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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-ボルネオ・ブルネイ・スマトラ・パフアニューカレドニア-(GHQ焚書図書開封第167回)

2022-06-29 01:44:05 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第167回

-ボルネオ・ブルネイ・スマトラ・パフアニューカレドニア-

西インドとはインドを中心にして、西半球全体、東インドは、東半球全体を指していた。蘭領東インドは東インドの一部の蘭領地域を示している。

 蘭領東インドは、主として回教圏であり、王族が分割して支配しており、統一国家はなかった。

 英領ボルネオは、1824年の英蘭協定によってイギリスが獲得したもので、北ボルネオ、ブルネイ、サラワクからなっている。イスラム教サルタンの所領であったが、1898年、サルタンから一部割譲した。「権利が先で事実は後」という先進国の横暴の結果であった。

  北ボルネオの産物は、木材、サゴ、コメ、ヤシノミ、ゴム、コーヒー、果実、肉豆冠(ニクズク)、胡椒、樟脳、藤、タピオカ、甘薯、石炭、鉄、金、鉱油であった。

 面積は31,106マイル、人口密度は86人/平方マイル。

 人口27万の内、ヨーロッパ人は300数十名で、支那華僑が4万余人であとは土人であったが、イギリス植民地会社の植民地的搾取の他華僑の商業資本により搾取され、苦しい生活をしていた。

  ブルネイ王国は、大部分が密林地帯だが、産物としてカッチ、ゴム、ジェルートング、サゴ、米、石油、石炭が豊富であった。

 人口3万で面積は2,280万マイル、人口密度は12人/平方マイル。

ここも、北ボルネオ同様に、イギリス人と華僑の二重搾取を受けていた。1888年にイギリスの保護国になり、サルタンが2,100ポンドの年金を受けることで売国した。指導者階級が民族を裏切ったのである。

  サラワク王国は、ブルネイと同時期にイギリスの保護国になったが、他の2国と違い、イギリスと華僑の二重搾取を受けていなかった。外交権はイギリスが握っていたが、内政はイギリスの干渉を受けていなかった。その理由は、白人の血が混じったジェームスブルークが王族になっていたためである。面積は5万平方マイル、人口は47万、人口密度は9人/平方マイルであり、農業、鉱業が盛んで、ゴム、胡椒、石炭、石油を産出する。

  マラッカ海峡を隔てて、マレー半島と対するスマトラ島は、8世紀にスリウィヂャ王国が勢力をもっていたが、その後衰退し、モジョバイト王国に変わった。1292年にマルコポーロが、1508年にポルトガルのアルプケルケ、1595年にオランダのハウトマンが訪れている。ミナンカバウ国が衰退後は、小酋長が蟠踞しており、無政府状態であった。このチャンスをとらえてイギリスが侵略を開始し、バタン地方をオランダから奪取したが、その後英蘭条約で、オランダのマレー半島の植民地と交換して、手放した。イギリスは支那への侵略のために、支那と陸続きのマレー半島が欲しかったのである。スマトラ島を手に入れたオランダは、不幸にもアチエ戦争に巻き込まれ長年苦しむことになった。

  地上の楽土として16世紀後半にもてはやされたバリ島は、サルタンの領土であったが、オランダに明け渡した後は、王族と民衆との間を遮断され、王族の力は衰退の一途をたどった。

  面積80万平方キロ、人口密と1人/平方キロのニューギニアは、グリーンランドに次ぐ世界第二位の大島である。西側はオランダ領で、東側の北方はオーストラリアの委任統治領、東側の南方はイギリス領であった。天産物に恵まれ、金、石油が産出される。原住民は獰猛で、首狩りの悪風があり、原始生活を平然と行っている。

 参考文献:「GHQ焚書図書開封第2巻」西尾幹二、「蘭領印度農業政策史」関嘉彦、「白人の南洋侵略史」柴田賢一、「蘭印侵略史」デ・クラーク、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった-帝国政府声明の発掘-」安濃 豊

2018/06/06 18:00に公開


-強制栽培制度を正確に批判した関嘉彦先生-(GHQ焚書図書開封第166回)

2022-06-26 23:17:18 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第166回

-強制栽培制度を正確に批判した関嘉彦先生-

明治維新前に、すでに太平洋の島々は欧米諸国に侵略されていた。

1824年の英蘭ロンドン条約締結までは、東インド地域は英蘭の権益争いの場であった。

 条約締結後も、イギリスは、蘭領東インドのアチエ民族をそそのかし、オランダの覇権を奪うためアチエ戦争を裏で操るなどオランダの勢力低下に力を注いだ。

1805年のトラファルガーの海戦から第一次世界大戦までの100年間は、イギリスが統治する平和の時代(パクス・ブリタニカ)だった。

 主食の米づくりを封じて、輸出用としてお茶、コーヒー、藍、砂糖を強制栽培させてことが、インドネシアの人たち(土民、原住民)を苦しめた。

 植民地での出来事は王室の関係者と現地総督以外には知らされず、具眼の士が暴露小説を書いて本国国民に植民地の実情を知らせるぐらいだった。

 強制栽培制度の生みの親は、ファン・デン・ボッシュであったが、現地の王同士の争いを画策し、無力化すると同時に、原住民や外国要人、記者と王様との接見を固く禁じた。徹底して空位化、傀儡化したのである。

J.S.Furnivalは「Netherlands India 1939」の中で、強制栽培制度は現地人の福祉向上に寄与したと説明しているが、これに対し、関嘉彦先生は総輸出額、綿製品の輸入額の増加額比較だけで貢献度を論ずるのでなく、物価上昇率も考慮した場合、現地人に悪影響(主食欠乏による飢饉、飢餓)を及ぼしたことは明白であると論破している。

このことが、後にインドネシアの植民地解放戦争(大東亜戦争)へとつながっていったのである。

 参考文献:「GHQ焚書図書開封第2巻」西尾幹二、「蘭領印度農業政策史」関嘉彦、「白人の南洋侵略史」柴田賢一、「蘭印侵略史」デ・クラーク、、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった-帝国政府声明の発掘-」安濃 豊

関連動画:「GHQ焚書図書開封第12,13回」

2018/05/23 に公開


-目を凝らして見よ『近代の闇』-(GHQ焚書図書開封第165回)

2022-06-23 04:49:48 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第165回

-目を凝らして見よ『近代の闇』-

 

西夷の海上に跋扈すること、幾度三百年にして土彊は日に廣く、

 意欲の日に満つるは、是れ其の智勇の大いに人に過絶する者あるか。

 仁恩の甚だ民に給うべきか。禮楽、刑政の脩備せざるなきか。抑も神造鬼

 設にして、人力の能くなす所にあらざる者あるか。而も皆、然るにあ

 らざるなり。彼の其の恃みて以って技脩を逞うする所の者は獨り一耶蘇教あるのみ。

つまり、水戸學では、歴史を動かしている主要モチーフは、キリスト教であると洞察している。

 

 1550年~1850年の間の300年は、ヨーロッパでは宗教内乱(軍事革命)の時代であり、キリスト教が侵略の先兵の役割をした時代であった。

 日本はこの時期、鎖国時代であり、外の世界は生々しい悪魔的世界とみており、そしてその原因はキリスト教であり、敵対的な感情をもっていた。これは、パラダイムシフトした現代では頑迷固陋とも言えるが、この水戸學の排外主義が尊皇攘夷を生み出し、明治維新の原動力となったことは事実である。

 

 「近代世界システム」はヘゲモニー(覇権)の争いの中でイギリスが、スペイン、オランダ、フランスを抑えて最後に勝利者となるパックス・ブリタニカが実現していくプロセスである。

 

 「近代世界システム」ウォーラステインには宗教の及ぼす影響が排除されているし、どこで富を得ていたのか、どこから収奪したのかについては、反省がない。それは、インドであり、東南アジアであったはずだ。

イギリスは、ビルマを植民地にした際、コンバウン王朝の王族をインドに流し、求心力を失わせた。同じように、インドを植民地にした時は、ムガル帝国の王族をビルマに流し、5年後に亡くなったバハードゥル・シャ2世国王の遺体すら故国に戻さなかった。これら植民地にされた王族の末路は実に悲惨な結果となっているが、歴史上からは抹殺されている。このようにして、民族独自の文明が破壊されたのである。

 主我的価値観のある西洋の文明にはある種の閉鎖性がある。

 日本の戦争をどう見直すか、どう解釈するかは、これからの日本の歴史にとって重大な案件である。

 西洋人の認識の仕方を学んで、そこから抜け出ない日本人が知識階級、指導者階級が圧倒的に多いのは何事か?

 参考文献:「新論」会澤正志斎、「近代世界システム」ウォーラステイン/翻訳川北実

2018/05/09 に公開


-「閉ざされた西洋」を知る-(GHQ焚書図書開封第164回)

2022-06-21 16:11:43 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第164回

-「閉ざされた西洋」を知る-

イングランド王国前史-アングロサクソン七大国物語-

スコットランド・ルネサンスと大英帝国の繁栄

ヴィクトリア文化の諸相

ヴィクトリア朝英国の食事と生活

 薔薇戦争の新史

イギリス王室1000年の歴史

メイドと執事の文化誌-英国家事使用人たちの日常-

英国メイドの日常

 英国ティカップの歴史

 使用人の見た英国の二十世紀

       2014/10/9 御茶ノ水 丸善店頭の英国紙コーナー

 

上記が現代日本人が、貴族・世界の王者としてイメージしている英国像である。

 

 戦前の日本人がイメージしていた英国像は「アジア侵略秘史」によると太平洋の島々を侵略していたという国家である。

 東部

・ハワイ群島

・ワシントン島

・ファニング島

・フェニックス島

・サモア島

・トンガ島

・マルデン島

・マーケサス島

・ソサェティ島

・バウモウ島

・ロトカイル諸島

・クック諸島

 中部

・マリアナ群島

・マーシャル群島

・パラオ群島

・カロリン群島

・ヤルート島

・グアム島

・ニューギニア島

・ナウル島

・ビスマルク群島

・オースオラリア

・デルベート島

・エリス島

・大洋島

 

・ソロモン諸島

・サンタクルス

・ニューヘブラス

・ニューカレドニア

・フィジー諸島

・ニュージランド

・フィリピン

・モルッカ

・ボルネオ

・セレベス諸島

・スマトラ

・ワンカ

・バリー

・ジャバ島

・チモール

・クリスマス

・ラブサンド

・セイロン

 

美しきものの背後には醜きものがあり、優しきものの背後には怖きものがあるという現実のギャップがあるにも拘わらず、

 世界の学問と歴史が、白人優位の観点で展開し、日本人は、それを自明のごとく受け入れて、今日の学問も今日の歴史も、欧米のたてた理念と理論で展開しているのである。

  日本の獲得した近代技術文明というものは、100%西洋から移植、模倣、摂取したものとは言えない、家庭生活、風俗、道徳、商習慣、政治の運営の仕方、教育の在り方が文化というものであるが、ユニークであり、異質であることを考えると、西洋人の見地から近代を語ることは正しいとは言えない。

  東アジアで、また太平洋の島々でどういう悲劇がおこなわれ、何があったかは大変大きな問題だが、「近代世界システム」では、東アジア侵略によって世界を支配したとだけしか書かれていない。西洋の歴史観では、実際におこなわれた具体的な犯罪行為を隠しているのである。

 西洋の歴史観に乗っかるだけで、それを、総合的に論述する熱意が我国の歴史学会にまったくないのが不思議である。

  戦後、GHQ政策によって日本は「閉ざされた言語空間」に置かれたと江藤淳が述べているが、日本の視点からの歴史観が根付いていないことを鑑みると、明治以降から、西洋によって日本は「閉ざされた言語空間」に置かれていたとも言えよう。

 

イギリスのニュージランド侵略の歴史

・イギリス人ジェームズ・クックがニュージランドを再発見

・ニュージランドの三か所にイギリス領の標札が立てられる

・マースデンがニュージランドに渡航

・ニュージランドでマオリ族戦争が続く

・イギリスがニュージランドに駐在官を置く

・ウェイクフィールドがニュージランド教会を組織

・ウェイクフィールドがニュージランド会社を創設

・イギリスがニュージランドをオーストラリアの属領とする

・ニュージランドでイギリス人によるマオリ族虐殺が続く

・スコットランド会社がニュージランド南島に移民を送る

・カンタベリー協会がニュージランドに多数の移民を送る

・ニュージランドマオリ族、1853年の土地契約を承認せず

 

明治以前は、オランダから世界の知識を得つつ、水戸學を確立し、日本の立場から世界を見ることが出来た(尊王攘夷)。そして、明治維新を無事乗り切った後は、ヨーロッパの視点で世界を見るようになった(攘夷から開国へ)。ところが、第二次世界大戦前になると、再び、日本の立場から世界を見なければならないことに気付いた(グローバリズムの生々しい脅威を自覚した)。終戦によって、再び、欧米の視点で世界を見ることに誘導された。終戦後70年を経た現在、隣国からの脅威も増大し、再び日本の立場から世界を見なければならない時代になってきている。

 日本の立場から世界を俯瞰するには、日本の二重性、双面身を自覚することが大切だ。

 

 参考文献:「近代世界システム」ウォーラーステイン、「近代世界システムと植民都市」布野修司」、「米英のアジア・太平洋侵略史年表 1521-1939」柴田賢一

2018/04/25に公開


-太平洋に嵐を呼ぶ日本人とオランダ人-(GHQ焚書図書開封163回)

2022-06-13 17:18:02 | 近現代史

GHQ焚書図書開封163回

-太平洋に嵐を呼ぶ日本人とオランダ人-

寛永元年(1624年)スペインとの通商が禁止され、寛永16年(1640年)には、オランダ、支那を除く国に対して鎖国令が出された。

その年、オランダのバタビア総督は、エンヘル号とフラフト号を派遣し、クアストとタスマンの両名に日本近海の北海を探検させていた。

 徳川幕府の独占貿易は御朱印船により行われていた。四代将軍(徳川家綱)のとき、佐倉藩主の苛斂誅求な税の取り立てに抗議して、佐倉惣五郎事件が発生した。

 鎖国令が出された前後、進取の気風に富んだ日本人は、台湾、フィリピン、シャム、安南へと渡航し活躍した。原田孫七郎(ルソン)、呂栄助左衛門(ルソン)、小笠原貞頼(小笠原)、松本七郎兵衛(安南)、山田長政(暹羅)、荒木宗右衛門(安南)、濱田彌兵衛(台湾)などが有名である。

 鎖国時代、海外との人の出入りは抑制されたが、南蛮情報については、軍事技術、軍事問題は幕府のみに限定入手でき、天文学其の他のものについては自由に入手できた。持ち前の知識欲、勤勉性、研究熱心のお蔭で、この時代に独自の民族文化が醸成された。ただし、キリスト教、イスラム教、韓国儒教など原理主義的なものは、ある程度以上は受け入れないと言う選択的な受け入れ方をしていた。

 1975年。フランスがオランダに侵攻すると、オランダ王ウィリアム5世はイギリスへ難を逃れた。オランダ王となったルイ・ボナパルト(ナポレオン)は、ヘルマン・ウィレム・デンデレスを東インド総督に任命し、統治させた。デンデレスは熱心なナポレオン崇拝者であったが、極端な圧政を敷いたため、後に失脚することになった。

  イギリスの巧妙な戦略は、両方の力を削ぐための代理戦争をやらせて、高見の見物をすることだった。インドネシアアチエ族とオランダ、インドシナとフランス、ロシアと日本との戦いがそうだった。

 参考文献:「蘭印・仏印史」大江満雄

2018/04/11に公開


-「鉄砲伝来」(1543)から現代を考える-(GHQ焚書図書開封162回)

2022-06-05 17:48:27 | 近現代史

GHQ焚書図書開封162回-

-「鉄砲伝来」(1543年)から現代を考える- 以後予算(いごよさん)かかる鉄砲伝来

日本とオランダとの交易の道を開いたウィリアム・アダムス(三浦按針、慶長5年(1600年)臼杵に漂着、元和6年(1620年)家光時代に55歳で逝去)。

 慶長14年(1609年)、オランダ国王の書簡により、スペイン、ポルトガルが日本から退くことになった。

プロテスタントのオランダは、カトリックのスペイン、ポルトガルと違い政経分離の重商主義政策を強調し、日本との交易を望んだためである。

更に、ブルトロメ・ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を利用したスペインの先住民に対する残虐性についての幕府への洗脳工作も功を奏した。

 鹿児島に鉄砲伝来後、信長の関心は武器と比叡山焼き討ちに見られるように宗教に対しての政治の優位性を示すことであった。

 17世紀は、造船技術及び文明のレベルにおいてもオランダがイギリスを陵駕しており、時を同じくして起こったインドネシアでのアンボイナ事件もあったことから、イギリスはインドとシンガポール統治に重点を移したため、イギリス及びオランダとの貿易は、オランダ一国に絞られていった。

 秀吉時代は、石田三成、小西行長、加藤清正もキリスト教信者であった。

アンチキリスト教政策は、寛永11年から始まり、13年に海禁政策とした定着した。鎖国と言えないのはオランダ、シャム、朝鮮とは交流があったためである。

 鎖国が可能だったのは、当時、日本の金銀銅の産出量が多く、慶安元年から60年間に金239万7000両、銀37万4000貫が貿易により支那、東南アジアへ流出したと言われているほど余裕があったのである。

 鉄砲伝来が我国にもたらした影響は

①加羅、天竺の他に、別の文明があることを知った。

②支那文明が座標軸であったが、西欧という座標軸があることを知った。

③普遍性のある科学技術を自家薬籠中の物とした。

つまり、日本近代化の幕開けが起こった。

 天才信長は、弾の装填に時間がかかる火縄銃の欠点をいち早く見抜き、三段撃ちという戦法をあみ出し、1575年長篠の戦いで武田勝頼を打ち破った。

ヨーロッパでこの戦法を採り入れたのは1631年のブライテンフェルトの戦いからで、実に、半世紀も遅れていたのである。

トラファルガーの海戦(1805年)から第一次世界大戦(1914年)までの間につくられた無差別戦争観に挑戦してきたドイツ。

 第一次世界大戦後、アメリカの台頭によって、人類の名において正しい戦争、間違った戦争という評価による差別戦争観が生まれ、戦争責任、戦争犯罪を追及するというキリスト教的、ユダヤ教的人類の裁きの法廷が開かれるように方向づけされた。その新しい「戦争と平和のルール」の被害を被ったのはドイツであり日本であった。

 参考文献:「蘭印・仏印史」大江満雄

2018/03/28に公開