカメハメハ王朝だった。
外国との貿易は19世紀に入りロシアとの毛皮貿易から始まり、白檀、鯨の油と移っていった。鯨油は燈火用、骨は女性のスカートを広げるために利用された。、
ハワイは捕鯨船の中継地として栄えたが、同時に、酒と病気をもたらしたマイナス面もあった。
1850年移民法が成立し、混血が進み、純粋のハワイ人の人口は激減した。
石油が発見され、鯨油にとって代わり、またカルフォルニアの人口が増え、砂糖の消費量増大に伴い、ハワイはさとうきびの栽培地として変貌していった。
宗教、経済、文明面においてアメリカに支配され、また王朝断絶の憂いを抱いたカラカウア国王は、1881年日本皇室に救援(日本皇室とハワイ王族との婚姻関係)を求めてきた。
日本は国内事情(ロシアの脅威対策が重要課題となっていたこと)からこの提案を謝絶したが、日布関係は悪化しなかった。
1875年に締結した米布互恵条約について、1887年、米布互恵契約の修正、また有色人種の選挙権・参政権を奪うことになる憲法大改正により不利な立場に立たされた移民日本人。
憲法大改正について、日本総領事安藤太郎は抗議行動を起こしたが、欧米追従主義を旨とする井上馨外務卿が総領事の行動を制止した。
この頃から「国益」より「友好」を重視する外務省の悪しき媚び外交の歴史が始まった。
そして、1898年ハワイ併合。1900年からホノルルの軍港化建設が始まった。
参考文献:「ハワイを繞る日米関係史」吉森實行

-長與善郎「少年満州読本」その3-(GHQ焚書図書開封 第67回)

2017-05-27 20:26:47 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第67回
-長與善郎「少年満州読本」その3-
 関東州一帯と隣接する南部地方の果樹園(林檎)栽培を除き、満州での日本農業移民がことごとく失敗に終わったのは、奉天軍閥張作霖の統治方法では、自由に土地の貸借、金銭の貸借などができなかったことや匪賊が跋扈する治安の悪い状態だったためである。
満州では林檎、桃、梨、葡萄が作られていた。大豆と高粱(こうりゃん)の輪作が行われていた。
線路の両側500メートル以内は、綿、落花生、馬鈴薯のようなもの背の低い植物以外は植えることを禁止されていた。背丈が2.5メートルに達する高粱などが植えられると匪賊の隠れ場所になるからだ。
支那には元々、水田を耕す習慣がなかったが、利益とみれば、どんなことでも厭わない生活力の強い支那人は、朝鮮人の真似をして水田を耕し、日本人に米を売るようになった。。
満州事変前の貨幣の流通が不安定だった支那では至る所に銭荘(=両替屋)があった。満州中央銀行が発行する金は國幣(コーピー)を言われていた。
政治団体として、日、鮮、満、漢、蒙の五属の協合を推進する協和会があった。
日本は満州で、大連~ハルピン間に超特急(あじあ)を走らせていた。
零下30~40度の新京(長春)の環境下でも贅沢な日本式生活様式を変えられないことが、日本人移民者の生活苦を招いていた。
悪しき植民地統治(隷属、奴隷化を強いる拘束的統治)しかできなかった欧米が、最も恐れたのは、治外法権を撤廃した理想的統治方法(道義的、平等的な解放理念を重視する統治)を日本が満州国で実現したことである。
開闢以来何千年にわたって培われた漢族支那の悪習(賄賂のやり取り)に満州族が染まることを危惧していた日本。
「帝国政府声明」にあるように、日本がアジアの植民地解放を戦争目的に大東亜戦争を行ったのに、戦後建国した中華人民共和国はアジアの解放は毛沢東の中国共産党が行ったとのうその歴史観を日本に押し付けようとしている。
日本は一度も支那大陸で中国共産党軍と戦ったことはないし、戦った国民党にも敗れたことはない。天皇陛下からの武装解除命令によって中国から撤兵しただけなのである。
事実、終戦時、南洋の島々を除き、支那大陸、朝鮮半島、千島列島、南樺太の大部分は日本の占領下にあり、日本本土より広い領土を確保していた。

【帝国政府声明 午後 零時二十分發表】

恭しくも陛下より米英に対する宣戦の大詔が発せられたので、大日本帝国政府は国の内外に対し次の政府声明を発表する。東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するのは、大日本帝国の不動の国是であり、それを実現するため大日本帝国は列国との友好を最優先してきた。しかしながら、蒋介石国民党政府は、いたずらに外国勢力と徒党を組んで、我が国に敵対し、その結果、支那事変の発生を見た。しかしながら、蒋介石の反発にも拘わらず、陛下の御威光により、大日本帝国陸海軍の向かうところに敵は無く、支那の重要拠点は、ことごとく大日本帝国陸海軍の占拠するところとなり、大日本帝国と志しをおなじくする人々により、南京に国民政府が樹立され、その支那国民政府と大日本帝国は、現在友好関係にあるのみならず、11ヶ国もの諸国が支那国民政府を支那に於ける正当政府として承認している。そして、これに敵対する蒋介石の重慶政権は、支那の奥地で無駄な抵抗を続けるのみとなってしまった。
こうしてようやく支那に平和が戻ろうとしている情況が出来つつあるのに、米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置こうとする頑迷な態度を改めていない。それどころか、米英両国は奸計を労して支那事変の終結を妨害し、オランダをそそのかし、フランスに脅威を与え、大日本帝国とタイ国との親交までも妨害してきた。その目的は、大日本帝国とこれら東亜の南方諸国との共存共栄の道を阻害することである。

こうした米英両国の動きは、大日本帝国を敵視し攻撃しようとするものであるが、今回
米英は「経済断交」と言う暴挙を行うに至った。
国家間において「経済断交」と言うのは、宣戦布告に匹敵する敵対行為であり、国家としてそれを黙認できるものではない。
しかも米英両国は、さらに他の国々を誘い込み、大日本帝国の周辺で武力を増強し、大日本帝国の自立に重大な脅威を与えている。

大日本帝国政府はこれまで、上に述べたよう米英が大日本帝国の存立と東亜諸国の安定とに対して重大な脅威を与えて来ているにもかかわらず、太平洋の平和を維持し、全人類に戦禍の波及することがないよう堪忍自重し、米国と外交交渉を重ね、背後にいる英国並びに米英両国に附和雷同する諸国に反省を求め、大日本帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神をもって事態の平和的解決に努めてきた。

しかし、米国はいたずらに空虚なる原則を弄び、東亜諸国の現実を認めず、大日本帝国の真の国力を悟ろうともせず、武力による脅威を増大させ、大日本帝国を屈服させようとしてきた。その結果、大日本帝国は、平和的解決手段を全て失う事となった。
東亜の安定と帝国の存立とは、今まさに危機に瀕している。それ故米国及び英国に対し宣戦の詔勅が発せられたのである。

詔勅を承り、まことに恐懼感激に堪えないものがある。

帝国臣民は、一億鉄石の団結で決起勇躍し、国家の総力を挙げて戦い、東亜の禍根(白人支配)を永久に排除、聖旨にこたえ奉るべき状況となった。
世界各国が各々その所を得るべしと言う詔勅は、日星の如く明らかである。
大日本帝国が日満華三国の提携によって共栄の実を挙げ、進んで東亜諸国の興隆の基礎を築こうとしてきた方針は、もとより変るものではない。
また大日本帝国は、志を同じくするドイツ、イタリア両国と盟約し、世界平和の基調を糾すべく新秩序の建設に邁進する決意をますます強固にしている。

今回帝国は東南アジア地域に武力進攻せざるを得なくなったが、それは決して東南アジア住民に対して敵意を持つからではない。ただ、米英から東南アジア住民に対し加えられてきた暴政を排除し、東南アジアを白人によって植民地化される前の、明白なる本来在るべき姿へ戻し、ともに協力して繁栄することを願うからである。大日本帝国は東南アジアの住民たちがこの戦争目的を了解し、東亜に新たなる政治経済体制の構築を目差し共に行動することを疑わない

今や大日本帝国と東亜の興廃は、この一挙にかかることとなった。全国民は、このたびの戦いの原因と使命に深く思いを馳せ、けっして驕ることなく、また怠ることなく、よく尽くし、よく耐え、それによって私たちの祖先の遺風を顕彰し、困難にあったら必ず国家興隆の基を築いた父祖の光栄ある歴史と業績と雄渾深遠なる陛下の統治を思い、万事にわたってソツがないようにすることを誓い、進んで戦争の目的を完遂し、陛下の御心を永遠に安んじ奉ることを期待する。

引用元:安濃豊氏のブログ帝国政府声明文「戦勝国は日本だった」、
http://blog.livedoor.jp/giranbarekanjya/archives/2009-12.html
http://blog.livedoor.jp/giranbarekanjya/archives/51458185.html
Karion168のブログ(Karionのつぶやき)
http://blog.livedoor.jp/karion168/archives/5536354.html

参考文献: https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700


-長與善郎「少年満州読本」その2-(GHQ焚書図書開封 第66回)

2017-05-22 15:55:20 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第66回
-長與善郎「少年満州読本」その2-
 「少年満州読本」の作家長與善郎は、志賀直哉、武者小路実篤と並ぶ白樺派人道主義的作風の作家。
戦後、満州の地は、漢族張作霖・張学良のものと勘違いしている人が多いが、もともと満州は漢族の土地でなく、満州族の土地だった。
柳条湖事件は、①ロシアの領土大防止、②匪賊の張作霖-張学良による苛斂誅求な税取り立てに苦しむ苦力(クーリー)救済、③17億の日本の投資(生産地、人口のはけ口)の保護の必要性のため、④万宝山事件、中村大尉虐殺事件に対する報復として、⑤日本が条約によって正当な権益を持っていたにも関わらず、それを無視して軍閥の張学良や国民党が不当な行為を繰り返していること、⑦日本の外交が「日支友好」を掲げて弱腰(幣原喜重郎の軟弱外交)で対応していることなどへの抗議行動として関東軍石原莞爾によって起こしたものである。
韓国、台湾は併合しないで、保護国としておくべきだった。「道義の國」日本による併合に多少なりとも理解をしめしてくれたのは、台湾だけだった。日本の総面積の8割が山地、2割が平地で、平地の1.5割が農地であった。
一人当たりの耕地面積は、アメリカの1/30、ドイツの1/5、フランスの1/6、デンマークの1/12であった。しかも、人口は年90万人程度増えており、一人当たりの耕地面積はますます小さくなっていく状況であった。この耕地面積と人口問題を解決するため日本の倍の面積、人口1/3の満州国に移民を求める時代でもあった。1932年の満州国独立は、その後のアジアの植民地解放・独立のモデルとなった最初の出来事であった。
最初に下船した大連は東京より近代化された大都市であった。当時の満鉄は一大文化事業をやっていた。満州事変前は、奉天で満州の主人面している張作霖・張学良や南支の匪賊、馬賊の妨害で開発が遅れた時期があった。
参考文献:「少年満州読本」長與善郎

◎【開戦の詔書】<現代語訳文> 引用元:http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htm
 神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。
 私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。
 そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
 まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
 さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。
 米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。 あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。 私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
 このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。

◎【帝国政府声明 午後 零時二十分發表】
恭しくも陛下より米英に対する宣戦の大詔が発せられたので、大日本帝国政府は国の内外に対し次の政府声明を発表する。
東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するのは、大日本帝国の不動の国是であり、それを実現するため大日本帝国は列国との友好を最優先してきた。
しかしながら、蒋介石国民党政府は、いたずらに外国勢力と徒党を組んで、我が国に敵対し、その結果、支那事変の発生を見た。
しかしながら、蒋介石の反発にも拘わらず、陛下の御威光により、大日本帝国陸海軍の向かうところに敵は無く、支那の重要拠点は、ことごとく大日本帝国陸海軍の占拠するところとなり、大日本帝国と志しをおなじくする人々により、南京に国民政府が樹立され、その支那国民政府と大日本帝国は、現在友好関係にあるのみならず、11ヶ国もの諸国が支那国民政府を支那に於ける正当政府として承認している。
そして、これに敵対する蒋介石の重慶政権は、支那の奥地で無駄な抵抗を続けるのみとなってしまった。
こうしてようやく支那に平和が戻ろうとしている情況が出来つつあるのに、米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置こうとする頑迷な態度を改めていない。それどころか、米英両国は奸計を労して支那事変の終結を妨害し、オランダをそそのかし、フランスに脅威を与え、大日本帝国とタイ国との親交までも妨害してきた。
その目的は、大日本帝国とこれら東亜の南方諸国との共存共栄の道を阻害することである。
こうした米英両国の動きは、大日本帝国を敵視し攻撃しようとするものであるが、今回米英は「経済断交」と言う暴挙を行うに至った。
国家間において「経済断交」と言うのは、宣戦布告に匹敵する敵対行為であり、国家としてそれを黙認できるものではない。
しかも米英両国は、さらに他の国々を誘い込み、大日本帝国の周辺で武力を増強し、大日本帝国の自立に重大な脅威を与えている。
大日本帝国政府はこれまで、上に述べたよう米英が大日本帝国の存立と東亜諸国の安定とに対して重大な脅威を与えて来ているにもかかわらず、太平洋の平和を維持し、全人類に戦禍の波及することがないよう堪忍自重し、米国と外交交渉を重ね、背後にいる英国並びに米英両国に附和雷同する諸国に反省を求め、大日本帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神をもって事態の平和的解決に努めてきた。
しかし、米国はいたずらに空虚なる原則を弄び、東亜諸国の現実を認めず、大日本帝国の真の国力を悟ろうともせず、武力による脅威を増大させ、大日本帝国を屈服させようとしてきた。その結果、大日本帝国は、平和的解決手段を全て失う事となった。
東亜の安定と帝国の存立とは、今まさに危機に瀕している。それ故米国及び英国に対し宣戦の詔勅が発せられたのである。
詔勅を承り、まことに恐懼感激に堪えないものがある。
帝国臣民は、一億鉄石の団結で決起勇躍し、国家の総力を挙げて戦い、東亜の禍根(白人支配)を永久に排除、聖旨にこたえ奉るべき状況となった。
世界各国が各々その所を得るべしと言う詔勅は、日星の如く明らかである。
大日本帝国が日満華三国の提携によって共栄の実を挙げ、進んで東亜諸国の興隆の基礎を築こうとしてきた方針は、もとより変るものではない。
また大日本帝国は、志を同じくするドイツ、イタリア両国と盟約し、世界平和の基調を糾すべく新秩序の建設に邁進する決意をますます強固にしている。
今回帝国は東南アジア地域に武力進攻せざるを得なくなったが、それは決して東南アジア住民に対して敵意を持つからではない。ただ、米英から東南アジア住民に対し加えられてきた暴政を排除し、東南アジアを白人によって植民地化される前の、明白なる本来在るべき姿へ戻し、ともに協力して繁栄することを願うからである。大日本帝国は東南アジアの住民たちがこの戦争目的を了解し、東亜に新たなる政治経済体制の構築を目差し共に行動することを疑わない
今や大日本帝国と東亜の興廃は、この一挙にかかることとなった。全国民は、このたびの戦いの原因と使命に深く思いを馳せ、けっして驕ることなく、また怠ることなく、よく尽くし、よく耐え、それによって私たちの祖先の遺風を顕彰し、困難にあったら必ず国家興隆の基を築いた父祖の光栄ある歴史と業績と雄渾深遠なる陛下の統治を思い、万事にわたってソツがないようにすることを誓い、進んで戦争の目的を完遂し、陛下の御心を永遠に安んじ奉ることを期待する。

引用元:安濃豊氏のブログ帝国政府声明文「戦勝国は日本だった」、http://blog.livedoor.jp/giranbarekanjya/archives/51458185.html
Karion168のブログ「Karionのつぶやき」 http://blog.livedoor.jp/karion168/archives/5536354.html
参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700


◎【終戦の詔書】<現代語訳>引用元:http://ironna.jp/article/1855
 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非情の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝(なんじ)ら帝国国民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。
 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、朕は常々心掛けている。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。
 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。


-長與善郎「少年満州読本」その1-(GHQ焚書図書開封 第65回)

2017-05-21 14:24:05 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第65回
-長與善郎「少年満州読本」その1-
麻布⇒学習院⇒東大英文科へと進んだ長與善郎の書いた「少年満州読本」。刊行は昭和13年5月(1938年5月)で、子供に夏休みの旅行先満州について語って聞かせる内容。
当時日本(千島~琉球まで)の人口は3,000万、朝鮮併合で9,000万、満州を合わせると1.3億人であった。
地球の27%をイギリスが占領していた。ロシアは不凍港を求めて南下し、沿海州を支那から奪った。
日清戦争(1894-95年)後の1895年(明治28年)に三国(仏、独、露)干渉により遼東半島を満州人の清に返還させられた日本。日清戦争で負けた清は、日清戦争の賠償金をロシアから借りたため、見返りに遼東半島の「旅順」、「大連」の港を奪われる結果となった。
満州から北京に都を移した後、ノーマンズランドとなった清朝の故郷満州国の遊牧民である満州人は山東、河北省からの農民である難民(漢人)によって土地を奪われ満州族崩壊の道を辿った。
北京で勢力をもっていた少数派支配階級(満州族)は、やがて、「土地の実権を握るものは、その土地に根付いた頭数の多い土着民である」との漢族指導者(章炳麟・しょうへいりん)の移民侵略策によって、「洗国」、「同化」され、駆逐されていった。満州国も、その対象であった。
日本、ロシアの投下資本(インフラ)も最終的には人口で優る漢族支那人が労せずして恩恵を受けるものとなってしまった。しかし、実際には直接働いていた人民の収入の大部分は内乱に勝ち強盗団となった「軍閥」によって搾取されていた。
北支は、張作霖-張学良、南支は蒋介石などに搾取され、一部しか手にすることができなかった。虐げられた人民の不満は勢い、日本人、朝鮮人に向けられ、軍閥は、それを利用して反日運動拡大へと誘導していった。
満州に住む人々のためのインフラ整備に17億という資本を投下した日本は、資本の回収もままならず苦しむことになる。そこには、鎖国時代が長かったため、支那人の本質を知らず、善意をもって与えれば、善意をもって応えてくれると思っていた日本人(特に政治家、企業家など)の甘さがあった>。

参考文献:「少年満州読本」長與善郎

-日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた-(GHQ焚書図書開封 第64回)

2017-05-20 13:51:49 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第64回
-日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた-
 昭和7年(1932年)に刊行された「日米戦う可きか」に書かれた①排日の動き②アメリカ合衆国における日本人の生活③対日世論④日米関係の前途。
1913年(大正2年)の第1次「排日土地法」成立以降、日米戦の淵源のひとつとなったと言われるサンフランシスコにおける移民の排斥・排日運動はすさまじかった。後に、昭和天皇はこれが、日米戦争の原因のひとつであったと表現されている。
排日感情は、①日本人は好戦国民である。彼らのアメリカ移住は侵略である。②日本人の迅速な繁殖は白人米国主義の脅威である。③日本人は低級な労働者である。④日本人は労働者たることをもって満足せず、直ちに事業家となって白人の領域を侵す。⑤日本人は労銀を本国に送金するにより地方の経済状態を攪乱する。⑥日本人は好んで土地を買う故、良田美地は結局彼らの所有に帰することになろう。⑦日本人は日本人区域を作って群居する弊がある。⑧日本人は白人区域に侵入し、好ましからざる東洋人の空気を伝播する。⑨日本の文化及び日本人の長所は認めるとするも、日本人によりて代表される東洋文明侵略は純潔なる西洋文明を破壊する。等々であった。
日本人移民に対しては、1913年第1次、1920年2次「排日土地法」により、アメリカが諸外国に対して宣言した綺麗ごと「人権保護、平等主義、機会均等」の原則は一切適用されなかった。
排日移民法、移民禁止法、黄白人結婚禁止法の存在は、中学、高校、大学では人種差別がなかったが、いったん社会人になると徹底的に差別されるという悪質なものであった。また、日本人はヨーロッパ人と違い帰化できない人種とされていた。
アメリカは民主主義の国、人権の国と言われているが、黒人に選挙権を与える公民権法が確立したのは、日本よりずっと遅れて1965年である。
ジョン・ヘイにより1899年からヨーロッパに対してはモンロー主義を唱えていたが、東洋に対してはモンロー主義を貫かなかったアメリカのダブルスタンダードの現実。満州を(MANCHURIA)巡って、国際連盟(LEAGUE OF NATIONS)に加盟していないアメリカは日本への誹謗中傷を続けた。
人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。大東亜共栄圏の思想は、アジアは日本の領域のモンロー主義、アフリカはヨーロッパ領域のモンロー主義、南米はアメリカ領域のモンロー主義を認めるというものであった。
言葉は本を出版することによって、夢はみることによって、悪夢は正視することから逃げようとすることによって現実を引き寄せることがある。
当時から、外交のしぶとさのなかった日本。
日本への挑発ともいえる経済封鎖を大統領に提言していたハーバード大学総長や著名大学の総長達。
石原莞爾は中部支那から南部支那への戦線拡大(南進)に反対し、北進してドイツと組んでソ連を挟み撃ちにすべきと考えていたが、コミンテルンの手先であったゾルゲと尾崎秀美に翻弄され南進政策をとった近衛内閣がアメリカの参戦を許す結果をもたらした。
日本からアメリカに生糸を、アメリカから日本へ綿花をという双務貿易の経済関係を無視して、日本へ軍事的圧力をかけ始めたのはアメリカの謎である。(経済封鎖は同時に逆経済封鎖をももたらすのものである)
参考文献:「日米戰う可きか -世界知識増刊-」新光社

-アメリカの仮想敵国はドイツでなく日本だった-(GHQ焚書図書開封 第63回)

2017-05-19 06:36:03 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第63回
-アメリカの仮想敵国はドイツでなく日本だった-
 昭和7年に刊行された「日米戦う可きか」は写真が多用された論文集。この時代、国民の間では日米戦について余り問題視されていなかったが、出版の世界では日米戦争について盛んに論じられていた。
明治の軍略家秋山真之も学んだアルフレッド・セイヤー・マハンの「海上権力史論」(1890年)。
ローマがポエミ戦争でカルタゴに、フランスがナポレオン戦争でイギリスに勝利したのも海上の支配権を握っていた側だったことから、セオドア・ルーズベルトは海軍の重要性を理解していた。
第一次世界大戦(1914-18年)後、両雄並び立たず、西進侵略を謀るアメリカにとって日本は邪魔な存在となった。
欧米の干渉を拒絶し、南北アメリカを支配するモンロー主義だけなら防衛的海軍で済んだが、英仏日独露の割拠する支那大陸に介入し、門戸開放主義、機会均等主義を主張するためには大海軍の所有が必要であった。
ロンドン軍縮会議(1930年)で、10年間巡洋艦の新規建造を禁止されるという屈辱的条約を呑んだ日本海軍条約派、これに異を唱えた艦隊派との内部分裂が生まれ、その後、海軍は抑止力を失い弱体化の方向に向かって行った。
これは、明らかに、大川周明のいうように外交の敗北であった。(第22回大川周明「米英東亜侵略史」を読む(ロンドン軍縮協定と日本の曲がり角)参照)
戦勝国には、軍人が大統領になったり、大統領が軍人になることを誇りとする風潮があり、また、若者は有事には進んで志願兵になることを希望するが、敗戦国にはそれがない。
ドイツの若者は徴兵を忌避するため、ドイツの国防軍は、外国移民によって維持されている。
第一次世界大戦後、アメリカ陸軍は、ハワイ、パナマ、フィリッピンに重点的に配置され、本土陸軍もメキシコから太平洋防衛に回された。日本を仮想敵国とみなし、軍備充実を図っていたのである。
当時、ヨーロッパ諸国は、第一次世界大戦で傷を負わずに発展した日米同士の日米戦を望んでいた。戦争による景気回復が期待できたからである。
ソ連が第三者の立場から予測・分析していた日米戦は、日本にとっては国家存亡の戦いになるが、アメリカは仮に負けても植民地戦争で植民地を失った程度に過ぎずアメリカ本国はさほど痛手を受けないだろうとみていた。従って、日本は、アメリカから開戦を迫られるか、日本が勝利できる確実性がない限り、戦争を選択しないだろうと結論づけていた。
参考文献:「日米戰う可きか -世界知識増刊-」新光社

水仙

2017-05-17 15:34:18 | 趣味・特技
春先に咲いていた水仙の葉が枯れたので掘り起こし、一休みして、来年も咲いてくださいと、「オクラ」を取り出した後のネットに保管した。プランタのユリの花のつぼみが膨らんでいるので、もうすぐ咲くだろう。マリーゴールド(フレンチ系)の苗は2センチくらいの高さになっている。

-戦争の原因は対支経済野望だった-(GHQ焚書図書開封 第62回)

2017-05-16 06:36:09 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第62回
-戦争の原因は対支経済野望だった-
 第1次上海事変が起きた昭和7年(1932年)に刊行された「日米戦う可きか」は、前年6年には満州事変が起きていたが、日本はイギリスと戦争することはあっても、よもやアメリカと戦争をするなどとは到底思っていなかった時代に書かれた。
その内容は、米国の極東政策、米国の太平洋侵略史、米国進むか日本退くか、米国の対支政策と日米戦争の可能性、米国の支那進出とその将来、前進根拠地としての米国太平洋領土、米国海軍の現勢、米国陸軍の現勢、米国航空発達の現状、米国の産業動員計画、米国の富力とその世界的勢力、戦略上より見たる米国の対日作戦、もし戦はば日米何れが勝つか。であった。
 支那への進出に遅れたアメリカは、1988年、ジョン・ヘイによる清国においては通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであるとする門戸開放宣言を発し、強引に支那の市場拡大に乗り出してきた。当初、満州に目をつけたアメリカは満州における日露の対立を利用して、日本を支援し、ロシアを満州から排除しようとした。
日露戦争(1904-05)後、支那での市場拡大を進めるに当たり、抵抗が予想される英仏の南部支那、独の中部支那を避け、特に、ロシアが北満州、日本が南満州を支配する地域に、アメリカは投資先として目をつけ、ハリマンの満州鉄道買収案(1905年)、満州銀行創立案、錦愛鉄道借款問題、満州諸鉄道中立案の提議(1909年)と次々と介入してきたが、多くの血であがなって得た満州利権を渡すまいとする小村寿太郎らの反撃に合い全て挫折した。 第一次世界大戦(1914-18)後、西洋各国は戦費支出の影響を受け没落の道を歩んでいた。唯一、日本とアメリカだけが勝ち組として残ったが、日本のアジアでの台頭は「金(ドル)と武力(鉄砲)」でアジア市場拡大を図るアメリカにとって目障りな存在となってきた。
アメリカの外交政策の基本は、①北中南米に対して欧州の介入を排除するモンロー主義、②南北アメリカを全て独占する汎米主義、③アジアに対しては機会均等主義を要求する利己的なものであった。
ワシントン会議(1921-22)以降、日本封じ込めにアメリカは力を注ぎ始める。
1864年からの各国の対支貿易表によると、1931年現在でも、アメリカよりも日本にとって支那は重要な貿易先であった。
支那の治安が悪い当初、アメリカは日本を治安維持用の番人、警察官扱いとして利用していた。 治安が安定した段階から日本を排除する考えをもっていた。これは、欧米人が現地人との争いの矢面に立たずに済むという巧妙な植民地管理手法である。
参考文献:「日米戰う可きか -世界知識増刊-」新光社

-アメリカの野望は国民にどう説明されていたか-(GHQ焚書図書開封 第61回)

2017-05-12 22:18:53 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第61回
-アメリカの野望は国民にどう説明されていたか-
 昭和7年4月20日、新光社から発売された論文集「日米戦う可きか」に書かれた米国の極東対策。
アメリカと支那との貿易は、1784年、ウェストバージニア産の「朝鮮ニンジン」をエンブレス・オブ・チャイナに積んで広東に輸出したことから始まった。当時、支那は自給自足できる国であり、貿易は必要としなかったが、アメリカ側は独立戦争で疲弊した国力を回復するために貿易を必要としたのである。
1853年、ペリーが日本に来航した時には、支那貿易の半分はアメリカの手に握られていた。貿易品目はほとんど「朝鮮ニンジン」であった。また、当時、鯨の油は燈油として使われており、捕鯨船の果たした役割は大きかった。
ペリーは、パナマ~サンフランシスコ~ハワイ~小笠原~琉球~上海への海路途中の島々をアメリカ領とすることを考えていた。アメリカは1830年アメリカ人が10数人居住していたことで小笠原諸島の領土権を主張し、一方、イギリスは1827年にビーチェ大佐が占領したと主張した。最終的に、1675年に小笠原貞頼が発見したという記録から幕府が日本領土とすることで決着した。
このことが、支那貿易維持のための1854年のペリーによる開港談判へとつながっていった。
19世紀後半、イギリス、アメリカの共通の敵はスペインだった。
1869年、スエズ運河の開通により、ロンドン~喜望峰~広東航路よりも距離が短くなりイギリスが支那貿易上、アメリカより有利になった。
アメリカは次の手として、パナマ運河~ハワイ~ミッドウェー~ウエーク~グアム~フィリッピン~支那への海路を確保するため、米西戦争をし、スペイン領キューバ、ニカラグア、パナマ、グアム、フィリッピンを次々と確保した。
アメリカは米西戦争に勝利後、実質的に兄弟国イギリスの覇権を取り上げた。
米英の支援を受けた日露戦争(1904-1905)は、米英VSロシアの代理戦争であった。
米英が日本を支援したのは、日清戦争(1894-1895)後の三国干渉時の露仏同盟に脅威をもったためである。すなわちラテンVSアングロ・サクソンの対立構造であった。アメリカにとって、1914年のパナマ運河開通は、大西洋の米艦隊を太平洋に移すことを容易に可能とし、日本の南太平洋上の脅威に対する軍事上の意味があった。
もっとも、日本には領土的野心の意図はなく他国からの防衛上の拠点を確保する程度ととらえていた。
独立時、人口300万、13州に過ぎなかったアメリカは、19世紀初頭フランスからミシシッピ―以西の流域を買い取り、その後、メキシコと戦争をしてテキサス、アリゾナ、ニューメキシコ、カルフォルニアを割譲して、我が領土とし、ロシアからはアラスカを買い取り広大な領土を手に入れていった。
南太平洋ではサモアを巡って英米独が争いを行っていた、1889年サモアは独立宣言をし、英米独の共同保護国となったが、内乱を経て、英が手を引き、1900年、米独間でサモアの分割が行われた。
キューバでは、1868年スペインに反旗を翻し紛争が10年に渡った、1895年には再度反乱が発生するに至った。1897年帝国主義者マッキンリーが米大統領に就任すると、1898年の米軍艦メイン号爆発事件をきっかけに米西戦争に突入した。アメリカはほとんど無傷でキューバ及びフィリピンマニラを陥落させ、スペインの追い出しに成功した。
ドイツは弱くなったスペインからカロリン、パラオ、マリアナ、マーシャル群島を買収した。これらの島々は第一次世界大戦後、アメリカの横槍により日本の領土とはならず、委任統治領となった。
大西洋と太平洋を結ぶ運河については、当初、アメリカはニカラグアの湖を利用することを考えていたが、最終的にパナマの湖を利用するフランスの会社を買収して、ルーズベルト時代の1914年パナマ運河を開通させた。その過程で、コロンビア共和国に属していたパナマを独立させるなどアメリカによる様々な工作が行われた。
支那大陸は欧州列強が分割・割譲をしていたので、これまで領土拡大、膨張、侵略をしてきたアメリカは1899年、ジョン・ヘイ国務卿による、支那における①領土保全、②門戸開放、③機会均等を謳った門戸開放宣言は、領土広大、資源豊富、西欧に比べ人口希薄のアメリカにとって、支那に対する平和的政策のそぶりをみせながら、商業の拡大、投資拡大を図れ、支那での領土拡大を図る列強諸国(ドイツ、ロシアなど)の権益を抑え込むには効果的なものであった。
そして、対支戦略はこれまでの領土拡大路線から市場拡大路線(マーケット開拓)へと変わっていった。

参考文献:「日米戰う可きか -世界知識増刊-」新光社



-黒人私刑の時代とアメリカ政治の闇-(GHQ焚書図書開封 第60回)

2017-05-12 14:38:04 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第60回
-黒人私刑の時代とアメリカ政治の闇-
 日本人がアメリカの参戦が確実とは思っていなかった昭和16年2月(1941年2月)に刊行された「アメリカの実力」。1940年11月6日のルーズベルトの3選を喜んだのはイギリス、蒋介石一派、豪州、カナダ、ニュージランド、南アであった。
戦後、日本人は、民主主義を与えてくれたのはアメリカだったとの認識に陥っているが、これはすっかり日本の囚われた誤認である。
民主主義が独裁を許さないこと以上のものではないことを考えれば、日本は古来から民主主義国家であった。
人々の暮らし方が民主主義であるか否かであって、民主主義が絶対善というわけでもない。
アメリカ人は教条主義で、「正義」「平和」「人道」「親善」といった善い言葉を使う。善言・美詞を使用するからさぞかし立派な国民と思われるが、これは、白人のための言葉であって、1922年に起きた黒人私刑事件のように「正義」「人道」「博愛」「親善」「自由」「平等」などは黒人には適用されなかった。
ルーズベルトになって新たに加えられたアメリカの外交基本政策のデモクラシー擁護(①対英援助、②対蒋介石援助)と、全体主義反対(①独伊枢軸の欧州新秩序建設否認、②東亜新秩序建設否認)が、アジア、東ヨーロッパで戦争拡大の火種をまき散らした。
ブリアン・ケロッグ不戦条約では先制攻撃(An act of aggression)が悪いと言っているのであって、防衛攻撃は認められている。
この先制攻撃を「侵略」と誤訳したので、漢字圏内の国家間に広まり、今日もなお、変な誤解を招いている。
この頃から、英米は、9か国条約、4か国条約、ブリアン・ケロッグ不戦条約を盾に、敗戦国に対し「人類の正義」の名において裁判をするという「裁きの思想」を取り始めた。それが、ニュールンベルグ裁判、東京裁判へと繋がっていった。
しかし、欧米は、民族自決をアジア地域(印度など)に認めなかったり、アフリカを分割するなど、あるいは、支那蒋介石に軍事援助をして戦争拡大を行うなど不戦条約違反を次々と裏でおこなっていたのである。表向きの主張と実際にやっていることが違うダブル・スタンダードを平然とやってのけたのである。
ドイツと日本による挟み撃ちを恐れたソビエトコミンテルンは、ゾルゲ、尾崎秀美を使って、対ソ戦争勃発を防ぎ、日米戦争への誘導を工作をした。日本国内では、南進論が北進論を抑える状況になっていた。
当時、日本及び米国国内には、コミンテルン同調者がインテリ層を中心に数多くおり、工作活動をしていた。
ドイツからの攻撃によって敗戦必至のイギリスにとって、アメリカの参戦と援助を得るにはパールハーバーが必要であった。
このようにして、英米露の利害が一致する条件が整ってきたのである。

参考文献:「アメリカの実力」棟尾松治  「米国の世界侵略」大東亜戦争調査会



-アメリカ外交の自己欺瞞-(GHQ焚書図書開封 第59回)

2017-05-09 12:57:34 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第59回
-アメリカ外交の自己欺瞞-
 1920年代アメリカに留学していた棟尾松治氏の書いた「アメリカの実力」。アメリカ人の性格は、したたかな強さ(堅忍不抜)、弱みとしては人種問題を抱えていること。
国内に、ヨーロッパ戦線での敵同士のドイツ系、イタリア系白人を抱え、白人人口の1.8億の3/4を占めるイギリス系白人の母国イギリスを応援する政治を強いられていた。
イギリスのチャーチルはアメリカを戦争に引き込みたいと3選をめざすルーズベルトとあれこれと画策。
アメリカの強みは、他国が経済封鎖できないことと、外敵から襲撃されるおそれが少ないこと。
アメリカ人はユダヤ人排撃運動を行ったナチスドイツに反感・憎悪を抱いていた。
ナチスがユダヤ人を嫌ったのは、ユダヤ人が国家を持たない、その自衛手段として金儲けにぬかりがなくインチキ商売をするなど、市民を苦しめたというそれなりの理由があった。
当時、ニューヨークはユダヤ人のエルサレムと言われ、政財界、新聞、言論界、ラジオ、映画、音楽などありとあらゆる分野においてユダヤ人の勢力下にあったのである。
日独伊三国同盟への批判、日英同盟破棄により日本を破壊しようとする意図はユダヤ金融資本勢力側にあったとも言える。
ヨーロッパ戦線に参戦しないと言って3選したルーズベルトが真珠湾攻撃の報復を理由にアメリカ国内での反日感情を煽り日米戦争へと誘導していったのは、日本が米英の謀略に嵌められたとも言える。
19世紀後半、アメリカ外交の基調をなす考え方は、①モンロー主義、②汎米主義(パン・アメリカ主義)、③門戸開放主義であった。それに加え、ルーズベルトは①デモクラシー擁護(対英援助、対蒋介石援助)、②全体主義反対(独伊枢軸の欧州新秩序建設否認、日本の東亜新秩序建設否認)にも力を注いだ、またアメリカは民主主義国家の軍需工場とならねばならぬと宣言した(軍産複合体の誕生)。
やがて、この考え方は、アメリカの国益に沿って、理念が自由勝手に解釈変更され、アングロ・サクソン民族の選民主義を生み、ナチスのやったユダヤ人虐殺を憎悪しながらも、自らマニフェスト・デスティニー(明白なる運命)のもと、西進侵略(ギリシャ・ローマ~イギリス~アメリカ~太平洋~東アジア~中東という地球一周)を正当化し、有色人種の大量虐殺を続けることとなった。
その過程で、9か国条約(日、英、米、支、仏、伊、白、和、葡)により、有色人種の雄であった日本の発展は阻止させられた。
最終的に日本に対しては東京大空襲、広島・長崎原爆投下による一般人の無差別大量虐殺が行われた。米比戦争(1899-1913)でのフィリッピン人掃討作戦(無垢の民を20~150万人虐殺)などを含め、アメリカが有色人種に対して行った虐殺は、まさにナチスドイツがユダヤ人にやった虐殺と同じである。ヒットラーに一番似ているのは東條英機でなくルーズベルトである。
参考文献:「アメリカの実力」棟尾松治 「米国の世界侵略」大東亜戦争調査会



-戦争という運命を引き受けた知識人の悲劇②仲小路彰の歴史的洞察-(GHQ焚書図書開封 第58回)

2017-05-08 17:42:25 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第58回
-戦争という運命を引き受けた知識人の悲劇②仲小路彰の歴史的洞察-
 戦争は望んでいなくても、戦争に襲われることを避けられないことがある。その時、避けられない運命とどう戦うか、予め国防をどうするかを考えておくことが哲学者の責務と考えていた仲小路彰。
日独伊三国同盟を巡って、海軍、外務省はソ連のみを仮想敵国に限定、陸軍はイギリス、フランスを含むとして対立。ドイツ提案受け入れの決断ができず、ぐずぐずしていた内に、ヨーロッパ戦線が拡大し、独ソ不可侵条約締結(日本はドイツと組んでのソ連封じ込めが不可能となった)。
情勢は一変し、平沼騏一郎首相は、「国際情勢は複雑怪奇」と言って政権を投げ出す始末。
日清、日露戦争の結果が、良くも、悪くも世界情勢(ロシア革命、第一次世界大戦、アメリカの対日政策の急変)に影響を及ぼしていることを自覚していなかった日本政府及び日本国民。
戦争の目的は、植民地民族の解放にあった。そのために、三国同盟を速やかに結び、コミンテルンと対決するとともに、アジアにおける西洋列強の侵略と干渉を排除する。とりわけ、その元凶ともいえるイギリスのアジアにおける勢力を排除する。であったはずだった。
仲小路彰は、雑誌「戦争文化」が発禁処分を受けた後、今度は「すめら学塾」を立ち上げ行動を開始した。これには、高嶋辰彦、末次信正、富岡定俊が参画した。
山本五十六の真珠湾攻撃、西太平洋への戦域拡大に批判的だったスメラ塾長末次信正海軍大将、富岡定俊海軍大佐は日本周辺と南太平洋に軍を集中させ、潜水艦で守る漸減邀撃作戦(ザンゲンヨウゲキサクセン)を主張した。海軍内部は対米戦略などを巡って分裂状態になっていたのである。
しかし、末次信正海軍大将は予備役兵となり二度と漸減邀撃作戦は実行されることはなかった。この背景には、米内光正との不仲があったとされている。
仲小路彰の戦争中盤以降の指導内容は、連合艦隊は、西へ進んで南アジア諸国とインド、中東のイスラム諸国の解放にむかうべきである。戦争目的は植民地解放だが、戦術的には石油戦争。中東の石油を抑えれば、アメリカは手出しできないというものであった。愛知教育大学の北村良和氏によると、現在の日本は、ローマにやられたカルタゴの運命と酷似しているとのこと。2回目のポエミ戦争で領土と軍備を奪われ、押し付けられた憲法を忠実に守り、無理難題に耐え、最後に、耐えきれなくなって立ち上がったときには、戦う力も既に尽きており滅亡するしかなかった。
参考文献:「戦争文化」戦争文化研究所

■「我かく信ず」(昭和20年8月18日)
大東亜戦争はいかにしても回避できぬ歴史の必然であり、諸民族の背後にあって相互を戦わせるなんらかの計画があったこと、そしてそれはアメリカを中心とする金融と軍需産業のメカニズムで、日本はその世界戦略に対するアジアの防衛と、自存自衛のためにやむなく干戈をまじえたまでで、我が国に戦争責任もなければ侵略の意図もなかった。ついで、大東亜戦争の第一次目的、大東亜宣言で述べられた目的は戦局とは関わりなくすでに達成され、日本の成功はいかにしても否定しがたい、なぜなら真の勝敗は武力戦の範囲を超えていて、今次戦争の目的は大東亜の復興、防衛、世界の植民地の解放にあった以上、これはすでに達成され、しかも敵方の大西洋憲章からポツダム会議に至る目的にも、つまるところ大東亜宣言の理念に帰するのであるから、勝敗とは関係なく、日本の創造的行動は成功したと言っていい。ヨーロッパ戦線も悲惨な運命を経過し、我国は原子爆弾が投下され全地球は地獄さながらの修羅場と化した。人類と国家をこれ以上衰亡させるのはそもそも大東亜戦争の目的にそわない。なんとしても本土戦場化は回避しなければならない。さもなければ、敵の悪魔的方法で、大和民族の純粋性は壊滅させられる国体を護持し、皇室に類を及ぼすことは絶対避けなければならない。
そこで、いまや和平工作が必要となるが、利得や対面にとらわれず思い切って不利な条件をも甘受すべきである
日本軍の満州を含む大陸からの全面撤兵、太平洋諸島の領土放棄、兵力の常駐はこれからの世界ではもはや有利のならない。今日の産業は有力なる武器を生み出せないので、むしろ全面的改廃を進めるべきで、大艦隊や歩兵主力の陸海軍はすでに旧弊で、次の対戦には不適切であり、むしろ不利である。大軍縮はおろか軍備撤廃まで恐るにおよばない。ここからかえって新しい創造が生まれる。そもそも今回の戦争では作戦の指導者に欠陥があった。一見不利な和平条件を突きつけられても、現在の日本の誤れる旧秩序、誤れる旧組織を全面交代させるのに役立つならこれは最良の道として選ぶべきである。
大東亜戦争の終結は世界史的に見る場合、絶対に敗戦にあらざることを徹底化し、むしろ真に勝敗は今後国民の積極的建設の有無によって決せられる。

■【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月8日午後0時20分
大日本帝国政府発表

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700
引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)、Karion168のブログ(Karionのつぶやき)

■【終戦の詔書】現代語訳

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非情の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝(なんじ)ら帝国国民に告ぐ。

 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。

 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、朕は常々心掛けている。
先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。
しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。
こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずであるそうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。
帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。
しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。

 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。
よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

御署名(裕仁) 御印(天皇御璽)

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード : A04017702300
件 名 : 御署名原本・昭和二十年・詔書八月十四日・大東亜戦争終結ニ関スル詔書 (終戦の詔書)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000042961




-戦争という運命を引き受けた知識人の悲劇①仲小路彰「太平洋侵略史」復刻-(GHQ焚書図書開封 第57回)

2017-05-08 10:43:04 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第57回
-戦争という運命を引き受けた知識人の悲劇①仲小路彰「太平洋侵略史」復刻-
戦争というものが避けられないものであるならば、国家の興廃に関わる未来を予見して、それに備える日本のあり方、国防をきちんと警告するのが哲学者の責務と考えていた仲小路彰。
戦後ジャーナリズムの左派系(哲学者、思想家、文学者)の林辰夫、服部之総、羽仁五郎、三枝博音、三木清、戸坂潤、戸田三郎、樺敏雄、唐木順三)を友人にもっていた。、一生を通じての親友は小島威彦であった。
著作「図説世界史話大成」の推薦人には、井上哲次郎、近衛文麿、郷誠之助、嘉納治五郎、高田早苗、松岡洋右、岡實、小林一三、野間清治、下村海南、矢野慎太、中野正剛毅、徳富蘇峰、白柳秀湖ら著名人が名をつらねていた。
大東亜戦争は、自存自衛といった消極的なものだけでなく、大陸から欧米の侵略を排除し、アジアを解放するための英米金融資本との戦いであった。
なぜ、日本の大学には戦争を研究する学部がないのか?軍事史学がないのか?
石原莞爾陸軍少将、末次信正海軍大将、高嶋辰彦中佐、富岡定俊海軍大佐などに影響を与えた思想家仲小路彰の存在。
石原莞爾はノーマンズランド満州に、欧米のブルジョア民主主義やプロレタリア独裁主義を踏み込ませず、五族協和、民族解放のの理想国家をつくろうとした。
高嶋、富岡、末次は仲小路の盟友であった。
高嶋は、日本100年戦争宣言の中で、①蒋介石と和平推進をすべし、汪兆銘の南京政府擁立反対。②敵は蒋介石でなく英仏だから、英仏の侵略排除とアジアの解放③ソ連の赤化革命への警戒と防衛④日米戦争の回避、避けられない場合に備え常に準備を怠らない⑤当面の敵とは公明正大に対応し、武力戦争を避け、内に武力を誓う。⑥この戦いは新世界創造の大事業であって、1世紀以上かかる、支那事変はその100年戦争に連なる。との内容で東京日日新聞、大阪毎日新聞に11回連載ものとして投稿した。
没落していく西洋文化に代わって、近代世界史への転換を果たす日本は文明史役割があるとの長期戦略の思想、総力戦の哲学は西田哲学の影響。

■【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月8日午後0時20分
大日本帝国政府発表

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700
引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)、Karion168のブログ(Karionのつぶやき)

■【終戦の詔書】現代語訳

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非情の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝(なんじ)ら帝国国民に告ぐ。

 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。

 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、朕は常々心掛けている。
先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。
しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。
こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずであるそうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。
帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。
しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。

 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。
よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

御署名(裕仁) 御印(天皇御璽)

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード : A04017702300
件 名 : 御署名原本・昭和二十年・詔書八月十四日・大東亜戦争終結ニ関スル詔書 (終戦の詔書)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000042961




-仲小路彰「太平洋侵略史」を読む④-(GHQ焚書図書開封 第56回)

2017-05-05 06:49:44 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第56回
-仲小路彰「太平洋侵略史」を読む④-
 太平洋侵略史6(③日米通商条約会談)」
アメリカは日米通商条約の草案(全16条)をつくり交渉を有利に進めた。今日まで続く日本外交のあり方が表れた日米通商条約の会談模様。
第6条日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。など国際法の知識を知らないことを悪用された不平等内容であった。
第8条のキリスト教会を建てることや踏み絵をしないことがすんなりと通ったことを意外に感じたハリス。
無頼漢、堀江芳之助、信田仁十郎、並東蔵の捕縛と日本民間人との雑居規制
老中堀田正睦の軟弱外交を批判した水戸斉昭の暴言を逆利用した川路聖謨(かわじとしあきら)の狡猾さ。
孝明天皇の許諾を得ず、安政条約を締結した井伊直弼。
参考文献:「太平洋侵略史6」仲小路彰

日米修好通商条約の内容
第1条
今後日本とアメリカは友好関係を維持する。
日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由にアメリカ国内を旅行できる。
合衆国大統領は、江戸に公使を派遣し、各貿易港に領事を任命する。公使・総領事が公務のために日本国内を旅行するための免許を与える。

第2条
日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。
日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。

第3条
下田・箱館に加え、以下の港を開港・開市する。[注釈 4] 神奈川:1859年7月4日(安政6年6月5日) 但し、神奈川開港6か月後に下田は閉鎖する
長崎:同上
新潟:1860年1月1日(安政6年12月9日)新潟の開港が難しい場合は近くの他の港を開く
兵庫:1863年1月1日(文久2年11月12日)
江戸:1862年1月1日(文久元年12月2日)開市
大坂:1863年元日(文久2年11月12日)開市

これら開港地に、アメリカ人は居留を許され、土地を借り、建物・倉庫を購入・建築可能である。但し、要害となるような建築物は許されない。このため、新築・改装の際には日本の役人がこれを検分できる。
アメリカ人が居留できる場所(外国人居留地)に関しては、領事と同地の役人がその決定を主なう。両者にて決定が困難な場合は、日本政府と公使の討議によって解決する。居留地の周囲に囲い等を作ることなく、出入りを自由とする。
江戸・大坂には商取引のための滞在(逗留)は可能であるが、居留は認められない。
両国の商人は自由に取引ができる。役人が介入することはない。
日本人はアメリカ製品を自由に売買し、かつ所持できる。
軍需品は日本政府以外に売ってはならない。但し、日本国内において他の外国に軍需品を売ることは可能である。
米・麦は船舶乗組員の食用としては販売するが、積荷として輸出することは許されない。
日本産の銅は、余剰がある場合にのみ、日本政府入札品の支払代金として輸出可能である。
在留アメリカ人は、日本人を雇用することができる。

第4条
輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通すこと。
荷主の申請に虚偽の疑いがある場合は、税関が適当な額を提示してその荷の買取を申し出ることができる。荷主はその値段で売るか、あるいは提示金額に該当する関税を支払う。
アメリカ海軍の装備品を神奈川・長崎・函館の倉庫に保管する場合は、荷揚げ時点で税金を支払う必要はない。但し、それらを売る場合には所定の関税を支払う。
アヘンの輸入は禁止する。もしアメリカ商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。
一旦関税を支払った輸入品に関しては、日本国内の他の場所に移送した場合に追加の税金をかけてはならない。
アメリカ人が輸入する荷物には、この条約で定められた以外の関税がかけられることはない。

第5条
外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。
取引は日本通貨、外国通貨どちらでも行うことができる。
日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(従って両替を認める)
日本貨幣は銅銭を除き輸出することができる。外国の通貨も輸出可能である。


第6条
日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にてアメリカの国内法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。
判決に不満がある場合、アメリカ領事館は日本人の上告を、日本の役所はアメリカ人の上告を受け付ける。
両国の役人は商取引に介入しない。


第7条
開港地において、アメリカ人は以下の範囲で外出できる。 神奈川:東は六郷川(多摩川)まで、その他は10里。
箱館:おおむね十里四方。
兵庫:京都から10里以内に入ってはならない。他の方向へは10里。かつ兵庫に来航する船舶の乗組員は、猪名川から湾までの川筋を越えてはならない。
長崎:周辺の天領。
新潟:後日決定。

但し、罪を犯したものは居留地から1里以上離れてはならない。

第8条
アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。
アメリカ人は日本の神社・仏閣等を毀損してはならない。
宗教論争はおこなってはならない。
長崎での踏み絵は廃止する。


第9条
居留地を脱走したり、裁判から逃げたりしたアメリカ人に対し、アメリカ領事は日本の役人にその逮捕・勾留を依頼することができる。また領事が逮捕した罪人を、日本の獄舎での勾留を求めることができる。
アメリカ領事は、居留・来航したアメリカ人に対し、日本の法律を遵守させるように努める。
日本の獄舎にアメリカ人を勾留した場合は、その費用は領事館が支払う。

第10条
日本政府は、軍艦、蒸気船、商船、捕鯨船、漁船、大砲、兵器の類を購入し、または作製を依頼するため、アメリカ人を自由に雇用できる。学者、法律家、職人、船員の雇用も自由である。
日本政府がアメリカへ注文した物品は、速やかに日本に送付する。
アメリカの友好国と日本の間に戦争が起こった場合は、軍用品は輸出せずまた軍事顧問の雇用も認めない。

第11条
附則である貿易章程も、本条約同様に両国民が遵守しなければならない。

第12条
日米和親条約および下田協約の内容で、この条約の内容と異なる部分に関しては、この条約によって置き換えられる。

第13条
条約内容は1872年7月4日に必要に応じて見直す。その場合には1年前に通達を行う。

第14条
本条約は1859年7月4日より有効である。
条約批准のために日本使節団がワシントンを訪問するが、何らかの理由で批准が遅れた場合でも、条約は指定日から有効となる。
条約文は、日本語、英語、オランダ語にて作成し、その内容は同一であるが、オランダ語を原文とみなす。
本条約を1858年7月29日に江戸にて調印する

注.金銀等価交換
第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められている。当時の日本の銀貨である一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣であった。このため、日本の金銀比価は金1に対し銀4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。幕府は下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切っていた。但し、草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていた。しかしながら、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い、交渉の過程で外国通貨の国内流通を提案した。ハリスもこれには同意したものの、日本商人が外国通貨に慣れるまでの1年間は日本通貨との交換を認めるように要求した。幕府はこれに合意し、かつ日本通貨の輸出を認めた[17]。結果として金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。幕府は貿易専用通貨である安政二朱銀の発行により金の流出を回避する予定であったが、条約違反と非難され安政二朱銀の通用は僅か22日間で停止されている。この問題は万延小判が発行され、国内の金銀比価が国際水準となるまで約1年間続いた。


-仲小路彰「太平洋侵略史」を読む③-(GHQ焚書図書開封 第55回)

2017-05-04 20:51:09 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第55回
-仲小路彰「太平洋侵略史」を読む③-
 東條内閣の参与をしていた仲小路彰は、作曲家、作詞家として三浦環、原千恵子、加藤登紀子とも音楽を通して交流があった神秘な哲学者であった。
「我かく信ず」(昭和20年8月18日)の中で、大東亜戦争はいかにしても回避できぬ歴史の必然であり、諸民族の背後にあって相互を戦わせるなんらかの計画があったこと、そしてそれはアメリカを中心とする金融と軍需産業のメカニズムで、日本はその世界戦略に対するアジアの防衛と、自存自衛のためにやむなく干戈をまじえたまでで、我が国に戦争責任もなければ侵略の意図もなかった。ついで、大東亜戦争の第一次目的、大東亜宣言で述べられた目的は戦局とは関わりなくすでに達成され、日本の成功はいかにしても否定しがたい、なぜなら真の勝敗は武力戦の範囲を超えていて、今次戦争の目的は大東亜の復興、防衛、世界の植民地の解放にあった以上、これはすでに達成され、しかも敵方の大西洋憲章からポツダム会議に至る目的にも、つまるところ大東亜宣言の理念に帰するのであるから、勝敗とは関係なく、日本の創造的行動は成功したと言っていい。ヨーロッパ戦線も悲惨な運命を経過し、我国は原子爆弾が投下され全地球は地獄さながらの修羅場と化した。人類と国家をこれ以上衰亡させるのはそもそも大東亜戦争の目的にそわない。なんとしても本土戦場化は回避しなければならない。さもなければ、敵の悪魔的方法で、大和民族の純粋性は壊滅させられる国体を護持し、皇室に類を及ぼすことは絶対避けなければならない。
そこで、いまや和平工作が必要となるが、利得や対面にとらわれず思い切って不利な条件をも甘受すべきである
日本軍の満州を含む大陸からの全面撤兵、太平洋諸島の領土放棄、兵力の常駐はこれからの世界ではもはや有利のならない。今日の産業は有力なる武器を生み出せないので、むしろ全面的改廃を進めるべきで、大艦隊や歩兵主力の陸海軍はすでに旧弊で、次の対戦には不適切であり、むしろ不利である。大軍縮はおろか軍備撤廃まで恐るにおよばない。ここからかえって新しい創造が生まれる。そもそも今回の戦争では作戦の指導者に欠陥があった。一見不利な和平条件を突きつけられても、現在の日本の誤れる旧秩序、誤れる旧組織を全面交代させるのに役立つならこれは最良の道として選ぶべきである。
大東亜戦争の終結は世界史的に見る場合、絶対に敗戦にあらざることを徹底化し、むしろ真に勝敗は今後国民の積極的建設の有無によって決せられる。との理論を展開
仲小路彰の思想は、開戦時の「帝国政府声明」そして「終戦の詔書」のほか戦後の吉田~池田~佐藤内閣までの戦後政策にも大きな影響を与え続けた。しかし、最後にあった「絶対に敗戦にあらざることを徹底化」の言葉は、無残にも葬り去られ、GHQにより共産党日教組を通じて日本人は敗戦自虐史観に洗脳され今日に至っている。
 「太平洋侵略史6(①ハリスの強制的談判②日米不平等条約の成立③日米通商条約会談④日米会談の奏上)」では国際法知識(治外法権の意味の理解など)のない日本が、ハリスの外交的・経済的謀略によって振り回される場面展開。堀田 正睦、水戸斉昭、孝明天皇の動き。
日本は二度(幕末、昭和20年8月15日)アメリカに敗北している。アメリカの政策に真っ向から逆らった人(田中角栄、中川昭一など)は失脚する運命をたどっている。日米修好通商条約(日米不平等条約)とサンフランシスコ講和条約は敗北の結果。

参考文献:プロイセン王国(ドイツ)の軍人にして、優れた軍学者・兵法家として知られる彼(か)のカール=フォン=クラウゼヴィッツは、死の翌年(1832年)に発表された著書『戦争論』の中で、斯(か)く述べています。即ち、戦争の勝敗は個々の戦闘にあるのでは無く、目的を果たしたか否かで決まる!

■【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月8日午後0時20分
大日本帝国政府発表

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700
引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)、Karion168のブログ(Karionのつぶやき)

■【終戦の詔書】現代語訳

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非情の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝(なんじ)ら帝国国民に告ぐ。

 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。

 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、朕は常々心掛けている。
先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。
しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。
こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずであるそうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。
帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてならない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。
しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。

 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。
よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

御署名(裕仁) 御印(天皇御璽)

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード : A04017702300
件 名 : 御署名原本・昭和二十年・詔書八月十四日・大東亜戦争終結ニ関スル詔書 (終戦の詔書)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000042961