S & A

日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-最終講義2-(GHQ焚書図書開封第201回)

2022-12-26 12:27:52 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第201回

-最終講義2-

■マゼラン、ドレーク、ペリーも通らなかった北太平洋、クックが3回目の航海で初めて、北太平洋に足を踏み入れた。日本はそれまで北太平洋というブラックホールに守られていた。

■ローマ法王によって認められたトルデシリャス条約で世界はスペインとポルトガルによって2分された。

■境界の思想

boundary

frontier

■ウォーラスティンの近代世界システム

中核

周辺

半周辺

ヘゲモニー国家

■マニフェスト・デスティニー(明白なる運命)のもと、西進侵略(ギリシャ・ローマ~イギリス~アメリカ~太平洋~東アジア~中東という地球一周)を正当化し、有色人種の大量虐殺を続けることとなった。(関連動画:第59回-アメリカ外交の自己欺瞞-、第125回-日本人が戦った白人の選民思想・前半-)

参考文献:北太平洋の「発見」木村和男、日本の「境界」ブルース・バートン、『世界システム論講義』川北稔

2019/7/24に公開

 


ー最終抗議1ー(GHQ焚書図書開封第200回ー最終講義1)

2022-12-26 12:23:44 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第200回ー最終講義1

ー最終抗議1ー

1510 ポルトガル、マラッカ海峡制圧

1521 マゼラン、フィリピンに到着

1580 ポルトガル、スペインに併合される

    この頃、オランダが登場し、イギリスを交えてアジアの海は騒然としてくる

1596 オランダ商船隊、ジャワに到着

1600 オランダ船リーフデ号、大分の海岸に漂着

    ウィリアム・アダムス(三浦按針)到来

1603 徳川開幕

1623 アンボイナ事件(日本人関与)

1635 幕府、日本人の海外渡航と帰国を禁じる 翌年、長崎の出島完成

1655 鄭 成功(てい せいこう)の海軍勢力(艦艇1000隻、兵力10万)最高潮となる

1681 鄭、海戦に敗れ、ヨーロッパが世界の海をほぼ制圧

 

1741 ベーリング、アメリカ(アラスカ)を発見

1768~76 キャプテン・クック航海(第一次~三次)

1779 クック、ハワイで殺害される

1784 クック航海記刊行

1785 仏人・ラペールズ隊探検、宗谷海峡を抜ける

1789 ヌートカ湾事件

1804 ロシア使節レザノフ、長崎来航 

 

日本の東は溟海遠闊にして世界第一の処にして、地勢相絶す、故に図上には亜米利加州を以て東に置くと雖も、地系還って西方に接して、その水土険悪偏気の国なり。地体渾円の理を按ずるときは、即ち当に亜米利加を以て西極に属すべし(「日本水土考」)

 

明治維新から70年生き抜いた人と戦後70年生き抜いた人とでは、余りにもその経験・体験内容に差があり過ぎる。戦後70年は、丁度ベーリング海峡が発見された1741年からレザノフが長崎に来航した1804年にかけての鎖国後期の時期に符合する。

 

関連動画:第156回「ポルトガルの『海の鎖』と大英帝国のつくった海賊の話、第161回「アンボイナ事件とオランダ東インド会社」、第162回「鉄砲伝来」(1543)から現代を考える」

2019/7/12に公開


-モンゴルの地球支配から初期ロシア帝国へ-(GHQ焚書図書開封第199回)

2022-12-26 11:51:34 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第199回

-モンゴルの地球支配から初期ロシア帝国へ-

第1章 ロシアの東進

1. ロシアの成長

(1) ギリシャ正教に帰依

(2) 蒙古族の支配

(3) モスクワ公国の制覇

2. ロシアの遠征

(1) ノヴゴロッド併呑

(2) ウラル山外に遠征

(3) 勢力圏の強化

3. エルマツクの出陣

4. シベリア鉄道

(1) 支那○○と北洋○○航路

(2) オビ、エルセイ、シナ○○○○

(3) ヤクーツクから前進

5. カムチャッカ征服

(1) アトラッツフの遠征

(2) 恐怖時代

6. 北太平洋に活躍

(1) 日露○○

(2) アジア○○の○○

7. 黒竜江遠征

(1) ボヤルコフ、ハバロフの遠征

(2) 露支衝突

(3) ネルチンスク条約

8. 露支交通路

9. 総合的大探検

(1) 北方大探検

(2) ベーリング探検

(3) シュバンベルグ探検

(4) 大探検の成果

10.辺境種族を中心とする露支両国の係争

(1)露支貿易の中絶

(2)カルマツク族の動き

(3)ロシアの中央アジア遠征失敗

(4)露支両国の和解

11.シベリアと蒙古の○○

12.北太平洋の争奪○○

 

 

 

この外的影響による都市の発展に拍車をかけるものは奴隷売買の内的影響であった。ノルマン人がロシアに侵入して来たのも商品の奪掠であり、奴隷の捕獲であったが、都市の発展に伴い、奴隷の需要はいよいよ激増し、如何にしてこの価値ある商品の奴隷を多く所有し得るかということは、奴隷売買の商人でもあり専制的君主でもあった当時の支配階級の重要課題であった。このため奴隷売買の中心地コンスタンチノーブルに接触したのであるが、そこではからずも輝かしいビザンチウム文化に浴し、ギリシャ正教の壮麗な伽藍に眩惑したのである。

西紀851年聖徒アンドレアスがキエフに来て十字架を建て、866年にはキエフにコンスタンチノーブルからギリシャ正教の僧侶を招いたという記録があるが、今現実に奴隷売買からビザンチウム文化に接触したロシアは、初めて宗教的民族としての洗礼を受けたのである。苦難多き現世に逃避して神の恵みに縋ろうとするロシアの環境はギリシャ正教を素直に受け容れる全ての条件を備えていた。まもなくキエフはロシアの聖都として栄え、壮麗極まる伽藍が立ち並んだ。957年にはイゴル公夫人がコンスタンチノーブルで洗礼を受け、988年にはウラヂミル公がギリシャの皇女アンナと結婚して、初めてキエフで洗礼を受け、ギリシャ正教は正しくロシア人の魂の糧となった。異種族の支配を受け、奴隷と奪掠を持って発展して来たロシアは、今や支配階級も被支配階級も挙げてギリシャ正教に帰依し、眼もあやなる宗教的極彩色を施したのである。

(2)蒙古族の支配

・・・・・・・

ロシアの各都市は急激に衰退し、生活の足場を失った彼等は土地に定着し、農耕することによって自給自足を計らねばならなかった。そこに農奴なる利用価値が新しく支配階級によって認識された。しかも支配階級が自給自足に満足せず、珍奇な商品を購入して生活を楽しむためには農奴をしっかり手許に縛りつけ、極端に駆使せねばならなかった。このため教会はその財源を保護し、収益を増すため強権の発動を要請し、真っ先に過酷な農奴制の基礎を確立したのである。かくて農奴の虐使とギリシャ正教の熱狂的信仰により、ロシア的特有の素朴な宗教的文化を結実しつつあったが、このとき、「アジアの嵐」成吉思汗の遠征軍が怒涛の如くロシアの平原に迫っていたのである。

宗教都市としてまた文化都市として、ロシアが誇るキエフの周辺もたたならぬ風雲を孕んでいた。18:30

住民はキエフを棄てて、草原地帯から森林地帯へと続々避難を開始し、遂にはボゴリンスキー公もキエフを棄て北東の安全地帯を求め、ノヴゴロッドからウラヂミルに首都を遷した。

アッチラが欧州を席巻してから800年後、アジア人は再び英雄成吉思汗の号令によりそくふだい、てつれつ別両将の先鋒部隊が恐らく火薬の新しい武器をもっていたろうと思われる勇敢な騎兵の襲撃により、ロシア平原に突入してきたのである、ロシアは忽ち秩序を失い、各都市は大混乱に陥った。

 

成吉思汗は西紀1227年永眠したが、抜都がその遺志を奉じ、再び ウラジミル

を破り、ついで当時一村落に過ぎなかったモスクワを攻撃し、1238年には大挙してウラジミルを襲い、三月にはウラヂミル公の新編軍をシタ河畔に破り、1242年にはキエフを攻略し

 

ロシアの聖地も遂に蒙古軍の蹂躙するところとなった。かくて蒙古軍はボルガ河下流のサライを首都とする欽察汗国を興し、爾来200余年間ロシアを支配したのである。これがロシア史上所謂「タタールの支配」であるが、この支配下においてロシアは東方アジアに対する戦慄と脅威を新しく発見し、支那へ、印度への通路を模索し始めた。

しかもロシアはこの永年に亙る屈辱の歴史により、却って不撓不屈の精神を養い、

スラブ魂を育て上げたのである

重要事項のみ掌握して、間接的にロシアを統治せんとする東洋的善政を施したことはロシアのため不幸中の幸いであった。ロシアが熱狂的信仰をもつギリシャ正教に対しても弾圧することなく、寧ろ異教徒が汗のため祈ることを歓迎する傾向すらあったので、ロシアの宗教は蒙古人の保護下に栄え、宗教的文化はますます充実し、被支配階級にありながら独特の逞しい成長を続けることが出来たのである。さらに蒙古人は重要な徴税事務すら、ロシア諸侯のうち最も信頼するにあたる人物に大公の称号を与えて一任したため、各諸都市は完全にモンゴルの重圧から避けることができ、次第に精気を取り戻して独立的な国民的感情をかもすこととなったのである。

 

西紀1380年モスクワ大公デメトリアス・ドンスコイが、決然起こって兵15万を率い、セントセルヂアス大僧正の辞を受けて蒙古軍撃破の壮途についた。9月8日ドン河上流のクリポコの会戦により、初めて蒙古軍を撃破したが、これによって蒙古軍を徹底的に叩いたわけではなかった。ただこの冒険により歴代ロシア人が抱いた蒙古人に対する恐怖心を完全に払拭し、蒙古人を撃破することはさまで困難でないということを確信することが出来たのである。

 

1472年イワン3世がビザンチン帝国の承継者、コンスタンチン13世の皇女ソフィヤ・パレオローグと結婚し、シーザーの言葉をとってツアーと名乗り、ビザンチン帝国の劈頭の鷲を紋章として用いるようになってから、アジア的な絶対の権力を掌握する専制武断のロシア帝国が誕生することとなった。

 

2.ロシアの遠征

(1)ノヴゴロッド併呑

ロシアで最も古い都市ノヴゴロッドは、歴史的な特異な存在を示していた。

 

蒙古軍のロシア平原進入に対しても僅かに兵火を免れたのであるが、さらに蒙古人の支配下において南方通商路の安全が確保されるや、黒海横断の東洋貿易の通路が復活したので、東北よりの毛皮、銀と共に南方より渡来する支那、ペルシャ等の当時のアジア代文明圏の珍奇な商品が続々とノヴゴロッドに集中され、ノヴゴロッドは北東の一大商業都としていよいよ盛況を呈しグレート・ノヴゴロッド、またはサー・ノヴゴロッドと称され、西欧諸国の羨望の的となった。

 

モスクワが欽察汗国滅亡の余勢を駆って、ノヴゴロッドの毛皮と銀の産地に眼をつけたことはとうぜんのことである。武断専制のモスクワの挑戦を受けた自由都市ノヴゴロッドは遂に1478年モスクワに併呑されてしまった。43:00

 

かくてシベリアへの野心は、ノヴゴロッドの都市商業資本の発展となったのであるが、今やモスクワのノヴゴロッド併呑によりモスクワの新しい武器とノヴゴロッドの豊富な資本が完全に結合し、モスクワの帝国主義的領土拡張へと飛躍し、そこにはすでにノヴゴロッド人により、開拓の緒につきつつあったシベリアが無限の富を蔵して果てしなく広大に展開していた。

 

かくしてモスクワ帝国は、ウラル山外の広漠たるシベリアの原野に逞しい野心を展開しつつあったが、国内においても全国統一の大業を進め、西紀1552年蒙古人の本拠カザンを、1554年にはアストラカンを続々と奪取したが、その余勢は当然南方に接触する中央アジアに向けられた。

 

記録によれば西紀913年、943年、969年の三回に亙りカスピ海付近に侵入しており、続いて1175年舟艇によるカスピ海沿岸奪掠、1043年のコンスタンチノーブルに接触、1464年にはロシアの代表者がペルシャのヘラトに入り、1490年には

ヘラトの代表者がモスクワに来ている。その間有名な商人アファナシー・ニキチンが冒険的なアジア旅行を続けた記録もあるし、とにかく組織的なものではなかったが、アジアと濃厚な関係をもってきたのであるが、カザン、アストラカン攻略後は、俄然組織的に積極的に中央アジアへ進出し始めた。しかしそれは飽くまで経済的進出の域を脱することは出来なかった。当時南方のこれら回教徒圏の文化は、遥かにロシアの文化より上位にあって武力進出などは思いも及ばなかったのである。

 

一方シベリアにおいても時を同じくしてロシア人の活動が活発となった。しかもこの方面は中亜の文化圏とは異なり、未開野蛮の原住民と見られていたので、単なる威嚇で十分進出の目的を達しえるとの確信を抱くようになり、次第に武力による強奪が大々的に遂行されてきた。このためウラル山外も遂にモスクワの強圧に屈服し、1555年、1557年の二回に亙り黒てんの毛皮を貢納する使者がモスクワに来たことが記録に見えている。しかしこれはモスクワの勢力がウラル山外に全面的に浸透した証拠ではない。剽悍な蒙古族の子孫共は、この強奪に対して常に反抗したが、執拗なロシアの帝国主義的進出を阻止することは出来なかった。ロシアの勢力は次第に拡大し、国境線は広大なものとなって来たが、その反面ロシアは反抗種族の弾圧に手を焼くようになった。51:55

2019/06/26に公開


-帰還兵火野葦平が見た前線と平時の裂け目-(GHQ焚書図書開封第198回)

2022-12-26 10:44:26 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第198回

-帰還兵火野葦平が見た前線と平時の裂け目-

 今朝起きてみると、深い霧である。五階の望楼に上がってみると我々の建物だけが、霧の中に浮かび、船に乗っているみたいである。白々とした霧の中にからんころんと下駄の音が聞こえてくる。女工や新聞記者が出勤してくるに違いない。少し先にある中山公園の深い緑が海に浮かんだ海藻のように見え、その中から、しきりに小鳥の賑やかに囀る声が聞こえてくる。直ぐ目の下を流れている韓江がかすかに白く(実は真赤な泥川なのだが)帯のように見え、浮かんでいる五、六隻のアンペラ張りの民船に漂うように煙があがる。

私たちのいるのはかって汕頭(すわとう)で最も多数な発行部数を有し、且つ、最も抗日的であったといわれる星華日報社の建物である。今は粤東報社(えっとうほうしゃ)である。日本軍が汕頭を占領したのは、六月二十一日であったが、入場と同時に私たちは他のいろいろな仕事とともに漢字新聞の発刊ということを非常に重大なこととしてそれに努力した。その経過は省略するが、幸いに王英勝というちょっと面白い人物を得て、支那人たちの手により、あらゆる不便の中で、粤東報創刊号は二十八日に発行された。そこで星華日報社は忽ち粤東報社となったわけである。4:30

 入場以来、私たちもここで起居して仕事をしている。この建物には無数の弾痕がある。韓堤路の角に扇形に建てられたこの家の左側が爆弾のために無残に破壊されている。すぐ後ろにつづいている自動車工場も爆撃によって屋根を貫かれ、瓦や木片や鉄片が散乱している。それらをどう片づけようもないので、私たちの事務室はそれらの廃墟の中にある。おあつらえ向きのことには、昨夜はこの戦場の廃墟の上に満月がでた。汕頭市には今は電灯も水道もない。それらは日本軍入城の前日に敵軍によって壊されてしまった。当分復旧の見込みもない。何にも灯の見えない敵国の市街を照らす東洋の満月は、兵隊に若干の干渉を強いる。

 応召以来既に三年目、数日の後には戦地で迎える二度目の聖戦記念日がやってくる。月日のたつのは早いものだ、というような月並みな詠嘆など我々兵隊にはない。正直にいって、我々はそのようなぼんやりした時間の経過の中にはいなかった。弾丸の中にある一年は十年のようにも長いものだ。しかしながら、そのような名状し難い時間の中に兵隊があったということは、否、現在もあるということは、私には何よりも尊いことだと思われる。

 私は幾つかの文章でそのような兵隊の現実と、それによって成長する兵隊の逞しさを書いてみたが、真に兵隊の鍛錬される姿は私の筆では描きつくされなかった。

私は常に考えているように、この戦争に関する真の意味を捜すことは、私の一生の仕事とすべき価値があるという感想をますます強くなるばかりである。思えば私たちもうろうろと方々をうろついたものだ。尤も自分が行こうと思って行ったわけではないが、軍の作戦の要求するままに、私たち兵隊は全く文字通り南船北馬であった。

 私自身の経験から言えば、今度の汕頭新津港上陸は、初陣の杭州湾上陸以来、数回目の敵前上陸であったが、他の兵隊たちも同様にそのような経験をもっている。私たちが支那の土地を踏んで以来、うろつき廻った道程は既に三千里を超えているであろうか。兵隊は話をするたびに笑うのである。兵隊になったおかげでよい見物をさせてもらった、と。我々は数かも知れないほど度々弾丸の下にあった。その一発の弾丸は、あらゆる盛りきれないほどの意味と尊さをもっている一つの生命を、一瞬にして消滅させる。兵隊の精神はその上を乗り越えてゆくが、それ故に、この我々が今も生きているということは涙のでるほど有難いのである。我々は故国を離れるとき、全く生還を期さなかった。

今もなお我々はそのようなことを期待することはできない。このような兵隊の持つ尤も凡庸なる感想こそ、大仰にいえば日本を進める大きな力かもしれないのである。

 我々兵隊は一つの誇りを持ちたいのだ。我々の犠牲が無駄に終わるのではないかという感想が一番悲しい。我々の苦難が十分に生かされないということが一番腹立たしい。我々は愛する祖国のために戦っている。我々は何も勲章が欲しいこともなければ、靖国神社に祀られて神様になりたいがために、戦っているのでもない。

 我々兵隊の大いなる苦難と犠牲によって日本が前進し、日本が良くなり、日本が美しくなれば、兵隊は満足するのだ。兵隊に、何のために我々は戦ったのか、というような感想を抱かせることは、尤も腹立たしいことである。兵隊の犠牲によって日本が前進する。そのことを我々兵隊は絶対に確信している。12:24

 根本的には我々兵隊の精神は信念によって貫かれている。しかし、私は兵隊として言いたいことを一つ言いたい。それは意義のある聖戦記念日にあたって、決して無意義なことではあるまい。そのことは、しかし、今新しく私が述べるまでもなく、私としても今まで何度も書いてきたし、また私ひとりでなく、兵隊全体の声としてすでに知られていることであろう。それは軍の占領地域に行なわれるいわゆる大陸進出の現象についてである。大陸進出は大いに結構である。否、どしどしとなされなければならない。しかし、軍の占領地域に一仕事始めんとしてやってくる人達は、一体どういう感想を抱いてやってくるのであろうか。どさくさにまぎれて、一儲けしようと考え、濡れ手で粟の一攫千金を夢見て来るのはよいが、かれらがその地盤とする地点が、尊い兵隊の血を流して、はじめて拡げられた安全地帯であるということを考えてくるのであろうか。それ位のことを考えない国民があろうかというであろう。私達も国民がそれ位のことを考えてくれないとは信じられない。にもかかわらず、我々の占領地域内では腹の立つことが甚だ多いのである。我々の腹の立つことを具体的に云う必要はない。

 大陸進出の名によって、いかがわしい商売を不愉快な方法で始める人々が、彼らが安全に商売できる地域を、生命を賭して購った兵隊を起こらせることは度々である。私は全体のことをいっているのではない。一部の感心しない連中のことをいうのである。

我々は自分達が苦労して占領した地域に、故国の人々がやって来て、いろいろと商売をはじめるのを見るのは實に嬉しく楽しいのである。ところが、そのなかに度々兵隊を憤慨させるものが往々あるのだ。そのような人達こそ同胞の名を汚すものであろう。

 ○○で部隊戦没勇士の慰霊祭を施行したことがある。その土地には既に数千人の内地人が店を開き商売をしていたので、我々は、むろん、その全部がこれに列席するものと考えていた。祭場には十分広く居留民席が準備された。しかるに当日その席には多くの空席があった。私は涙がでるほど腹が立ったのである。そのときは種々な事情もあり、円満に収まったが、そのような時に、我々兵隊が、何のために俺達は戦ったのだ、何のために兵隊は死んだのだ、という感想を一時でも抱くことは悲しむべきことである。

 私達は、そのとき出席がなかった居留民は悉く退去命令を出して貰うことさえ思ったのである。私は或いは少し言いすぎたであろう。しかしながら、私は全体として、兵隊の精神が純粋であると同様に、銃後国民の精神もまた誠実であることを信じている。それ故にこそ、我々兵隊も、なおも悔いなく弾丸の中に身を曝していることができる。兵隊の苦難と共に日本は前進し、立派になるであろう。そう思うことは楽しい。唯、願わくば、そのような希望と犠牲の精神によって心も明るい兵隊の気持ちを、つまらないことによって乱さないで欲しい。

 このように兵隊を不愉快がらせるような人達(それは又同胞の名をも汚す人々であるが)は、大陸進出というような隠れ蓑を着て戦地にやってきて貰いたくないのである。

私が今このような考えを抱くのは、やがてこの汕頭の街も、今迄私達が経てきた幾多の占領地域で起こったと同じような現象が、つまり治安の回復につれて次第に内地からの進出がなされるであろうことが想像されるからである。

これは新しい問題ではない。しかし、解決されなければならない根本的な問題であると思う。聖戦記念日は一つの頂点として、あらゆる問題の積極的解決、或いは前進の拍車でありたい。それによってこそ、その日を特に記念する意義があると思う。

ああ、この緑と霧の美しい汕頭の街に、兵隊の心を暗くするような狐や狼がやって来ませぬように。(汕頭にて)19:50

 私にも満二ヵ年の上を身に着けてきた軍服を脱ぐ日が来た。兵隊でなくなるその日、嬉しさと共に消え難い一抹の淋しさがある。

嬉しさは生きて故国に帰れたということであり、淋しさは既に私の皮膚の如くになっていた軍服に対する限りない愛着の心である。しかしながら軍服の色によって私の心に染み付いた兵隊としての心は軍服を脱いでも私を去らず、やはり一個の兵隊として生きたいと思っている。それは色々な意味で。もう一つの淋しさは、私が戦場で生死を共にして来た私の兵隊達と一緒に帰れなかったということである。杭州湾敵前上陸を最初の戦闘として二ヵ年を超える間戦場に暮らして来た兵隊達が全く生還を期していなかったにも拘らず、二度と踏むこともあるまいと決めていた故国の土を生きて踏むことが出来、二度と会うことのないと決していた家族にも会え、思いがけなくも我が家の閾を跨ぐことが出来るということについての嬉しさを説明する必要があろうか。27:00

 大陸の土と化した多くの戦友達に対しては済まないという気持ちを深く抱きながら、それはそれとして無性に嬉しいということは隠し切れない。それらの多くの兵隊達と私は共に、またごたごたした臭い輸送船に積まれ共に隊列を為して故国に上がり、旗の波の中を帰りたかったのである。出征するとき沿道数里の間、両側を埋め尽くした旗の波と歓呼のどよめきの中を銃を担ぎ行軍して行った日の感激を私は終生忘れることが出来ない。帰る時にもこのような感激の中を抜けたかったのである。それは一つの感傷であり、帰る段になればどのような方法でも同じではないかという人は兵隊の心を知らないのである。

 ところが私はある事情のために、兵隊達に別れ、たった一人でポカンと帰るようなことになってしまった。帰還部隊が故国の港に到着し、懐かしの土を踏み、旗の中に埋められている兵隊達の写真が麗々しく新聞に掲げられたのを見た時に、私はどうにも溢れてくる涙を抑えることが出来なかったのである。兵隊達には一斉に歓迎の声が挙げられ、また帰還の感想についての質問が浴びせられた事であろう。兵隊達はそのような野暮な質問に面喰い暫くは返答に窮したことであろう。それからやっと生きて帰ったことが有難いとたったそれだけをいったであろう。私にも今またそのような質問が寄せられる。私はまた兵隊達と同じように生きていたことが嬉しいばかりだと最も凡庸な答えをするより仕方がない。二ヵ年の転戦生活からたった今帰ってきたばかりの兵隊になんの特別な感想のあろう筈がない。兵隊の本当の気持ちはよくも生きて帰られたということに対する限りない喜びの詠嘆であり、そしてそれが全部である。

 私は変則な帰還の仕方をしたので兵隊としての純粋の感激から取りはぐれ、印象や感想が頗る中途半端になって何か戸惑いしているけれども、根本の気持ちにおいては少しも変わりはない。ところがその変則な帰還をしたために、兵隊の目に触れなかった部分で私の目に触れたものがある。兵隊として帰還した最初に何を置いても言っておきたいことがないでもない。私は軍服を脱いでしまっているけれども、兵隊としての気持ちでそのことを率直に述べたいと思う。それは一口に言ってしまえば、現地にある兵隊を忘れないで欲しいということである。そんなことを言うと私は怒られるかもしれない。この戦争の最中に、銃後のものがどうして戦場にある兵隊を忘れるものかと。又私は、決して兵隊が忘れられているとは思わない。

 唯、私は本当に兵隊が理解され、もっと労われてよいと思うのである。銃後の人が、どういう生活をし、戦争に対して、どういう考えを抱き、兵隊に対してもどう思っているのか、というようなことは、帰ったばかりの私には、まだ何も判らない、少しの間私も銃後人の一人として暮しているうちに、そんなことも色々判って来るとは思うが、今は何も判らない。

私は二年ぶりで初めて福岡の土を踏んだときに異様な感じを受けたのはその街の景況ののどかさである。それは銃後が緊張しているとか怠けているとかいうようなことではなく、いきなり見た故国の街が如何にもおほどかでのんびりとしていたことである。寧ろ私達の出征前より派手やかであり、非常に絢爛たる色彩のけばけばしささえ目についた程である。これらの街の様子は、どこに戦争をやっているのかというほどである。

 銃後に戦地のことが判らないように、戦地にも銃後のことはよく判らない。新聞等で見ていると、堅苦しいせせこましくこせこせした用語や文字が並んでいるので、一体内地はどんなに窮屈になって縮こまってしまっているのだろうかと奇妙な不安が起こるのである。ところが私が福岡に着いた途端にそういう一切の懸念が一瞬に消え去り、その晴れやかにのびのびした日本の姿に私は目を瞠ったのである。それは兵隊としての私にとっては、この上ない喜びであった。戦地であんなに兵隊が不自由をし、苦労をしているのに故国ではこんなにみなが楽をしているということは一種の腹立たしさのようなものでありながらも、そののんびりとした悠々たる故国の姿は、何か頼もしく嬉しかったのである。孤島の小国である日本がこれだけの大戦争を決行しながら、こんなにもへたばらずにいるということは、世界にとっても驚異であったに違いない。また日本自身にとっても日本の力に自信を抱いたことであろうが、戦地の兵隊にとっても力強い限りであった。34:30

 正直に、言うと、戦地で兵隊は談笑の合間に、俺達は祖国のために、命は惜しくないし戦闘はいくらでもやるが、日本はこんなに金を使って戦争に勝っても経済的に、参ってしまうんじゃないか、と、そんなことを、真面目に語っていたのである。その不安は全く杞憂である。その点では日本は、決してへたばらないということが、はっきりと判った。私は自分で、最初に見た、日本の姿にその歴然たる証左を示されたような気がし、嬉しかったのである。

 然しながら当初のその印象の中に、次第に一つの感想が沸いてきたのである。それはなるほど銃後はそういう意味では非常に心強く何等の心配もない。しかしその故にその安易に狎れて少しく戦争の大きさを忘却し、兵隊についても幾らか関心をぬいているのではないか、という気がしてならなくなってきたのである。事変勃発以来三年に近くなろうとしている。そのことが国民を草臥れさせたのであろうか。そんなはずはない。この長年月を聊かの疲労もなく戦争を継続し、今後にも尚十分の余裕さえ保持している。しかしながら矢張り或る倦怠が生じているのであろうか。私は様々な大きな問題については何も語る資格がない。私は兵隊として、兵隊についてのことを言いたかったのである。

 事変勃発以来、支那の重要なる拠点たる、諸都市は倫陥の運命に陥った。厖大なる地域は、占領され、日本の旗の下にある。そこには既に、東亜新建設を目指して、陸続と新しい政権が生まれ、今や中央政府の樹立すら、時間の問題となっている。新しき旗が日本の労力の下に、兵隊の苦労を基礎として大陸に翻らんとしている。そういう状態にあるために、銃後では何かもう戦争は山を越して、兵隊の苦労も以前ほどではなくなったという風に、考えているようである。

 無論現在でもどんどん作戦が進行されているが一方軍隊は各拠点を押さえ警備に服している所が多い。そこで内地から来る便りなどにも、もう警備だから大したことはあるまい、というように書いてくるのである、全然反対である。私も兵隊として多くの戦闘に従い、また多くの街々の警備に服した。中支から南支へ廻り広東に一ヵ年を過ごした。広東も昨年十月二十一日入城著しく復興し、現在の殷盛は目覚しいものがある。そこで内地からは、この頃は楽だろう、などと兵隊達への手紙には大抵書いてあるのである。

全然反対である。軍隊が一つの戦闘を終えてそこを占領し警備につくと、何かひどく楽なように考えられるようだ。警備についてからの苦労というものが戦闘以上であるということがどうして理解されないのであろうか。私は警備についてからの地味な苦労が真に戦争の苦労であり戦争の姿であるといっても差し支えない位だと思っている。

それは、戦闘も大変な苦労だ。然し警備についてからも、その苦労がいささかも減じるものではない。これは新聞などにも、若干その罪はあると思う。どこそこ攻略とか敵前上陸とかと、いうようなことは非常に大きく何段抜きもで書く。ところが、一旦目的地を占領しそこの警備に入ると、もう新聞はあまり書かない。

これは新聞というものは、そういうもので仕方がないのだから、読むほうでそういう読み方を、しなければならない。

新聞は次々に新しいトピックを追っていく。それは新聞が追って行くのであって事実が移動するわけではない。ところが国内の人々は一切を新聞によって知るほかはないので新聞を読み新聞の方法に引きずられて一つ錯覚に陥り、現実を落としてしまうということであるのではあるまいか。私は新聞を広げても大見出しの記事よりも一段位の小さい記事で而も「敵を一挙に駆逐し」とか「猛追撃を敢行し」とか「これを蹴散らし」とかいうような、簡単極まる新聞用語の中に、どれだけか多くの兵隊の苦労がにじんでいることをひしひしと感じる。これは私が兵隊となってはじめて身をもって体得した新聞の読み方である。私達の部隊が言語に絶する苦難をした掃討戦のことが、新聞にたった五六行で済まされたことが何度もある。大した苦労でもなかったのに、一つの要地の攻略であったために四段抜きで書かれたこともある。これは何も新聞が悪いのではない、ただ兵隊の苦労について考えられる銃後の人々が、新聞を拡げた時に、活字紙に眩惑されないで頂きたいというのである。

 広東は、銃後で考えられている通りの警備状態である。然し、銃後で考えられているように楽でもなんでもない。現在でも、広東の四周には敵がウヨウヨしている。それは五六人づつや、二三十人位の敗残兵や土匪がウヨウヨしているのではない。何千何万という正規軍隊が蟠踞し、堅固な陣地を構築して、常に広東奪回を、企図しているのである。従って第一線警備の陣地には、毎日の如く襲撃があり、敵は地の利によって夜襲などをやって来る。追えば、蝿の如く去ってしまう。又やって来る。便衣隊や遊撃隊によって、折角の建設宣撫の仕事が、阻害されること甚だしい。こういう状態なので、度々、討伐や反撃戦が繰り返される。山岳地帯で言語に絶する苦難の掃討戦が、常に行なわれている。軍では広東保衛のために、毎日犠牲を出しているといっても、過言でない。

 バイアス湾上陸以来広東攻略入城までの華々しい戦闘による戦死傷者よりも、広東警備に服してからの兵の犠牲苦が何倍にもなっているのである。敵軍の損害は無論お話にならないほどで、度々凄まじい殲滅戦が行なわれたが、その度にわが軍も無疵では済まないのである。

敵の広東奪還などは笑い話になって、敵が誇称大號するゲリラ戦法など敵の宣伝程ではないが、といって広東警備も決して安易鼻歌交じりでは出来ないのである。そういう真の苦労が銃後には余り知られていないようだ。今度帰ってきた私がそのことを言うと「ほ、そんなものですかね」と驚く人のほうが多い。私は広東に今までいたので広東のことを言ったが、それは中支でも北支でも皆同じ状態である。兵隊はそんなことにへこたれず、弱音も吐かないが、だからといって銃後の人がそれを知ってくれないということは淋しいことである。

 最近戦地に来る郵便物や慰問袋が著しく減少している。故国からの便りの少なくなったことほど兵隊にとって淋しいことはない。

戦地では、兵隊はそんなに楽しみのあるものではない。物資の不自由な警備地区では、何よりも欲しいものは、故国からの便りである。その便りが最近は酷い減り方である。慰問袋なども、最近我々は殆ど貰わないといってもよい。兵隊は、何も慰問袋が欲しいことはない。その慰問袋とともに来る、故国の人々の真心が欲しいのである。手紙に乗ってくる、愛情を欲しいのである。「別に変わったこともないからご無沙汰している」と、いうような手紙がくる。それは変わったことが、その手紙をくれた人の心の中に起こったのだ、と私は解釈する。

変わったことがあっては困る。変わったことばかり知らせて来られては兵隊はやりきれないのである。その変わったことのない詰まらない日常のことを書いてきてくれる便りが、兵隊は欲しいのである。

 私は除隊になったが、弟がまだ中支の戦線に残っている、私の家には家族は相当に多い。私は之から弟に手紙を書く日程表を作り、家族は一人づつ毎日手紙を書くということにしようと計画している。弟がどんなに喜ぶだろう。戦地で故郷の便りを待つ兵隊の心は、兵隊でなければ本当には判らない。私達はどんどん戦地に便りを送ってやりたいと思う。それはどんなに多くても多すぎることはない。私は意地悪かも知れないが、帰ってから直ぐに数箇所の郵便局で軍事郵便の統計を調べて見た。私は次第に月々下降しているその数字に何と腹立たしくさえなったのである。慰問袋の数字も坂の如く減っている。私達兵隊は祖国のために生命を惜しまず戦う。それは慰問袋がすくなかったところで、便りが来なかったところで、変わるところはないが、故国の人々が戦地の兵隊のことを常に思ってくれているということが何より嬉しく兵隊を一層勇気付けるのである。戦地にある兵隊が、若しや銃後の人々が我々兵隊のことを忘れてしまったのではないだろうか、と考えるほど淋しくも悲しいことがあるであろうか。このようなことは矢張り真に戦地の実情が理解されていないということ、詰まり警備だから大したことはあるまいというような全然反対な考え方にも一因があると思う。

いって居れば、色々あると思うが、現地から帰ったばかりの一人の兵隊の直接的な感想としてこのことを述べたのである。

 大きな問題として私が帰還したらどうしても銃後の人達に聞いて戴きたいと思うことに、戦後の建設と大陸進出の問題がある。これは兵隊として前述の感想とも根本において繫がっている。また私はかって「戦友に愬ふ」というような一文を書いて、兵隊自身の在り方についての謙虚な気持ちを述べたことがあるが、このことは私が兵隊であったために兵隊内部の声として、兵隊の精神を立派であらせたい念願からの(また私自身の自戒の言葉としての)感想であったが、このことは銃後の人々の在り方についての心構えと並行しなければ、決して日本を支え、日本を美しくして行くことは出来ないという意味で、いま銃後人となった私も入って、銃後がもう少し戦地と緊密に結びつかねばならぬということについても一つの感想がある。これ等は別々の問題のようで、皆一つの問題である。これ等のことは宿題であって、私にもまだ分からない。また私の微力は何の資格もない。ただ戦地での直截な兵隊の感想としていつか述べたいと思う。いまは帰還直後のこととて私はこれからの銃後人としての生活の覚悟について先ず考えて行きたい。

真に、兵隊の帰還直後の感想としては、前述したように、よくも生きて帰った、という一言に尽きる。先ず確固たる生還の感情の上に立って、徐に、私は考え、歩んでいきたい。生きて帰ってみて、苦労の・・・・・。

 

参考文献:「戦友に愬ふ」火野 葦平

2019/06/12に公開


-兵卒火野 葦平の戦場からの切なる訴え-(GHQ焚書図書開封 第197回)

2022-12-24 13:46:35 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第197回

-兵卒火野 葦平の戦場からの切なる訴え-

 私はこの頃考えだすと夜も眠れないことがある。私ごときがいくら考えても仕方がないと思いながら、そのことが気になって、私は時々何も手につかなくなったり、いろいろ考えながら眠らずにしまう夜もある。私はそのことを私自身の胸の中だけにどうしても置いておけなくなった。私は生意気といわれてもよい。僭越とたしなめられてもよい。戦場で長い間生死をともにしてきた戦友諸士に対して、私は衷心より訴えたいことがあるのである。

 私が光輝ある動員を受けて戦場に来てから、既に二年になる。二年という月日は決して短くはない。私の多くの戦友は倒れ、不思議に私は今日まで生きながらえてきた。我々の祖国が決行した光輝ある大使命のために、我々は心おきなく戦った。これからも戦うつもりである。故国を出発する時に、既に生還を期しなかったように、現在でも私は生還を期していない。もとより私は生きて帰りたい。私には年老いた両親と、多くの弟妹と、妻と四人の子供とがある。何で私が好んで生命を棄てたいことがあろうか。しかしながら、私は祖国のためにそれらの悉くを棄てた。

それは無論私だけではない。ほとんどの兵隊が同じである。我々兵隊が最愛なるそれらのものを一応忘却したるごとくに、戦場を馳駆したことによって、祖国の輝かしい偉業が着々として進捗した。その兵隊の精神によって、我々は祖国を裏切り、失望させることがなかった。4:16

 国運を賭して行なわれた聖戦の前途は大東亜建設の大目的のために、宛も百年戦争といわれるほど前途多端であり、遼遠であるけれども、既に厖大なる支那大陸の重要なる拠点はことごとく皇軍の手に帰し、既に軍事的なる勝利は決定的である。これは祖国の喜びであると共に、我々兵隊にとって限りなき喜びである。

この時に、私が最も心にかかるということは、我々兵隊が戦場を去って、再び故国の土を踏み、軍服を脱ぎ、銃をおいて、社会人にかえることについてである。5:14

我々の聖戦は終わらず、我々は戦勝者として故国に凱旋するということではないけれども、最近、長期戦の精神に立脚して、戦力保持のために兵員の交替が行なわれるようになった。我々と共に召集を受けて戦場に来た兵隊の中、既にその一部は内地に帰還した。この後も、逐次そのことは行なわれるといわれる。私は生還を期しないけれども、幸いにして一命を全うして故国の土を踏める時がくるかも知れぬ。その時は無論私と共に多くの兵隊が帰還するであろう。そのことについて、私は考えていると、はらはらして、じっとして居れない気持ちになることがあるのである。

私は今すべてを率直に言いたいと思う。7:00

我々は招集を受けた当時には戦場というものを全く知らなかった。戦争とはどのようなものか、全く判らなかった。我々はただ愛する国のために命を棄て、戦いに勝たねばならぬということがわかっていただけだ。我々はいきなり凄絶な戦場の中になげこまれた。そこには我々が全く想像もしなかった言語に絶する苦難の道があった。我々は日夜弾丸を浴び、濘泥と山岳と黄塵の中をのたうち、食もなく、水もなく、家もなき生活の中に生きてきた。それらの戦場の生活を今ここで何で繰り返す必要があろう。それは兵隊自身が身を以って味わい、兵隊以外のいかなる人々にも決して理解することの出来ないものである。8:30

それらの譬えようなき苦難の中に、兵隊は日と共に鍛錬され、最初は兵隊の上を掩い兵隊を押しつぶしそうにみえた苦難を遂に克服し、最後には兵隊がその苦難の上を乗り越えた。兵隊は日に焦げ、筋骨はふくれ、見違えるばかりに逞しくなった。その立派さは驚くばかりである。つまりいかなる苦難にも堪え得る人間に成長したのである。

銃後の国民にもこのことはよく理解された。従来戦場の現実は平和な日常生活の中においては容易に理解することが出来ず、新聞報道や、簡単なる戦況ニュース、電報等によって、戦いはいかにも易々として行なわれている如き印象を残した。ニュース写真や映画すらも真に戦場の現実を国民に伝えることは出来なかった。それは、満州事変の当時、瞬く間に敵拠点を占領していく皇軍の迅速さに驚きはしたけれども、我々すら、いかにもその占領が容易に楽々と行なわれた如き印象を受けたのである。それは我々が自身で兵隊となって戦場に臨むに及んで、大なる誤りであったことを悟り、その兵隊の苦難の大いさに驚いたのである。11:30

盧溝橋事件から上海事変に至り、戦火が、南京、徐州、漢口と拡大し、広東、海南島、汕頭等に及ぶにいたる長い間の戦争と、国内事情の緊迫に伴い、国内にも戦争の大いさと戦場の苦難の現実が漸く反映し、銃後においては次第に戦地にある兵隊に対する感謝の念が高められてきた。これは当然のことながら、我々兵隊にとって喜ばしきことである。我々の苦労と犠牲とが無駄に終わらないということは一層我々を勇気づけるのである。ところが、問題はここにあるのである。我々と祖国の関係が、戦地と内地とに止まっている間は、この関係がいつまでも持続され、何等の問題も生じないであろう。然しながら、前記した如く、最近に至って内地帰還をした多くの兵隊があり、我々もまた何時の日にか、再び故国の土を踏むことを予想しうる状態が生ずるにいたり、同時に、私は最も懸念するひとつのことから感想を抜くことができなくなったのである。

私は兵隊が逞しくなり、見違えるばかり立派になったことを言った。それは全く驚くばかりの高さをもってそのようになった。然しながらまた兵隊は一面において、戦争からあまり喜ばしくない影響を受けているのである。生死を賭けるという土壇場などは、殆ど迎えることのない平和な内地の生活から、いきなり、毎日が生死の巷である凄惨な戦場の中に投げこまれて、弱い人間がどうして平時の神経と気持ちを持していることが出来よう。極端に言えば、我々兵隊は言語に絶する衝動を受けて、神経に異常を来たし、頭の調子が狂ってしまっていると称しても差し支えないのである。

そのような精神の打撃の下に、なお、我々兵隊は人間としての逞しい成長を遂げた。我々が内地の生活の中で苦しかったとか耐えられなかったとかいってきたどのような苦労も、戦場の苦難に比して、苦労の名に値しないということを知ったのである。兵隊がこのことを理解し、いかなる苦難をも乗り越え得る確信を得たことは人間としての最大の収穫である。 ところが、この収穫の影の如く、戦争の清冽な面貌に負けまいとする兵隊の反発が、一方においてはある粗暴の半面を現した。それは戦場ではまた必要でもあったのである。

17:20

然しながら、我々が戦場での使命を終わって、故国に帰るときには、我々の得たよいものばかりを持って帰らなければならないのである。私はよく考える。今戦地にある兵隊が一斉に内地に帰還したら、いったい国内はどうなるであろうか。社会的に、文化的に、いかなる変化が起こるであろうか、と。それはある希望であると共に、私には一種の胸の痛くなるような深憂ですらある。私はもとより一兵隊であり、一兵隊として戦場の兵隊と伍し、兵隊と暮らし、兵隊の気持ちを良く理解してきた。それ故に、私は限りなく兵隊を愛すると共に、また限りなく兵隊について杞憂する。それは全部の兵隊がそうなのではない。然し、戦場にあっては、兵隊の名を恥ずかしむる兵隊が若干はあるのである。

兵隊は平和の時代に一市井人であった者が、祖国の必要の前に軍隊に入った。市井にはさまざまの性格を持った人間が満ちている。それらの人間が集まって作られた軍隊が、直ちに人格的で模範的である筈がない。

美しい軍隊である筈がない。それらのさまざまの人間が集まって作られた集団が、祖国の大いさに目覚め、祖国の使命を理解し、軍規の下に整然と規律づけられ、戦場にあって弾丸の中に鍛錬されて、初めて立派なる美しい軍隊となったのである。このことは決して光輝ある日本の軍隊を誹謗することにはならない。寧ろ、それ故にこそ日本の軍隊が限りなく美しく、他国の軍隊に超絶しているのである。

戦場は祖国に課せられた大いなる試練であるとともに、一個人としての兵隊に与えられた絶好の鍛錬の道場である。今、長期の戦場の生活によって、あらゆる種類の人間が一様に逞しく立派になり、精神の昂揚に導かれた。我々はその精神を祖国への土産とし、それを有意義に生かし、ああ、兵隊が帰って来たばかりに、こんなにも国内が活気づき、日本が更に進展するの機運がひらけた、ありがたいことだ、と、いわれなければいけないのである。

私は、今、このことを語るのは、兵隊として實に苦痛に絶えず、涙の出る思いなのである。戦地にある時にも私はしばしば兵隊に注意したことがある。粗野で、乱暴であり、傲岸であることはいかなる場合でも宜しいことではない。兵隊には常に一つの共通な気持ちがある。それは、兵隊は生命を賭している、という自覚である。人間として最も尊いもの、大切なもの、平和の時にはあらゆる手段を講じて護り育ててきたもの、何ものよりも惜しいものをなげだしている。それは良い。しかしながら、生命を賭けているのだから、少々のことはしてもよいという気持ちがいけないのである。21:44

我々は祖国のために生命を投げ出している。それは国民として当然なさなければならないことをしているのであって、我々はそれによって、国に恩を着せるべきでは毛頭ないのである。またその気持ちをもって、誰にも強要し吹聴すべきではないのである。然しながら、このことは非常に難しいことだと思われる。それは私自身たびたび経験したことだからである。一時間、否、五分、一分先には我々はもはやこの世にいないかもしれない。そのような我々であってみれば、何もこの位のことはしても咎められることはないのではないか。その気持ちは我々から抜けない。私自身もその気持ちの起こるたびに驚き、これを抑えた。兵隊が皆その気持ちを抱いていたことは私には良くわかる。それは、然し、最も危険なことだと思われる。戦場にある間は幾分は良いかもしれない。然しながら、いくらか治安が回復し、我々が平和の生活に近づいたときに、そのことは最も危険至極と思われる。

我々の軍隊はたぐいもなく勇ましく強かった。然しながら。我々は今、非常に古風で卑俗な言葉であるけれども、強いばかりが武士ではない、という言葉について反省する必要がある。我々の軍隊が美しい軍隊であるということは、戦闘に強く、弾丸を恐れず、泥濘と山岳とをものともしないということをいうのではない。

また我々が一人で敵兵の十人を相手とし得るというのでない。そのような兵隊でありながら、常に人間として完成するための反省を忘れず、常に謙虚であるということを指していうのである。我々は今弾丸の中にある。戦場にある。何を考え、何を反省しても、死んでしまえばそれきりだ、と、我々はともすれば考え勝ちである。それはいけない。たとへ、一時間先に死のうとも、その一時間の間を、兵隊として、人間として、立派に生きる、ということが必要である。

その兵隊の精神によってのみ、我々の軍隊がたぐいもなく美しく軍隊となり、輝ける軍隊となることが出来るのだ。23:20

われわれ兵隊は今事変の真の意義を誰よりもよく理解していなければならない。そうすれば我々が銃をとって敵国の軍隊を徹底的に撃砕することは当然であっても、支那の民衆は全く我々の敵ではない、ということが、ただちにわかる筈である。私は鹿爪らしい顔をして、無辜の支那民衆を愛護せよ、などと云っているのではない。私は兵隊としての心の美しさについて語っているのである。私が何故このようなことを云わなければならないか。率直に言えば少しく戦火の収まった占領地域内において、残留している支那民衆に対して、幾分の不遜と思える態度を以って臨む兵隊を時々見るからである。飽くまでも戦勝者とし、征服者として、支那の民衆に対すべきでない。支那人に対してどんなに威張ってみたところで、兵隊の価値がちっとも上がるわけのものでもなく、その兵隊がえらく見えるものでもない。では、どのようなことが占領地内で見られるか。そんなことをいちいち例をあげることはない。24:50

我々兵隊の一人ひとりが、興亜の聖戦を身を以って完成する覚悟が必要である。それでこそ我々が筆舌に尽くし難い辛苦を、弾丸と泥濘と山岳の中で過ごしてきた甲斐があるというものだ。我々は今全く個人ではない。我々一人ひとりが、日本であり、歴史である、ということを自覚しよう。そして、そのことによって強く自負しよう。たとえば、外出日に少し酒を飲んで一寸支那人に乱暴をしたとする。すると、それは誰それがいけにということにはならない。酒の上だ、ではすまされない。日本の兵隊は乱暴だ、ということになる。たった一人の兵隊のやったことで、日本の軍隊がとやかく言われる。これを反対に、一人の兵隊が、支那の子供を可愛がり、何日も食べない子供に饅頭をかってやったとする。すると、日本の兵隊は親切だ、ということになる。我々兵隊の一人ひとりが、もはや単なる個人でなく、日本である、ということを常に忘れてはならない。我々は自分では何でもないと思う小さな行動によって、日本の名をよくもしたり、悪くもしたりするのだ。そのことを深く自覚してゆくことは、戦場で鍛錬された我々兵隊の精神に一層磨きをかけるだろう。29:30

私はもう少し云いたくないことを続ける。

占領地域内にはしばらくすると、支那人のさまざまの商売が始められると同時に、はるばる内地からやってきた人々が、兵隊のために店を開く。その中には戦争のどさくさに紛れこんで一儲けしようという不愉快なのも随分あるが、中には、戦地の兵隊を慰めるためにわざわざやって来る真面目な人も沢山ある。殺風景な戦地に、ぜんざい屋や、しるこ屋やうどん屋ができることは、我々にもなかなか嬉しいものである。そういう人達から内地の様子を聞くことも、長らく故国を離れている我々にはまた楽しい。そこで、そのような日本から来た人々の店には、日本の兵隊が殺到してたいへん賑わう。それはまことに和やかな風景である。ところが、この美しい団欒を時々無分別な兵隊が打ち壊す。内地から来た人々は何もいわない。私が訊ねると、はじめて、遠慮深げに、云ってはならぬことをいうように、兵隊さんには時々困ります。という。そのような我々兵隊の名を汚すような兵隊は、傲然たる態度で、俺たちはお前たちのために命をすてて戦ってやったのではないか、ぐづぐづ云うな、という。国から来た人はそれに対して何も言うことができない。兵隊がおさめて兵隊が連れ去らなければ、その場はおさまらない。これらのことが若干のよろしくない兵隊のために戦地で見られる。

私は、既に数ヶ月前に私の郷土に帰還した部隊の兵隊について、最も親しい友人から悲しむべき便りを受けている。それは具体的に例を示すまでもない。昔から、戦争から帰ったものは気が荒くなると一口に言われている。私には内地で既にどのような事件があったか判るような気がする。国内の人々は兵隊の苦労に対して心から感謝している。

だから、少し位のことには何にも云わないであろう。心の中ではその反対の気持ちを抱きながらでも、口に出しては、また、表に現しては、何も示さないであろう。だからといって、それは少々のことはしてよいということではない。34:40

戦場における兵隊の苦労に感謝する国民の気持ちをよいことにすることはいけない。兵隊がそのような気持ちを抱き、そのようなことを云ったとするならば、兵隊がいくら戦場に於いて死命を賭して弾丸の中を潜り、いくら勇敢であったとて、一切の功績が消滅してしまうのである。現在の国民の気持ちは、言うならば、一種の興奮であるかもしれない。殊に、熱し易い日本人の常として、必要以上に昂揚され緊張した空気は、必ず訂正され、冷却される時が来る。帰還の当時は非常に歓待を受け、ちやほやされるであろうが、決してよい気になってはいけない。すべてに兵隊は謙虚でありたい。人間は得意の時に最も注意すべきである。逆境にあるときには人間はなかなかへたばらず、そこを乗り切って前進するために極力努力をする。ところが、ひとたびそこを抜けて明るみに出た時には、ほっとしたように気が緩むものだ。まして、何かのために非常に成功をし、人からもてはやされ、下にもおかぬようにされる時には、人間は得てしていい気になり勝ちなものだ。我々兵隊が内地に帰還した当初は、あたかもそのような場合と等しいことであろう。その時にこそ、我々がもっとも警戒しなければならぬ時である。人間は得意の絶頂にあるときに、知らず知らずのうちに墓穴を掘るものだ。然しながら、それでは、ここで、えらい人達のように、たとえば言動をつつしめ、とか、大言壮語するな、とか、謙虚であれ、とか、そのような細目を一一列挙する必要はない。そのような一切のことは、ただ一つの心構えによって、ことごとく避けることが出来るからだ。39:00

我々は一つの自負を持って生きよう。しかもその自負に謙虚の衣をかぶせて、我々が日本の中心の力となることを心がけたい。我々は兵隊となり、人間としての最大の成長を遂げた。その一個の自己の成長が直ちに国家の成長となるようでなければならない。日本を生かすことでなければならない。戦場に於いて体得した素晴らしい精神力をもって、我々の新しい日本の貴重なる糧としなければならない。我々一人ひとりの兵隊が、既にもはや単なる一個人に止まるものではなく、自分一個が直ちに日本であり、歴史である、ということの根本的な意義がそこにある。我々の心構えひとつによって、日本がよくもなれば悪くもなる。歴史が美しくもなれば、穢れもする。

今度の戦争は確かに日本にとっては有史以来の大事変であった。それは確かに又、有史以来の苦痛でもあったであろう。然しながら、又、日本にとって有史以来の幸福であったともいえるのである。それは単に逆説でもなければ、思惟の遊戯でもない。それは、實に我々兵隊の決心がひとつによって、一つの幸福への方向として具現し得るものである。日本のこれからの動きが、かかって我等の肩の上にあるというも過言ではない。そのような信念と自負とをもって、我々が故国へ帰るということは、たのしいではないか。43:00

支那には色々珍しいものがある。翡翠や硯石や瑪瑙などもある。刺繍や軸物や絵画の類もある。それらのものも帰還に際してはよいお土産かもしれない。然しながら、故国の人々にとって真にありがたいお土産は、ただちには眼に見えないもの、たくましくなった兵隊の精神力であろう。帰ったら自分達の力で日本をよくしよう、という決心であろう。これこそ世にも類なき立派なる故国へのお土産の第一である。

日本がかって支那を知ることの少なかったことが今事変勃発の一原因であったといわれる。今我々何百万の兵隊が生命を挺して支那を知った。これはまた大いなる文化的収穫である。我々はそのことを生かさなければ何にもならない。 

戦場でのみ我々兵隊の任務は終わったのではない。戦争は平和の延長である。一見すさまじき破壊の面貌を呈するけれども、それは建設のための破壊である。平和な時代に我々が静かに過ごした内地の暮らしが、我々の日常生活であったように、戦地に於ける生活もまた我々の日常生活の延長である。我々はその生活の中で得た貴い体験と生命力の強靭さを、新しい生活の出発の中にいかさなくてはなんにもならない。いわば、また、戦地で鍛えられて来た我々は、兄貴でもある。兄貴が兄貴らしくなくては、弟たちを導いてゆくことは出来ない。我々の責任の大いさを思うべきである。47:00

日本はこれまでにも何度も大きな戦争をして来た。日清、日露の大戦を初め、青島攻略や、満州事変、上海事変、等と、一切ならず戦争の体験を経て来ている。然しながら、その規模の大いさに於いて、今回の事変に勝るものはない。随って、我々の覚悟に於いても、決してお座なりですませるべきでは絶対にない。

長い間の戦場生活の後に、久しぶりに故国へかえる。多くの戦友が倒れ、支那の土と化したにもかかわらず、我々は不思議にも命ながらえて、再び見ることもあるまいと思った故国の山河を眺め、再び踏むこともあるまいとあきらめていた故国の土を踏むことが出来る。

二度と会うことは出来まいと思っていた懐かしい両親や、妻子にも会うことが出来る。そのことは思っただけでも、胸のどきどきするような嬉しさである。然しながら、そのような嬉しさに有頂天になってはいけないのである。それは、我々の前述した如き覚悟もさることながら、われわれと行を倶にし、共に、弾丸の下を潜り、遂に不運にも我々に先立って大陸の土と化した戦友に対してもすまないのである。ああ、多くの戦友が遂に帰らなくなった。戦友は何のために倒れたか。戦死した我々の友人のことを思えば、我々がひとり内地帰還に有頂天になり、帰ってからでも、不謹慎な気持ちで、どうしていることが出来ようか。戦没した戦友の精神が我々の精神の上に重なっている。その精神が常に我々とともにある。我々は一層の覚悟が必要となる。そして、前述したごとく、ああ、兵隊が帰ってきたために、こんなにも日本が良くなった、町がよくなった、村がよくなった、と、言われなければいけないのである。

私は道徳的に云っているのではない。また思想的に云っているのでもない。そのことは、道徳以上であり、思想以上のものである。49:00

もはや、この上、くどく言う必要はない。否、これまでも少しくくどすぎたかも知れない。然しながら、兵隊である私がこのようなことを、僭越と知りつつ、云わずにはおれなかった気持ちを、我々と長い間生死を倶にして来た兵隊諸士は、よくわかってくれると信ずる。私は何も説教をしたつもりはない。これはまた私の自戒の言葉でもある。戦友諸君よ、我々はいつまでも立派な兵隊であったことに誇りを持ち、戦場で結ばれた親愛の情をもって、日本を生かし、いつまでも人から指をさされない立派な兵隊として生きようではないか。私は、涙が出てきて止まらない。或いは私は言わんでもよいようなことを云ったかも知れない。然し、私はこのようなことが一切、私の老婆心に止まり、戦友諸君から、何をくだらぬことを云っているのか、そんなこと位ちゃんと心構えとして抱いている、詰まらぬ心配をする男だ、と、一笑に附されることが望ましい。そうすれば、私は、いくら、生意気な奴だ、とか、馬鹿な奴だ、とか、言われても、私は嬉しいのである。

 

参考文献:「戦友に愬ふ」火野 葦平

2019/05/29に公開


-司馬遼太郎の小ざかしい人間解放-(GHQ焚書図書開封第196回)

2022-12-22 16:42:07 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第196回

-司馬遼太郎の小ざかしい人間解放-

横井庄一氏帰還にみる1972年(昭和47年1月24日)の新鮮な驚き

わかったような知的な言葉で乃木将軍をからかった司馬遼太郎の「殉死」における表現

西南戦争で軍旗を奪われ、天皇に対する忠誠を失ったと思いつめ自決しようとした乃木将軍を庇護意識を誘う人と悪評した司馬の解釈。

乃木将軍妻返しの巻

国家の行く末に対する不安を持っていた人々

司馬遼太郎は日清・日露までの歴史とそれ以降の歴史を分け、日清・日露までは正しかった、それ以降は間違っていたと説明が便利な歴史観を作り上げている。これは、リヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカー前ドイツ大統領のナチスが支配した期間はドイツでなかったと言い切り、前史を無視する歴史観と同じである。

歴史は連続性のものであり、ある時期から突然変わっという非連続性のものでない。非連続性を認めることは、自分たちのプライドと自己反省を同時に満足させるものであるが、悪いことも良いことも全て自分たちの歴史であるという基本をないがしろにするものである。

2019/5/15に公開


ー乃木将軍夫妻の自決~司馬遼太郎『殉死』を批判する-(GHQ焚書図書開封第195回)

2022-12-19 19:11:47 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第195回

ー乃木将軍夫妻の自決~司馬遼太郎『殉死』を批判する-

明治天皇ご大葬の日の乃木家の場面

劇作家眞山靑果の「乃木将軍」に比べて、司馬遼太郎の「殉死」では小説家らしく、想像力を働かせ具体的な場面描写に力点を置いて書かれている。更に、司馬遼太郎の独自解釈で、乃木将軍を自己演出の好きな人物、傲慢な人物として表現している。

参考文献:「乃木将軍」眞山靑果

2019/04/24に公開


ー乃木将軍夫妻の自決~眞山靑果より-(GHQ焚書図書開封第194回)

2022-12-19 14:46:32 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第194回

ー乃木将軍夫妻の自決~眞山靑果より-

無方法

小使が、学習院長乃木大将の居室や寝室へ、用をたしに入っていくと、大将は、

「私のことは私がする。呼ばなければ、来なくともよろしい。」

すべて自分の手で始末してしまう乃木大将だった。ある日、大将が小使室へツカツカと入ってこられると、小使が云った。

「何か御用でございますか。」

「ああ、茶が飲みたくてな。」

「お茶でございますか、それならお呼びくだされば、持ってまいります。院長閣下が小使室などへ、お出向きなるものでございません。」

日頃のシッペイ返しのつもりで、思い切って云うと。

「ウン、そうか、参った。私の室へ茶を一つ持ってきてくれ。」

ニコニコしながら、あわてて帰っていかれた。今まで頑固一方の院長閣下だとばかり思っていた小使は、全く心から服してしまった。

人を心服させるのに、方法はない。

 

第三幕 最期の日

その一 乃木邸、将軍居間

その二 同じく階下一室

 ・

 ・

その四 邸内階下の一室

 

参考文献:「日本的人間」山中峯太郎、「乃木将軍」眞山靑果

2019/04/10に公開


-乃木将軍と旅順攻略戦~司馬遼太郎を批判する2-(GHQ焚書図書開封第193回)

2022-12-19 04:21:48 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第193回

-乃木将軍と旅順攻略戦~司馬遼太郎を批判する2-

日露戦争は0次世界大戦ということができる。

203高地の戦いについて、児玉源太郎を高く評価し、乃木希典将軍を無能とまで貶めた司馬遼太郎に対し、批判した福田恒存

 「近頃、小説の形を借りた歴史讃物が流行し、それが俗受けしている様だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善悪黒白を一方的に断定しているものが多い。が、これほど危険な事は無い。歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。

 吾々は二つの道を同時に辿る事は出来ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見遙かし、ああすれば良かった、かうすれば良かったと論じる位、愚かな事は無い。殊に戦史ともなれば、人々はとかくさういう誘惑に駆られる。事実、何人かの人間には容易な勝利の道が見えていたかも知れぬ。

 が、それも結果の目から見ての事である。日本海大海戦におけるT字戦法も失敗すれば東郷元帥、秋山参謀愚将論になるであらう。が、当事者はすべて博打をうっていたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であった。それを現在の「見える目」で裁いてはならぬ。歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を先ず持たねばならない。

 そればかりではない、なるほど歴史には因果開係がある。が、人間がその因果の全貌を捉へる事は遂に出来ない。歴史に附合へば附合ふほど、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは点の連続であり、その間を結び付ける線を設定する事が不可能になる。しかも、点と点とは互いに孤立し矛盾して相容れぬものとなるであらう。が、歴史家はこの殆ど無意味な点の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重味が吾々に感じられるであらう。」

参考文献:「乃木将軍」眞山靑果、「歴史小説の罠」福井雄三、「殉死」司馬遼太郎、「軍神」福岡徹、「乃木将軍と旅順攻略戦」福田恒存

2019/3/27に公開


-乃木将軍と旅順攻略戦~司馬遼太郎を批判する1-(GHQ焚書図書開封第192回)

2022-12-05 10:32:40 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第192回

-乃木将軍と旅順攻略戦~司馬遼太郎を批判する1-

司馬遼太郎は乃木将軍に対して偏見をもっており、戦後になって、「坂の上の雲」「殉死」などで乃木将軍の人物像を悪く書いている。

これに対し、福井雄三氏は、ベルダンの戦い、クリミア戦争を引き合いに出し、要塞攻撃が攻める側にとって、多くの犠牲を伴うのは当時の戦術では通例であったと、また例え、乃木将軍以外の誰がやっても同じだと、擁護している。

同様に、今村均大将も、「殉死」を読んだ感想文の中で、乃木将軍の行動について、司馬遼太郎の言うような人物像でないと否定し、』擁護している。

参考文献:「乃木将軍」眞山靑果、「歴史小説の罠」福井雄三

2019/3/13に公開


-全集第12回刊行記念西尾幹二講演会2-(GHQ焚書図書開封第191回)

2022-12-04 04:11:04 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第191回

-全集第12回刊行記念西尾幹二講演会2-

ー昭和のダイナミズム 歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのかー

他者に負けなければ、生きていけなかった日本

日本と、中国、韓国の外交姿勢の違い

中国、韓国人は、人の話を聞かないで、自分が如何に正しいかを一方的にまくしたてる人が多い、従って勝負どころは、いかに相手を圧倒するかにある。

昭和は、江戸時代の継承であり、江戸時代に花開いた文化は昭和に花開いた。

国体論は日本人論と皇室を述べたものである。文部省の「国体の本義」は、国民は天壌無窮の皇統を仰ぎ奉りひたすら忠義忠誠の心を唱えなさいというものであった。神功皇后、明治天皇、建武の中興、醍醐天皇時代の内容が多く、鎌倉時代を否定し、江戸時代を少なくするという皇室偏重の歴史であった。この当時、大川周明は「2600年史」に鎌倉幕府成立に革新の意図を認められると記載したことから、東京刑事地方裁判所に起訴されたことがある。文部省の「国体の本義」よりも山田孝雄の「国体の本義」のほうがバランスがとれている。

戦前生まれで、戦後保守思想家であった人の中で、小林秀雄は「利口な奴は戦争をたんと反省すればいいよ、俺は反省なんかしないよ」と発言しており、また福田恒存も「戦争責任はあるかも知れないが、そんなものは成り立たない」との中途半端な発言しかしておらず、更に一歩踏み込んで、日本の立場からアメリカにもそれ相応の責任があるとまでは言わなかった。親米に傾いていたためか、日本の置かれていた立場を主張すると言う点で何かが欠けていると思わざるを得ない。

竹山道雄、小林秀雄、福田恒存は、当時のお前たち日本人は劣悪な民族と言われる風潮の中で、アメリカ人記者の南京虐殺など旧日本軍が行ったとされる蛮行についての質問に対して、弁解こそしたが、公的にも私的にも反論できなかった。それは、戦中軍部に協力していた大川周明、平泉澄(きよし)、徳富蘇峰、仲小路彰、山田孝雄に対して反感をもっていたからだ。

戦争に負けたから、協力者は全て悪であるとレッテルづけするなら、それは戦勝国の論理でしかない。

戦争には負けたけれど、あの時代の日本には数多くの選択の道があったはずであり、開戦に追い込まれた協力者の中で、誰が唱えていたことが、たとえ負けたとしても貴重な思想であり、選択であったかを問うべきで、負けたか、勝ったかの根拠だけを問題とするならば、それは戦争、政治の論理である。

負けても勝っても立派だったことは何か、あの時代の日本を襲った必然性の基準によって評価することが求められるべきである。

阿南惟幾(あなみ これちか)、下村定(しもむら さだむ)は、平泉澄の愛弟子であった

参考文献:「我が歴史観」平泉澄、「政治と文学」小林秀雄、「文学と戦争責任」福田恒存、「文学者の戦争責任」吉本隆明

2019/2/20に公開