(GHQ焚書図書開封 第180回)
―孝の呼吸―
和田豊治氏は、右の話を渋沢栄一氏から聴いたが、やはり深く感動して、自分が従来母に仕えている精神が、信州の孝行者と一致したといって、話されるのを聞くと、
同氏の老婆は、当時87歳の高齢であったが、63歳の和田氏を、なお、赤ん坊のように、やれ、風邪にかかるな、やれ炬燵に入れのと注意されるそうだ。
朝飯の時には、老母は氏のために、ゆで卵を細かにして、ご飯の上にかけてやられたそうで、氏はそれを喜んで食べたという。
また、晩酌をやれといわれて、和田氏が僅かづつやられると、頗る老母の機嫌が悪く、そのため、小さな徳利を買ってきて、十分に酒を入れ、老母に酌をしてもらったという。
親は子を愛するものだから、その愛情を満足させることが何よりも肝要である。
孝行の呼吸は実にここにある。和田氏はそれを実行したのである。
ある冬、同氏は自邸へ友達を呼んで、海豚の雑炊をふるまわれた。
そのとき、老母は氏の傍らに来て、
「味はどうだい。」
「大そう結構ですから、お母さんもお上がりなさい。」
和田氏は、自分の茶碗箸諸共老母へ渡された。すると老母は嬉しそうに受取って食べ、また和田氏へ返された。氏はその残りをさっさと食べてしまわれた。
友人達、涙して感激した。
「なんと温かい、麗しいことではないか。」・・・6:29
■阿諛(おべっか)
加州候がある夜、数多の侍臣を伴って庭園を散歩していた。候は突然何を思ったか、歩みをとどめ、暗い空を暫く見上げていたが、
「甲斐守、あそこに一つ星があるが、汝にも見えるのだろうのう。」
と、聞いた。甲斐守は暫くして、
「ハッ、仰せのとおり見えまする。」
「阿波守その方にも見えるか。」
「何処でございます。」
「屋根の上の少し左によって・・・」
「ハッ、いかにも見えまする。」
こうして次々と皆のものに聞くと、皆が見えるというのである。ただ一人土佐守
だけは、どうしても見えない。そして頻りにその所在を尋ねたが、どうもわから
ないと。彼は、
「何処でござります。私には少しも見えませぬ。」
と、云った。すると候は、
「土佐は馬鹿である。」
この『馬鹿』は、正直の意である。もとから星は見えなかったのだ。候はす なわち、従臣の直侫を試みるために、わざと問うてみたのである。
土佐だけは決して諂わぬ候はその馬鹿を信頼した。9:25
■肚の探索
ある時、秀吉の前に、家康その外諸大名が列座していたとき、秀吉が広言した。
「およそ日本中にて、弓矢のことについては、自分に敵するものはない。自分は
一度たりとも軍に失敗したことはないぞ。」
並みいる一同、いづれも、
「誰が御弓矢に敵するものがござりましょう。」
諂っていると、家康殊の外に気色ばんで、
「上様の御意も事によりましょう。武士道の儀は、私を御前に置きながら、さよう
の御意ご無用と存知まする。小牧にての御苦戦もあり、私の前だけには、只今の
御意も、近頃の奇怪と存じまする。」
立ち上がって言い争った。一同ハラハラしたとき、太閤は黙々として立去った。
面々は、家康を詰ったが、家康の言に変わりはなかった。
そこへ秀吉が戻ってきて、何のことなく、常の如くであり、少しも気にかけて
いる風もなかった。
新井白石が言う。
「太閤は何のこともなく右の広言をする道理はない。これは家康の肚を試そうとしたためである。このとき家康が、秀吉の申されるとおりでありますなどと云ったならば、
却って危ないことになったであろう。つまり秀吉の胸中に、この人は武士道
の義に於いては身の禍も何も顧みない人である故、武辺に疵をつけてまでも天下を
取ろうなどと思う人でないと思って、安堵したのであろう。」12:11
■才子
徳川幕府の儒者、古賀精里は、
「自分は所謂才子は大嫌いである。何故ならば、才子は己を恃みて、多くの家を
亡ぼし、わが身を亡ぼす者である・・・・。」
これを聞いた某は、
「これには私も同感です。平素今日の少年才子を見るに、多くは岐路に入って、
初志を貫くものが至って少ない。最も戒むべきは少年才子にして、政に関し、宗教に迷い、享楽に耽ることであります。」
頼山陽もまた、
「予を才子というものは、予を全く識らざる者なり。予をよく刻苦するという者は、
真に予を識る者なり。」
といっている。15:30
■才倒れ
土佐の吉田東洋は名士であるが、東洋を識る諸名士の批評が、才を戒めて
それぞれ趣を備えている。
伊勢の斉藤拙堂は、
「恰も名剣の鞘のないようなもので、果ては自ら傷つくるに相違ない。」
東洋の友人松岡毅軒は、
「東洋は才気溌剌としているが、惜しいことに徳が足らぬ。」
水戸の藤田東湖は、直接東洋に向かって、
「君の才気を以って、英明なる藩主の容堂公をお助けするのは、藩のために目出度いことであるが、君が能く謹慎しなければ、ただ君の不幸ばかりでなく、一藩の盛衰にも関わる。」
また東湖は、土佐の重臣に向かって、
「東洋のような人物が容堂公を補佐するのは、まるで汗馬に鞭をかけるようなもので、甚だ危険千万である。東洋の相貌を能く観察すると、眼中に殺気を含んでいる。惜しいことには近いうちに、不慮の災難にかかるかも知れぬ。」
間もなく東洋は刺客の手に倒れた。20:04
■ 猿
印度の猟師が、猿を生け捕ろうとするには、黐を丸めて林へ行き、猿の前へ投げてやる。
猿は何かと、片手に拾い取る。黐が粘りつくのに驚いて、別の手に取ろうとする。その手に粘りつく。あわてて、右手をかけ、左手をかけ、取ろうとするが取れず、手足もろとも粘りつかれて、遂に生け捕りになるという。
この種の黐が、現代の、殊に都会には、到る所に落ちているように思う。22:15
■倶不足語
松平楽翁が、老中の首座となって幕政を執っていた頃、亀田鵬齋を幕府の
儒者に列しようと思って、これを招いた。
このとき、楽翁は、鵬齋の肩衣と腹の紋章が違っているのを見て、
「先生の服装は、上下の紋章が違っておりますが、一体どうしたのです。」
すると、無頓着な鵬齋は、
「私の着ている服は、皆、古着屋町で調えたものですから、紋章は一つ一つ違っております。
と答えた。これを聞いた謹厳な楽翁は、機嫌を損じ、とうとう彼を採用しなかった。
鵬齋、後に人に語っていった。
「閣老の人物は極めて小さい。ともに語るに足らぬ。」
終生、民間に在って、自適の生活を送った。いづれが是なるか。
■着物
鵬齋の話、もう一つ。
一夜、他家の招待から帰ってきた鵬齋は、素裸であった。妻が尋ねた。
「どうなさいました。」
「溝に落ちたから、着物を脱いで帰った。」
「なぜ着物をさげて帰りませぬ。」
「いや、その着物たるや臭くてたまらぬので、とても持って来られなかった。」
「それでも宅には、お召替がありませぬ。」
「構わぬよ。人間は裸で生まれてきたのであるから、当分裸でいるのじゃ。」
呵々大笑したという。
鵬齋の学問文章は、群を抜いて、当時に傑出していた。松平楽翁が後園を造ったとき、人を遣わしてその記を草することを頼んだが、鵬齋は刎ねつけてしまった。
松平と、鵬齋と、くらべて考えてみることは興が多い。
■大成の資本
西郷隆盛の言葉にある。
「事大小となく、正道を踏み、至誠を推し、一事の詐謀を用ゆべからず。人多く
は、事差支ゆる時に臨み、策略を用いて、一旦その差支を通せば、時宜次第、工夫の出来きるように思へども、策略の煩いきっと生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以ってこれを行なへば、目前には迂遠なるようになれど、先に行けば成功は早きものなり。」
なによりも正直になりたいと思う。
安田善次郎が青年時代、煙草入れを売った25両を資本に、日本橋人形町へ鰹節店を初めて開いたときの誓いの一つは、
「決して嘘を云わぬこと。」
であったという。極めて平凡な正直の大道を誓ったところに、大成の資本が潜在していたのだろう。
『正直の頭に神宿る』古い諺だが、真理は恒に変わらない。
■本心の実
赤穂義士の堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人は、親交の仲だった。
忠烈の臣と見えた郡兵衛は、しかし、事を遂げる前に逃げ出して、行方不明になった。
本懐を達して、大石良雄など十七人が、細川家へ預けられた。そのある日、行方不明の郡兵衛のことを、堀部安兵衛が思い出して噂していると、細川家の堀内伝右衛門が、傍らに聞きながら云った。
「その高田氏と申さるる方は、平生、何事に召し使わされても、良き奉公人よと、誉められていたことでござろう。」
そのとおりなのだ。安兵衛が、
「まことに左様、しかし人は見かけにより申さぬものと、つくづく思い当たってござる。」
嘆いて云うと、伝右衛門が頷いて、
「さよう、器用人にはとかく本心の実がござらぬもの、世渡り上手は、昔も今も
主人や友人に信じられて、さて、いよいよというときには、あてにならぬものでござる。」
最後まであてになる、正直な人間になりたいと思う。『よい天気の友人は、風と共に変わる』という諺もある。36:00
■ 無為正直
参議を志して、郷里土佐から上京した近藤廣平は、商人になるんだと素志を翻して、三菱商会の店員になった。一日、岩崎弥太郎と近藤廣平との初会見が行なわれた。
「君か、近藤というのは。」
弥太郎の目が険しく光って、
「なぜ礼服を着けてこない。」
と、頭ごなしに怒鳴りつけてしまった。
「礼服を着てまいった積りですが・・・・。」
廣平はソッと自分の服装を見回した。
「黙れ、商人の礼服は前垂と角帯だ。」
その廣平が、二ヶ月ほどすぎたある日、社長弥太郎に呼ばれた。
「河内へ行って綿花を仕入れてこい。」
「ハッ」
廣平は綿花が何であるか知らなかった。勿論その取引になると皆目見当なにもつかないのだ。
「明朝早く立って貰いたいが、いいか。」
「ハイ、只今からでもよろしゅうございます。用意はいつでもついております。」
きっぱりと肚を決めたのが、用意であった。
廣平は、河内の問屋へ行き、率直に、
「私は綿花のことも知らぬ素人です。どうか万般に亘って、ご指導を賜りたい。」
辞を低く熱誠を込めて取り入り、赤心を移して他の肺腑に置く、といった態度に
出た。
問屋の主人は、ポンと煙管を叩いて膝を乗り出した。
「ようごわす。承知しました。立派に男一匹、誰にも退けは取りません。私もこれを御縁に、今後のお取引を願いましょう。」
と、快諾した。その結果は、弥太郎も驚くほどの成績を収めて帰京した。
弥太郎は、廣平の報告を聞き取ると、
「うむ、素人離れがしている成績だ。どこでそのコツを覚えたのだ。」
「いいえ、私は何も存じません。みんな問屋の主人に教えて貰ったのです。」
廣平は、逐一自分の行方を話し、その功を問屋の主人に帰した。
「うむ、そこだ。」
弥太郎、はじめてニッコリして、
その正直がなければ、人間は大成せん。小細工は駄目だ。」
と、豪快に云った。弥太郎は、廣平の明智を買わず、その正直を買った
才は剃刀の刃だ。鋭利だがすぐこぼれる。
大事は廣平のそれのように、無為の正直からでなければ、成就するものではない。
■下地
「今の人間は、才があれば事業は心のままに出来るものと思っているが、才にま
かせてすることは、危なくて見ていられないものだ。下地があってこそ、働きが出来て
いくものである。」
西郷隆盛体験の言葉である。
さる石屋が云った。
「同じような庭石が、二つ並べて置いてあるが、右の方のは、地面の下に一寸くらいしか
入っていないが、左の方のはずっと深く二間ほど入っている。それで地面の
上に見えている所は、両方とも同じである。これを知らぬ人に問うてみた。
『どちらの方をとるか』その人じっと睨んでいたが、『こちらがなんとなくいいぞ』と云った。それは根の深い方の石であった。なんとなくいいぞという所に、
つまり云うに云えない味があるのだろう。」
かくれている所に、下地を大きく深くつくりたいものだ。
■ 本分
吉田大蔵は、弓術を以って加州候に仕えていた。一日、加州候は、七八名の大名を招いて
饗宴を張った。
折りしも数行の過雁に、話が弾んでくると、加州候は、吉田に命じて空の雁を射させた。
「ハッ」と答えた吉田、暫く心を鎮めていたが、サッと放す初矢、二矢、舞ひつつ雁は
落ちてきた。満座は喝采して、
「さすがは加州候、よき家来を持たれる。」
と、ほめちぎった。
後刻、客が散じてから吉田は伺候し、永の暇を請うた。候は驚き、暫く
考えていたが、名君である。
「予が誤っていた。以来断じてあのようなことはさせぬ。今回だけは思いとどまってくれ。」
と、深く謝して、吉田をとどめさせた。
すべて侍が武を磨き、仕を求めるのは、戦場に臨んで君のために尽くそうがためである。
それを饗宴の慰めのために使われて、若し仕損じたら、自分は割腹、
主君は恥辱を受けねばならぬ。
そんな慰みに武を使うのは、愚の骨頂である。
吉田は本分を忘れぬ男だった。
■学問
長州の儒者、南部伯民は常に門弟に諭していった。
「学問は髪を梳くようなものである。髪を梳くには、初めは粗い櫛で梳き、それ
から次第に歯の細かな櫛を用いれば、容易に乱髪を整理することが出来る。学問
もまたかくの如く、まづ第一鋼常倫理の何物であるかを研磨するば、そのち妙な
意味は自ら明瞭となるであろう。」
「学問には順序がある。あなたが古事記を研究しようとなさるには、ぜひ万葉集の
研究からはじめなくてはなりません。また学問は根競べです。あせらず、気どらず、うはつかず、こつこつと築き上げて行くべきです。」
諄々と説いたのは加茂真馬淵、相手は少壮学者の本居宣長、伊勢松坂の一夜のことである。53:00
■愚極
伊藤仁斎の学説が、世に行なわれるのを見て、室鳩巣、荻生徂徠、大高芝山、米田操軒など、時の学者が、四方から攻撃した。
仁斎の門弟達が憤慨して、芝山の著『適従録』を仁斎の前へ持参すると、
「先生、これを大いに反撃して下さい。先生と全く反対の説を立てております。
謗られて黙って折られる先生を、世間では屈服したかのように云っております。
このまま放っておかれるお考えならば、私どもが代わって、一言のもとにとりひしいでご覧に入れます。」
仁斎、笑って
「彼の説が真ならば益友だ。我が説が真ならば、彼も悟るときがあろう。彼を謗り
我をたてるために、争うなどは、愚の極みである。」
遂に争わず、人間の面目を全うした。
参考文献:「日本的人間」山中峯太郎
公開:2018/11/21