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-水戸學中興の祖 藤田幽谷の位置とその意義-(GHQ焚書図書開封 第146回)

2021-05-07 23:20:10 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第146回

-水戸學中興の祖 藤田幽谷の位置とその意義-

水戸學は難解で、歴史的知識を必要とし、思想の世界でもある。

前期水戸学では、①神功皇后の扱いについて、本記から列伝に移した。②大友皇子を天皇(後に弘文天皇)の地位に戻した。③三種の神器を所有している南朝を正統とした。

 藤田幽谷は17歳の時に水戸藩の彰考館で学び始めたが、やがて総裁立原翠軒と国体感覚の違いから対立するようになった。尊皇攘夷論の義公(水戸光圀)の流れを受け継ぐ幽谷と幕府の官僚学者として振る舞う翠軒の争いである。

 立原翠軒は徳川幕府の大勢順応主義者であり、藤田幽谷は、「皇室は国民の総本家」「幕府は藩の宗」「幕府と水戸家の関係は私事」と考える人であり、大義の前には私情はなにものでもないとの思想をもっていた。

やがて、この争いは、水戸藩の分裂を招き、佐幕派(立原派)と勤皇党(藤田派)を生み出してくるのである。

 当時の儒者には、支那と日本の国体を区別する能力がなかった。文科省の教科書検定基準の影響もあり、現在でも明治維新前は支那を、明治維新後は欧州を下敷きにして歴史を書くという姿勢は変わっていない。本来、日本史とは日本を中心とした世界史を作り上げ、その中での日本の歴史として取り上げるものである。

新井白石は、将軍を『国王』と称し、荻生徂徠の高弟たる太宰春台は、「日本には道と言う道はなく孔子の教えが渡来して初めて五常の道ができた」と論じて、固有の皇道を否定し、幕府を王朝と称して憚らなかった。

義光は俗儒曲学を打破するとともに、神道古学の偏見をも匡正し、神儒佛老にとらわれず、堂々と國體の本義を説いたのである。

 後に、幽谷は、蒲生君平、高山彦九郎、柴野栗山、太田錦城と交わり、水戸學を天下に発展せしめた。

 幽谷の後継者は三俊才の息子藤田東湖、愛弟子相澤正志、豊田天功である。

 本来、思想家は「外交」「国防」「皇室」についての見識がなくてはならない。

 当時、林子平、藤田東湖らは国難を察知し、幕府に国防の充実を訴えたが、今日の日本のように民衆は平和ボケ状態であり、幕府からも相手にされなかった。

 春来一夜斗は杓を廻す

北顧還た憂ふ胡虜の驕るを

筆を投じて自ら憐れむ班定遠

 家を忘れて誰か擬す霍嫖姚

 長蛇應に畏るべし神兵の利

 糧食會えて資す瑞穂の饒

 宇内の至尊は天日嗣

 尊皇攘夷=国防、国体=日本とは何かを考える、という道を開いたのは、後期水戸學であった。

 水戸光圀が始めた水戸學を再び表舞台にひっぱり出し、後継者へと繋いだ藤田幽谷が水戸學中興の祖と言われる所以である。

 明治23年10月、明治天皇が水戸行幸の際、勤皇思想を広めた幽谷の業績を褒めたたえ正四位を贈られた。

 参考文献:「藤田東湖の生涯と思想」大野愼
2017/8/30公開