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-満州事変前の漢民族の満州侵略-(GHQ焚書図書開封 第82回)

2017-07-30 23:59:10 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第82回
-満州事変前の漢民族の満州侵略-
古代から支那が、西に進み、南を侵し、東を奪う歴史をたどっていることを書いた長野朗の「民族戦」、その内容は長野朗自身の体験と思索と読書の結果に基づくものである。
満州から北京に移住した満州族の清朝。人口希薄となった故郷の満州にはロシア、漢人が流入し、やがて清朝の衰えとともに人口で優る漢人が文化面で劣る満州を植民地化した。牧畜民族満州族は、牧場に鍬を入れられ農地化されると遊牧民としての生活の糧を失っていったのである。
満州に流入した漢人は、山東省において軍閥の苛斂誅求に苦しめられたクーリー、乞食などで、加えて、土匪の本場、水害,干害、イナゴの害にも苦しめられるため、安住の地として満州に向かった。(兵禍、土匪、天災、其他による難民)
民族的なしたたかな強さ、エネルギー、虐げられた民衆の信ずるものは何もない、嘘ばっかりついて生きていくしかない、自分を欺き、世界を欺く以外生きていく道がない、生きていくことさえできれば何でもする。今日も続いているしたたかな支那人の気質はここからきている。
日本の満州における大なる貢献は治安維持であったが、利益を得るところは少なかった。
鉄道敷設に対するロシア、日本の資本投下は、満州に土着した漢人を富ませる結果となった。注:「少年満州読本」長與善郎
徹底的な個人主義であって愛国心がないように見えるが、集合意識だけがある支那人の不思議な性格、気質は今日の他の近代国家では見られないし、理解しがたい。
満州における漢民族の充実は、ここに満州を完全に漢人化し、満州を漢人の手に独占せんとする運動が行われるに至り、ついに、満州における民族戦を展開し、満州事変を惹起するに至った。
満州を漢人化する動機は種々あるが、
第一は、古来行われてきた漢民族の膨張運動の連続である。
漢民族が今日の大をなすに至ったのは、漢民族の外部発展と弱小民族に対するの浸食・同化作用の絶えまざる努力の結果である。
少数民族は単に武力と政治をもって漢人に対してきたが、支那民族はその民族の多数と経済力、漢人に特有の文化により少数民族を自己の中に熔解し去り、しかる後に、その領土を占有して自己の領土の一部としてきた。
これが、支那の伝統的な政策であって、自民族により世界の統一を志す民族侵略者といえる。漢民族は弱小民族の独立存在を認めないのである。
第二は支配階級の搾取本能から生まれ出たものである。支那の軍閥官僚の徒は、人民を搾取して利を得る外は何事も考えない。
当時の東三省の軍閥もまた同じで、金融権を壟断して不換紙幣を乱発し、満州の特産品を買い占め暴利を貪り、交通、鉱山、工業、森林等苟も利のあるところ彼等の専有に帰せざるものなく、甚だしきは質屋から女郎屋まで開いた。支那人は支配階級が搾取的であるだけでなく、人民もまた同じで、商人はつまらぬ品物を蒙古人に高く売りつけ、その代償として毛皮を安く買い落して暴利を貪り、地主は朝鮮人を苛刻なる条件のもとで小作せしめて、漸く開墾ができれば追い出し、新たな荒地を開かせ、かつ、非常な高利で金を貸し、すなわち支那人の満州に来るや他民族を搾取する。満州国を日本が作ろとした意義はこのようなことのない五族協和を目指したのである。
この動機を促進せしめたものは、満州の開発により、財力の豊富と位置の優秀なるにより、ここによって政権を争わんとしたこと。更に支那人は他国に散々金を使わせ、骨を折らせ、出来上がったところで、これを頂戴しようとするを慣用手段ととる。租界回収如きもこれである。満州に対しても同じことで、日本の努力経営により今日のごとく立派に出来上がるとご苦労様ともいわず頂戴に出かける。
満州の漢人化運動は、人民が自発的にやったのと、政府の指導とある。人民の自発的運動は、一つは満州の有する経済的誘惑により、利を求めて満州に入り、また、あるいは北満の沃土を拓かんとし、あるいは東部満州の森林を目指し、親戚相牽き、相頼って村をなし、町を造るに至ったのと、一つは戦乱を避けて余儀なく移住する難民の進出である。支那政府の満州政策は国民党になってから特に、高調されたが、既に民国以前から行われていた。
清朝が起こった後も、漢人の満人に対する反抗は潜在し、倒満興漢の旗印は南方秘密結社の中に伝わった。清末に至って、新帝に伝えた漢人の官吏は民族意識により清朝朝廷の本拠満州を漢人化するに努めた。
ロシアが東進して来るやいなや、漢人を北満に入らしめ、またロシアに備えるためと称して北方の封禁を解かしめた。清朝はこれをもって滅び、形骸を残すのみとなった。
民国になって漢人の発展は盛んになったが、北京政府は大した政策をとらなかった。
ロシア革命の5年後、1922年、支那本部を統一して真正の民主共和国とする。蒙古、チベット、ウィグルの三部の自治を実行して民主自治国とする。自由連邦制を採用し、支那本部、蒙古、チベット、ウィグルを通して中華連邦共和国とする。この方法は、満州の漢人化とともに、蒙古、ウィグルを自治邦として、露骨にロシアの政策をあらわしている。
アメリカの侵略は資本侵略で、表皮を剥ぐように入ってくる。ロシアの侵略は領土侵略で、肉を喰らう。支那民族の侵略は移住と同化で、骨の髄に喰い込む最も深刻なものだ。現代風に言えば、内部侵略、放射線の内部被ばくのようなもの。
参考文献:「民族戦」長野朗

2015/03/11 18:00に公開

 

 

関連動画:

 


-移住と同化 支那人の侵略の仕方-(GHQ焚書図書開封 第81回)

2017-07-19 14:52:37 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第81回
-移住と同化 支那人の侵略の仕方-
21世紀の覇権争いを予測していたような長野朗の「民族戦」昭和16年刊行。
アメリカの侵略・進出は資本、ロシアの侵略・進出は領土獲得、支那の侵略・進出は移住である。
アメリカの発達の方式はドルだ。ドルを保護するため軍艦と飛行機がある。ロシア民族の発展は剣と銃が先にたって、植民と商業があとからくる。ソ連になって組織と宣伝が加わった。支那民族の発達は鍬であり、人が土を這うようにしていく。政治はそのあとからついてくる。
アメリカ民族の発展(侵略)は、表皮を剥ぐように入ってくる。ロシアの発展は肉を喰らう。支那民族の発展は骨の髄に喰い込む最も深刻なものだ。
支那は戦いに勝っても負けても発展する。勝った時は、その土地の壮年男子を本国各地に分散して同化し、女と子供と老人を残し、そのあとに支那人がやってきて、混血し同化する。負けた時は、あたかも清朝に征服された時のように、征服国(満州国)に移住していって漢人の居住地にしてしまう。
日本人の領土感は、寸土と言えども、捨てないで、猫の額ほどの川中島でも長い間争う、支那人の領土感は、一時占領された領土のことは何とも思わない。外国に金で立派にしてもらって返してもらう位に横着に考えている。
支那人は、生きるためには一時乞食になったり、匪賊になったりすることは平気であり、恥も、外聞も一切気にしない。
古来、占領されたり、占領したりを繰り返していた支那には、他国に占領されても、その土地に居住し、土着しておれば、その土地はしょせん支那人のものであるという章炳麟(しょうへいりん) の考えが定着している。
かって、漢族の「明」を滅ぼし、満州族が支那を統一し「清」を建国したが、結局はそこに土着していた大多数の漢人によって政治、経済、軍事を掌握され少数満州族は同化され滅ぼされた。
支那には古来幾多の民族を同化せしめた経験上、一民族を同化するには「八代三期説」という言葉がある。八代を三つ重ねた二十四代を要し、一代を25年とすれば、600年を要しなければ完全なる同化はできないものとしているのだ。これによって支那は何千年にわたって他民族を同化してきたのである。
移民した民族の人口がその領土を支配している民族の人口を越えると支配が逆転する。支那は、純血主義でなく、「洗国」と「被支配民族との混血・同化」を繰り返しながら東西南北に膨張してきた。1962年中印国境紛争(西)、1969年中ソ国境紛争(北)、1979年中越戦争(南)の経緯を、みていると、軍事的威圧は、中国が軍事的優位を得るまでの猶予期間であり、軍事的優位が確立してから軍事力を背景に国境を画定している。
①兵力を差し向ける前に、辺境に移民を送り、人民の障壁をつくり、他民族が移住するのを防ぐ。
②漢人の領土侵略は農業により一歩ずつ確実に地歩を固めていく。侵略には必ず、屯田と開墾が伴う。
③漢人の発展には第一に行商人が出発する。行商人が土地を手に入れ農民がその土地に入る。これは、軍隊で言えば、次に続く歩兵のための騎兵の役割に似ている。
支那にとって次のターゲットは東進を妨げている琉球列島である。そのために、日本本土との分断と沖縄の内部からの崩壊の仕込みをしている。
沖縄島民の中に、現在どれだけの中国系移民(在日・帰化人)の人達がいるかは定かでない。国内には憲法九条を墨守する勢力が中国からの侵略を助けている。
参考文献:「民族戦」長野朗  「中国人の世界乗っ取り計画」河添恵子 「尖閣戦争」西尾幹二、青木直人

2015/02/25に公開


-支那政治の裏を描く本当の歴史-(GHQ焚書図書開封 第80回)

2017-07-05 16:10:48 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第80回
-支那政治の裏を描く本当の歴史- -
 「民族戦」長野朗著に書かれた支那の戦争(北方軍閥VS南方軍閥)風景はまるで笑い話のようだ。また、領土観についても、外国に占領されている土地は一時他人に貸しているように思っている。いずれ、綺麗にしてもらって返してもらえばいいといった感じだ。
西洋人に蔑視されていた支那人。西洋人には敵意をもっていなかったが(白人崇拝)、西洋人と同じように偉ぶっていた日本人には憎しみをもっていた支那人。
日英独伊露の治安の良い租界に住みたがる支那人。
租界に逃れた支那人で家のないものが10万人。立派な道路ができると寝床代わりに利用するし、マラリアの免疫力をもっているので蚊に食われても平気でいられる。
1911年辛亥革命で中華民国ができると、孫文がアメリカにいる間に袁世凱が溥儀を退位させ、皇帝になるべく総統に就任したが、1916年死亡。
そのあと軍閥が割拠し、中央(北京)政府の黎元洪(大総統)、段棋瑞(国務総理)、馮国省璋(副総統)、張作霖らと、反北京政府の蒋介石、孫文との戦い(北伐)。
中央政府のやり口が気に入らない時に開かれる督軍会議は賭博開帳。張作霖は賭博も強かったとのことだ。
張作霖は、関東軍とソ連及び国民党並びに張作霖の部下にも命を狙われていた。
支那人同士の戦いは商売のようなもので、犬も食わぬ夫婦喧嘩に似ている。従って、関わりをもつと碌なことはない。
支那のことを深く研究している人のことを聞かない日本政界、財界、学界が支那に対する政治的判断を誤らせている。
この本の著者は、段棋瑞や張作霖にも会っておりその人柄までも把握していた。張作霖の爆殺についても、東京裁判史観により河本大作によるものとする説で固定化してしまっているが、真相は謎である(謎解き「張作霖爆殺事件」加藤康男)。
参考文献:「支那三十年」長野朗 謎解き「張作霖爆殺事件」加藤康男

2015/02/11 18:00に公開




-支那軍閥の徴税、徴兵、略奪-(GHQ焚書図書開封 第79回)

2017-07-05 15:23:33 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第79回
-支那軍閥の徴税、徴兵、略奪-
 1911年から1940年に亘って支那の実情を体験した長野朗の「支那三十年」昭和6年刊行。
袁世凱亡き後の北方軍閥の内乱で塗炭の苦しみを味わった農民。天命を失う(民心を失う)状況がつくられてきた。
朝廷もできた頃は税も軽いが、後期になると。財政も苦しくなり、綱紀も乱れ、税金の名のもとに農民からあらゆる富を搾取する軍閥、土匪、官吏や勝手に紙幣を発行する軍閥が増えてきた。蒋介石の中央銀行、張作霖の東三省官銀行などがそれである。、
支那の諺に、「土匪は櫛の如く、兵はヘラの如く」とある。
過酷な軍閥による搾取の中で、民衆には、ただ生きていければ良い、何も信じない、徹底的に狡くなるしかないという気質が身についた。
民衆にとって最も安全な場所は、租界であり、そこに逃げ込むことが最良の選択であった。
軍閥の金儲けの妙手は,、銅貨製造と栽培、製造工程で何度も税金をとれる阿片であった。
支那の兵隊は、農民の男子を拉致して集められた(拉夫・らふ)。月給の安い志願兵の役得は、掠奪と強かん。
退軍のときの支那軍隊の近隣山村婦女子に対する凌辱は常態化していたことなどから、支那で起こった残虐事件(南京事件など)は、支那人自ら犯した可能性が拭いきれない。
日本軍は支那の便衣兵は処刑したが、ハーグ陸戦条約違反の行為はなかったというのが、ヨーロッパ人の証言、残存する各種記録による学界の通説である。にも拘わらず、南京事件を取り上げない教科書が検定に通らなかったり、今日もなお悪質な一部の日本の学者たちが支那に媚び諂い、支那の言う通りに日本軍による大量虐殺があったと吹聴・喧伝しているのである。
秦⇒チン⇒チャイナ⇒支那となったのであり、中国という言葉は戦前なかったのである。戦後、日本政府、官僚が支那からの抗議に負け、中国として一般化したのである。
参考文献:「支那三十年」長野朗