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-後期水戸學『新論』の原文を読む魅力-(GHQ焚書図書開封 第148回)

2021-07-18 22:57:56 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第148回

-後期水戸學『新論』の原文を読む魅力-

會澤正志齋は藤田幽谷の高弟

 『新論』1825年 ただし、藩主に公刊を差し止められ1830年(天保元年)に憂国の志士たちの手によって筆写され広まった1857年刊行

 【上】國體(上)形勢 國體(中)虜情 國體(下) 

 【下】守禦(シュギョ・国防) 長計(チョウケイ・国のおおもおと 教育)

 

 新論【上】で、會澤正志齋はロシアが日本を襲うシナリオを予測分析している。 

また、当時の世界の七大国について、周末の七雄を引き合いに出して、世界情勢を分析している。

 更に、キリスト教についてこれを激しく批判している。

 元々水戸學は、封建体制を守ろうとしたことから発したが、幕藩体制の保守性、事なかれ主義、官僚体制、何もしない主義に直面し、外国からの脅威に対して、これでは駄目だという自覚から、天皇の名において、これまでの価値観をひっくり返す方向へ目指すと言う自己矛盾を持つようになった。

 

1792年 ロシア使節 ラクスマン 根室へ来航

1796年 イギリス人 ブロートン 絵鞆(室蘭)へ来航

1797年 ロシア人択捉島へ上陸

1803年 アメリカ船長 長崎へ来航

1804年 ロシア使節 レザノフ 長崎へ来航

1823年 水戸領磯浜沖に異国船現る 

     水戸領大津浜に英国船員上陸

1825年 幕府 異国船 打ち払い令を出す

1853年 ペリー 浦賀に来航(一発降参、狙ったペリー)

 

 新論【下】で、會澤正志齋は200年間戦争もなく、戦い方の勘所を忘れた武士への不安を憂いている。

船が水辺に近づけば、海上で打ち殺すとロシアを脅迫していたけれど、今、英国船が停泊しているけれど、未だに追い返すこともせず、イギリス人が上陸しても物を与えたりして、これを放置している。外国がこれを知ったならば、日本の国防はどうなっているんだろうと問われるであろう。イギリス人は自由に歩き回って、地図をつくり、金品をもって我が人民を誘惑し、欺くのにキリスト教を利用している。もしも悪巧みが多くなれば、何が起こるかわからない。一時しのぎを考える人は、「あいつらは商売をしているダケ、普通のことをやっているだけ」だから心配するなと言っている。

 参考文献:「會澤正志齋集」高須芳次郎 -

2017/9/27公開


-厳正なる父に鍛えられた藤田東湖の三度 死を決する人生-(GHQ焚書図書開封 第147回)

2021-07-12 00:17:48 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第147回

-厳正なる父に鍛えられた藤田東湖の三度 死を決する人生-

1回目の決死

 「近年外国人が我国に向かって屡々渡来するけれど、間隙を狙って我国を奪わんとする野望なしとは言われない、彼らは時には大砲を鳴らして、我が国民を驚かし、その傲慢ぶりは言語に絶するものがある。しかるに、世をあげて姑息無事を喜んでいる状態である。今回大津海岸に上陸せる夷狄 に対しても、彼らを怖れて、そのまま、これを放還する如きがあったならば、我が神州日本は一日の安きを喜んで外夷のあなどりをうけることになる」と我が子東湖にイギリス人の鏖(皆殺し)を命じた藤田幽谷。しかし、薪、水、糧食補給のため来航した漂流船であったことから 放還され、出鼻をくじかれた藤田親子。

2回目の決死

 八代藩主斉脩(哀公)亡き後、世子(敬三郎)をめぐって翠軒派(佐幕派)と藤田派(直隷派)の争いが勃発。東湖は、後に九代藩主斉昭(烈公)となる敬三郎を立てるため、行動を起こす前にうらなったところ凶とでた。しかし、「不吉を見て、止まるは尋常の場であって、非常時に遭遇しては、固より吉凶をもって大節を変更すべきではない。自分は、既に死を決しているのであるから、今や不吉を気にしてべきときではない」と行動を開始。哀公の遺書も見つかり敬三郎が跡を継ぐことになった。

3回目の決死

 九代藩主斉昭(烈公)は、水戸家の天皇崇拝の伝統を引き継ぎ、仏教否定、神道復古に尽力したが、これを良しとしない幕府側の反感を買い、幽閉されることになる。これを知った東湖は病床の身でありながら、「既に死を決している以上、何時命を失うともこれを顧慮する場合ではない」と近親、医師の慰留にも屈せず、主君を守るため江戸に上ることになるが、無念にも東湖自身も囚われの身となる。

 「柳に風折れはなく 大木は常に風当りが甚だしい」と告白した東湖

 

 小石川藩邸の一室に閉じ込められて歌った句

 明らけき君にたぐへて徒に

世を思ひ来し身ぞおほけなき

思ひこし、そのあらましは空しくて

君をかきはに祈るぞうき

藤田東湖は人生において、3回命をかけて事に臨んだが、死にきれなかったのである。

 

 小石川から墨田の小梅獄舎に移されて歌った句

 三たび決して而も死せず

三十五回刀水を渡る

五たび閑地を乞ふて閑を得ず

三十九年七処徒る

邦家の隆替偶然にあらず

人生の得失豈徒爾ならんや

自ら驚く塵垢皮膚に盈つるを

猶餘す忠義骨髄に填むるを

嫖姚定遠期すべからず

兵明馬遷空しく自ら企つ

志賀も苟も大義を明らかにして人心を正さば

皇道奚ぞ興起せざるを患へん

期の心奮発して神明に誓ふ

古人言ふあり斃れて後已むと

 

弘化三年暮東湖も漸く解放され、翌年正月、水戸に帰り謹慎の身となり歌った句

 打ちいでて誰に語らん青柳の

 いとのどかなる春の心を

 

後に、水戸藩では攘夷派と保守派の争いが続き

1864年、東湖の息子(藤田小四郎)によって天狗党の乱が勃発、関東各地に波及したが、やがて幕府の力に押され、追討軍と戦いながら、下野、上野(こうずけ)、信濃(しなの)、飛騨(ひだ)を通り、京都の一橋慶喜を頼って転戦の途中、越前の国(福井)新保(しんぼ)で力尽き加賀藩に降伏することになった。翌年、降伏した約350名が斬罪となった。

 

 参考文献:「藤田東湖の生涯と思想」大野愼

2017/9/13公開