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-「大東亜戦争調査会」叢書7-(GHQ焚書図書開封 第108回)

2018-06-05 20:29:19 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第108回
-「大東亜戦争調査会」叢書7-
☆「米英の東亜制覇政策」「戦間期の日本外交」「近代日本戦争史」「国際化の中の帝国日本」
 第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)におけるアジア、太平洋問題は、①山東半島、膠州湾、山東鉄道②赤道以北の南洋諸島ドイツ領、青島のドイツ領半島に関わるものであった。日本のドイツ並の利権を確保したいとの主張に対し、英、仏、露は合意していたが、アメリカ、支那はあいまいな態度を取り続けた。対華21か条要求(日支条約)の無効を唱え支那の後押しをしたアメリカは、この頃から日本への敵愾心を露わにしてきた。
 ドイツ領をめぐる交渉。交渉相手袁世凱の顔を立てて譲歩したことが、アメリカと支那が共同して反日運動を展開する口実をつくってしまった。 パリ講和会議(1919年)は、人種差別撤廃案の国際連盟規約前文への挿入とヨーロッパ軍事同盟的バランス外交とアメリカの一国主義的覇権外交の衝突であった。
 日本が提出した(アメリカの黒人が期待していた)人種差別撤廃案は、賛成多数(16か国中11か国)であったが、連盟規約によって全会一致を要したため、イギリス、アメリカ、ルーマニア、ポーランド、ブラジルの反対によって葬り去られた。このことが、大東亜戦争目的の一つであったと、昭和天皇は「帝国政府声明」で言及されている。
 英米アメリカの横やりにより、南洋諸島ドイツ領は、日本の領土化が反故にされ、委任統治領にされてしまった。
 国際社会で約束したことを守らない支那(内乱と軍閥による複数政府が存在した支那に一国を代表する全権者はいなかった)に加担したアメリカは、最初から日支離間政策をとっていたのである。
 イギリスは国際会議においても、案件ごとに国益を守ることだけを優先させる駆け引きのうまい(老獪な)国である。
参考文献:「米英の東亜制覇政策」「米英の東亜攪乱」「米国の世界侵略」「大東亜の建設」「米英挑戦の真相」大東亜戦争調査会、「戦間期の日本外交」イアン・ニッシュ、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった(帝国政府声明の発掘)」安濃豊
2016/04/27 に公開