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GHQ焚書図書開封 第145回:西尾幹二全集刊行記念講演会3[桜H26/2/5]

2021-04-06 21:24:44 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封】第145号

-大東亜戦争の文明論的な意義を考える-父祖の視座から

 戦後、まったく人気のないジャンルとなってしまった水戸學。 「国体」「尊王攘夷」「大義名分」の言葉は水戸学から生まれたのに、「国体」に至っては現在では国民体育大会と思われている。

 皇室崇拝の念の強い水戸光圀(義公)は、日本復古を企てた。その一環として、支那の詩経をみて、日本の万葉集の注釈書『万葉代匠記』作成を僧契沖に命じ、また、史記を読んで日本の本格的な歴史書をつくろうとした。それが、後の「大日本史」である。水戸光圀から始まって明治39年まで250年かかって完成した。携わった学者は水戸学派。

 当時、幕府には林羅山一派のつくった歴史書「本朝通鑑」があったが、皇室崇拝の光圀はこの歴史書が気に入らなかったのである。それは、支那の呉から天皇のおおもとが来たと書かれていたからである(異説あり)。

水戸光圀が最初に手掛けたのは、皇統正閏(神功皇后を本紀から列伝に移し、大友皇子(おおとものおうじ・おおとものみこ)を列伝から本紀に移し、正閏を正した)のであった、諡号(しごう)は弘文天皇。そして、南朝を正統とした。以降、光圀の亡くなった1700年までを前期水戸學という。

1786年藤田幽谷によって一時途絶えていた水戸学(後期水戸學)が再興された。光圀のできなかった志表(組織、制度)に手をつけたのである。この頃から荻生徂徠、本居宣長の影響もあり、これまでの儒学から日本独自の学問(国学)への転換が行われた。これにより日本人が民族意識に目覚めた。

 世界的にも18世紀に民族意識の目覚めた国家(ドイツ他ヨーロッパ諸国)は、全て近代化を成し遂げている。この時期、民族意識に目覚めなかった国家(支那など)は近代化に遅れてしまっている。

古典の知識をひけらかして、自己主張するのが当時の支那や日本の会議の仕方であったので、文公(水戸治保)に認められた藤田幽谷が、いかに優秀であったかが理解できる。(志学論15歳、安民論17歳、建元論18歳、正名論18歳)

大義名分とは、 
凡そ名分というものは、天下国家にあっては厳正でなければならぬこと。 丁度、天と地を変えることの不可能なるがごとくである。

 天は物を覆い、地は物を載せ、天は高く、地は低い。これと等しく君は尊くおはし、臣は位が卑しいのである。この君臣があって上下があり、上下があって礼儀の落ち着くところがある。

これに反して、君臣の名が正しくなく、今日の君は、明日は臣となり、今日の臣は明日は君となると言う風であれば、上下の分は厳正でなくして尊きものと賎しきものと、その位を変え、貴きものが賎しくなり、賎しいものが尊くなり、強いものは弱いものを凌ぎ、多数者は多数を恃んで少数者を襲うであろう、そうなれば、日ならずして国は亡んでしまう外はないというのである。

賤覇の意を示したと思われ、幕臣として採用されなかった幽谷であるが、その後も封事で何度も自己の考えを主張した。

 水戸家や幽谷は尊皇敬幕であったが、上下関係においては、将軍は天下国家を治める位置にあるのであって、上には天皇を奉戴し、下には諸侯を率いておる。これは覇者の行いであって、断じて王と称してはならないという考えであった。

藤田幽谷は息子の東湖に野蛮人を殺害しろと命令した。東湖はそれに従って行動したが、現地に着いたときには船がもう出航していて目的を果たすことができなかった。

吉田松陰は、藤田東湖の思想を体現した人であった。


関連動画:GHQ焚書図書開封(140回、141回、142回)
参考文献:「現人神の創作者たち」山本七平 「日本思想体系」丸山真男 「訳文 大日本史」山路愛山
2014/02/05公開