【GHQ焚書図書開封 第138回】
-「大日本史」編纂のはじまり-
平安時代に入り、神仏習合の考え方が普及すると、仏教は豪族を中心に広く受け入れられた。本地垂迹説という考え方が広まった。
その後、江戸時代になると大衆にまで広がり、俗僧の増加、俗寺が乱立し、士民(しみん/武士と民)から金を搾取したり、風俗を害するものまでがでてきた。
これを憂い、天皇家を守り、神道を復活するため、水戸光圀は思い切った宗教改革(風教上有害とみた淫祠3088社を廃し、俗悪をもって通った小寺990か所の取り潰し、堕落僧344人に還俗を命じた)を断行した。
これが、後に、幕末の廃仏毀釈の走りとなり、国家神道への道へと向かっていく動きのひとつをつくったともいえる。日本には聖武天皇以来実社会の神(神主の代表である信仰される側の生き仏)と天竺の彼方にある超越的な神(天皇に信仰される側の神)が存在する二重権力構造が安定性をもたらしてきていたので、光圀のやったことはプラス面もあったが、マイナス面もあったと言えよう。
水戸光圀は、合理主義である支那の儒学の影響を受けていたため、その修史(大日本史)は神代から始まることを否定していた。前期水戸学の時代はアメリカで植民が始まった17世紀であり、神話への復活を目指した後期水戸学の時代はアメリカ独立戦争が始まった19世紀である。
前期水戸学は戦後の歴史観、(南朝承認、人代歴史観)、後期水戸学は戦前の歴史観(北朝承認、神代歴史観)と相通ずるものがある。
このため、光圀の時代で易姓革命があったとする見方もある。
水戸黄門の諸国諸国漫遊記は作り話である。なぜなら、光圀は藤沢から西に行ったことはないのである。ただし、助さん、格さんのモデルとなった人はいる。大日本史を書く忠実な家臣だった佐々十竹助三郎が助さんで、安積澹泊(あづみたんぱく)が格さんである。
大日本史を編纂するにあたり、最も苦労したのは、吉野朝(南朝)の資料を集めることであった。なぜなら、逆賊といわれた南朝は、足利幕府にとって都合の悪い存在であり、南朝太陽資料は消滅するようにしていたからである。当時、林羅山父子が幕府の力を借りて本朝通鑑(ほんちょうつがん)の編纂資料を集めるのに苦労した位だから、独力で集めるのはそれ以上困難であったことは容易に推察できる。その資料集めの役割を担ったのが佐々十竹で、全国を飛び回り摂津湊川に大楠公(楠木正成)の神牌を発見した。その後、義公は表忠碑を建てた。
(楠正成の墓を一番最初に発見し嘆いたのは貝原益軒であり、21年後にその前で嘆くだけでなく切腹して詫びたのは武士橘茂信である。「義を重ねるの名将戦死の仠。今に至って一塚湊川に堆し。誰か知る霜仞黙然の意。梅霜は涕を垂れ松は煙を促す」)
日本に清を討って欲しいと明から亡命してきて光圀の懐刀となった朱舜水。朱舜水の意を受け、家光も支那に大軍を送る計画はしたものの、当時の江戸の思想家は、支那がモンゴルや満州族に中原を奪われる体たらくぶりをみて、「中華の華は、我が日本なり」と支那を軽蔑しており、実現には至らなかった。
大日本史の史官は、安積澹泊、三宅観瀾、栗山潜鋒であった。
水戸光圀は神功皇后を本紀から列伝に移し、大友皇子を列伝から本紀に移し、正閏を正した。
参考文献:「日本近世轉換期の偉人」高須芳次郎 、 「天皇と原爆」西尾幹二
2017/6/7に公開
【竹田学校】歴史・鎌倉時代編⑧~挙兵した後醍醐天皇~|竹田恒泰チャンネル2