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-ユーラシアを2分した英露のグレート・ゲーム-(GHQ焚書図書開封 第136回)

2020-10-25 23:52:14 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封 第136回】

-ユーラシアを2分した英露のグレート・ゲーム-

イギリスの侵略は、南アフリカ、エジプト、アラビア半島、ペルシャ、インド、パキスタン、バングラデシュ、ビルマ、マレー半島、そして中国へと進み、オーストラリア、ニュージランドに手を伸ばし、カナダでフランスと衝突した。植民地においてイギリスのやったことは原住民の虐殺など目に余るものであったが、今日、これらの侵略・虐殺された国々の一部はイギリス連邦を形成しており、イギリス王室に王子が生まれると祝福し、イギリスを尊敬している。不思議な現象である。それに比べ、日本の皇室は謝罪を求められるなど不条理な扱いを受けている。

 帝政ロシアの侵略は、中央アジアを制覇し、シベリアへと進み、チベットでイギリスと衝突、アフガニスタンでもイギリスと衝突した。また、コーカサス地方へと伸びていった。

 「グレート・ゲーム」と言う言葉は、コーカサス~チベットに至る広範囲の地域で繰り広げられたイギリス、ロシアの秘密諜報部員(シークレットサービス)の活躍をチェスになぞらえてキップリングの小説で使ったのが由来だと言われている。

19世紀も終わりになると、ロシアが極東に向かってきて、新興国日本がそれに立ちはだかるという構図ができた。日清戦争で、日本が獲得した遼東半島をロシア、ドイツ、フランスの三国干渉で返還させられた後、すぐにロシアへの租借を許した清国。やがてシベリア鉄道が東清鉄道とつながり満州の危機が迫った。そして、北進事変が発生し、ロシアが17万の大軍を派遣し、制圧したが、そのまま満州に居座った。イギリスはロシアをけん制するため、日英同盟を結び、日本を支援(軍事費は、ユーウェン・キャメロンを通じてロスチャイルドより借入)し、一方、アメリカは1899年のジョン・ヘイの門戸開放宣言にならって、ロシアの満州独占を許さじと、日本を支援(軍事費はジェコブ・シフを通じてニューヨーク金融街から借入)した。この歴史的背景の中でグレート・ゲームがあり、日露戦争もその中に入っている。

 日露戦争が終わると、これまで日本を支援してきたアメリカは反日に転じ、イギリスは台頭してきたドイツに対抗するためロシアと1907年英露協商を結ぶ、一方、ロシアはアメリカを警戒して、日本に近づいてきた。1840年に始まった第一次グレート・ゲームは英露協商締結の1907年で終結した。

1917年、ロシア革命が起き、ボルシェビキが政権を握った。亡命先スイスから戻ったレーニンは第2回コミンテルン大会で、成熟した西欧の民主主義国家で共産革命は無理と判断し、その矛先をアジア極東に向けた。支那、日本、インドがその対象となった。それらに影響を与えていたイギリスが最大の敵とみなした。支那では、それまでキリスト教による反日青年団が作られ活動をしていたが、その青年団を今度はコミンテルンが利用して、アメリカ、イギリスを追い出し、反日共産党を作らせた

 第一次世界大戦が終わった1918年、捕虜としてシベリアに送られていたチェコ軍隊が暴動を起こしたので、その救出のため日本とアメリカがシベリア出兵を行った。その当時、アメリカは共産主義の脅威を自覚しておらず、ボルシェビキよりも日本が憎しとの感情をつのらせていた。

レーニンが東方に火をつけろと行った極東進出は、共産主義のいうところの民族自決主義とはほど遠く帝国主義そのものであった。

 世界最大の諜報機関をもつイギリスは、黙って見過ごすわけにはいかず、ロシアに敢然と立ち向かっていった。これが第二次グレート・ゲームへとつながった。

ロシアの極東侵略は、ロシア革命よりはるか以前の1639年のマックス、ベルフィリエフの一隊がシカルカ河を発見した頃から始まっている。

ロシアコサックの黒竜江住民に対する残虐非道ぶりに対し、清朝は1652~1686年まで34年間にわたってロシアと軍事衝突を繰り返した。

その結果の講和条約が1689年のネルチンスク条約(満、漢、露、ラテン語)である。

その後も世界一長いロシアと支那国境との争いは続き、黒龍江付近の国境確定は2004年まで続いた。

 参考文献:「ソ聯・英・米・佛侵略の跡を顧みて」陸軍少将 小玉與一 「アジア侵掠秘史」桑原三郎  『帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」機密公電明かす、戦前日本のユーラシア戦略』関岡英之

2017/5/10公開