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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-GHQ焚書図書開封の刊行と新事実の発見-(GHQ焚書図書開封 第23回)

2017-02-28 21:25:58 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第23回
戦後、「出版の自由」と「言論の自由」こそ、自由と民主主義の最高の価値と日本人を洗脳している真っ最中に、新憲法に違反してGHQ主導のもと秘密裡に行われた「検閲」と「焚書」。
没収本の対象期間は、1928.1.1-1945.9.2に発行された本で、東京裁判の対象期間と一致する。没収は1946年からサンフランシスコ講和条約(1951年)締結頃まで続いたと言われている。
検閲は、民間検閲部隊(CCD)、プレス・映像・放送課(PPB)、調査課(RS)に米軍6名、日本人9~25人を配置し、組織的に行われた。
焚書リストは、RSが担当し、東大文学部、尾高邦雄(社会科学)、金子武蔵(人文科学)、牧野英一(委員長)、南原繁(戦後進歩派、後の東大総長)らによって作成された。
当時、日本に強力な軍事体制はあったが、軍国主義はなかった。
彼らによって、自分たちの歴史、思想、文学、軍事技術、産業報国は全て偽物で悪しき宣伝と決めつけられたのである。没収行為は、各県警の協力を得て、文部次官通達により秘密裡に行われた。
これによって、日本の行った大東亜戦争の正当性(戦争目的:アジアの植民地解放、人種差別撤廃)をことごとく抹殺し、連合国側の歴史観を日本人に教え、自虐敗戦史観の刷り込みにGHQは成功したのである。


-大川周明「米英東亜侵略史」を読む(ロンドン軍縮協定と日本の曲がり角)-(GHQ焚書図書開封 第22回)

2017-02-28 21:21:54 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第22回
 日露戦争で活躍した秋山 真之(あきやまさねゆき)も影響を受けたアルフレット・セイヤー・マハンの海上権力史論。
ハワイ、フィリピン、グアム、ウェーク、サモアと西へ西へと侵攻したアメリカは世界一流の侵略国家であった。
セオドール・ルーズベルトの時代から、支那(昭和9年時の支那は、人口4億、外国品購入額一人当たり日本の1/10)が投資利益が見込めるマーケットと読んでいたアメリカ。今日でも欧米が支那に対して寛大な対応をしている原因は、市場としての魅力がこの時代と変わっていないからである。
アメリカの進出のターゲットは満蒙であり、ここに支那大陸と相対する太平洋覇権をめぐる日米の確執ができた。
日露戦争で得た日本の利権を横取りしようとしたアメリカに憤懣やるかたない日本。
ハリマンの満鉄買収の陰謀にNOをつきつけた小村寿太郎。サンフランシスコにおける日本人排斥運動など嫌がらせの激化。
パナマ運河は、大西洋艦隊を太平洋に移動させ日本を攻撃するために開通させた。
チェコ軍を救出するために、シベリアに派兵(1917年)した日本に横車を押したアメリカ。
9か国条約(1922年)など次から次へと、日本憎しのアメリカはあらゆる場面で、日本の敵側に回る行動をとるようになった。
ロンドン軍縮会議(1930年)で幣原喜重郎が国民の軍拡感情を軽視し、対米弱腰外交をとった(スチムソンに屈した)ことが、後に国民の反発を買い軍部の暴走を許すことになった。(福田康夫総理は、憲法改正について、中国や韓国のお伺いを立てる必要があると発言していたが、これも弱腰外交のあらわれ)
スチムソンとF・ルーズベルトは、9か国条約、不戦条約違反を不法なる侵略行為とみなすことで意見が一致した。そして、支那蒋介石を支援することを決定した。(義勇軍フライングタイガースの派遣)
アメリカは東亜の門戸開放を要求したが、中南米の門戸開放は認めないという偽善を行っていたし、日本による東亜の秩序を認めなかった。このような状況で米英の衝突を避けることに努力することが賢明であったか?むしろ、これが、日米衝突になる運命であったとも言える。その意味で、司馬遼太郎の司馬史観は戦後パラダイムの中における思想にすぎない。

「弘安四年、蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲(ようちょう こらしめること)を決意し、緒戦において開戦史上振古(しんこ おおむかしのこと)未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条、東より来たれば東條、天意か偶然か、めでたきまわりあわせと存じます」これは昭和16年(1941年)12月14日~19日、思想家の大川周明がラジオ放送で「米英東亜侵略史」を講演したときのくくりの一部です。大川はペリー来航時、アメリカは反植民地であったが、帝国主義への転換し、日本をどんどん圧迫していった流れを国民に説明しました。これは本になりベストセラーになりましたから、当時、日本国民が大東亜戦争をどのように捉えていたかがよくわかります。引用元:ブログ「かって日本は美しかった」より

<参考>
プロイセン王国(ドイツ)の軍人にして、優れた軍学者・兵法家として知られる彼(か)のカール=フォン=クラウゼヴィッツは、死の翌年(1832年)に発表された著書『戦争論』の中で、斯(か)く述べています。即ち、戦争の勝敗は個々の戦闘にあるのでは無く、目的を果たしたか否かで決まる!と。その彼の言葉に従えば、アジア・太平洋に広がる欧米列強の植民地支配を打破し、「大東亜共栄圏」を建設する!とのスローガンの下(もと)、有色人種の雄として、欧米 ── 白人至上主義 ── に挑んだ日本は「戦闘」には敗れたものの、「目的」(植民地の解放と「大東亜共栄圏」の建設を果たした事で、結果的に、日本は大戦に「勝利」した。

参考文献:「米英東亜侵略史」大川周明  「大川周明の大アジア主義」関岡英之


-「バターン死の行進」直前の状況証言-(GHQ焚書図書開封 第21回)

2017-02-28 15:13:18 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第21回
 自虐史観の一橋大学出身森武麿氏は、フィリピンの日本統治時代は悪辣・非道の限りをつくしたと「アジア・太平洋戦争」に書いているが、アメリカ、スペイン統治時代はどうだったかについては一切触れていない。
前線はフィリピン、後方は米国の督戦兵であった(植民地では征服された民族が宗主国の兵として前線で戦わされる)。
バターン半島の戦いでは12,000名の米兵と64,000人のフィリピン兵が捕虜となった。これだけの兵がいて戦わず、白旗を上げた米兵に憤りを感じた日本兵。総司令官のマッカーサがオーストラリアに逃亡してしまったため、米兵の士気が低下したのか?
いつ捕虜から襲われるかも知れない不安を抱きながら一人の日本兵が200~300人の捕虜、難民を引率しなければならなかった異常な実態。
戦争を体験していない一橋大の森武麿教授は、GHQの洗脳政策に沿って、日本国のために命がけで戦った日本兵を貶めるために本を書いた。
自国の独立解放のため日本側についた他のアジア諸国と違い、アメリカ側についたフィリッピン兵の悲しい運命。アメリカ軍が救ってくれると信じて戦線に紛れ込んだ避難民の悲劇。
フィリッピンは占領した日本軍によって戦中(1943.10.14)に独立をした。戦後、アメリカはそれを(1946.7.4)追認したにすぎない。
マニベレスからサンフェルナンド間、たった88キロの行進中に起こった米兵2,300人の死亡。
お互い生きるか死ぬかの極限状態にある戦争中に、何の罪を問えるというのだろうか?

参考文献:「大東亜戦争陸軍報道班員手記」文化奉公会 「アジア・太平洋戦争」森武麿 「兵隊について」火野葦平


-従軍作家が見たフィリピン戦場最前線-(GHQ焚書図書開封 第20回)

2017-02-26 18:05:35 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第20回
 戦後、「バターン死の行進」と非難されたバターン、コレヒドール。肉弾突撃の様子。逃走する敵兵。追撃し、米佐官クラスは逃亡し、738名の捕虜捕縛。戦場で「君が代」を口ずさみながら息を引き取る日本兵の様子。
マニラ陥落後、マッカーサーの命令により、日清戦争後に対日戦争に備え作成されていたオレンジ計画(対日戦争予定表)に従って、バターン半島の要塞コレヒドールに集結した敵兵8.3万と2.6万の避難民。その結果、コレヒドールでは食料不足に陥った。
籠城により体力を消耗しつくした中での100K(マニベレス~サンフェルナンド)の捕虜移動となった。
籠城後の食料不足は、戦場に米軍兵士を残し、ミンダナオ島経由でオーストラリアに逃亡したマッカーサとフィリピンのケソン大統領の作戦ミス。
大型拡声器による投降誘導(I'VE GOT MY EYES ON YOU)。兵隊は死ぬものだと覚悟を決め、突撃する日本兵。
フィリッピン兵に小突かれながら投降してきた督戦隊の米軍将校。デング熱、日射病で倒れる日本兵の様子。
2日間空腹で進軍する日本兵の勇猛果敢ぶり。
作家火野葦平さんの従軍記録は戦場の状況が目に浮かぶように書かれている。
参考文献:「大東亜戦争陸軍報道班員手記-バターン コレヒドール攻略戦-」文化奉公会 「日本の戦争Q&A」兵頭二十八



-仲小路彰の「太平洋戦史」-(GHQ焚書図書開封 第19回)

2017-02-26 10:42:58 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第19回
 GHQに没収された本。現在では入手不可能となった「世界興廃大戦史」。
「太平洋近代史」
第1編 太平洋への西欧の侵入
第2編 日本太平洋圏の近代的形成
第3編 朱印船の英雄
第4編 日本海外発展の消長
第5編 日本船の太平洋横断
第6編 鎖国政策の実施
第7編 明末の日支関係
「太平洋侵略史」1巻
第1編 第十七世紀の西欧侵略
第2編 十七世紀後半より十八世紀の荒涼
第3編 北太平洋の危局
第4編 日本北方問題の悪化
 イギリスのジェームス・クックの日本侵略計画、ロシアのレザノフの日本遠征計画、ペリーの琉球占領計画と日本周辺は欧米列強の侵略の危機にあった。
第5編 日本北進の先駆者
第6編 日本攘夷論の指導者
 林子平の「三国通覧」に小笠原諸島が日本領土であることが記され、それが、ドイツ語、フランス語で翻訳されていたことからイギリス領とならなかった事実。日本の国防を憂慮し、「紙なさの今日の恨みにくらぶれば昔はものをおもわざりけり」と嘆いていた林子平。現在の国防に対する日本人の感覚は林子平の生きていた時代に酷似している。
第7編 日本北進の実現者
「太平洋侵略史」2巻
第1編 英国日本侵略の準備
第2編 蘭学者の海防策
第3編 国防論の実現
第4編 攘夷運動の指導力
第5編 英米対日侵攻の開始
第6編 濠州侵略の拠点奪取
第7編 濠州囚徒植民地化
第8編 濠州侵略の発展
「太平洋侵略史」3巻
第1編 ペリー来航
第2編 ペリー来航の危機対策
第3編 ロシア軍艦の長崎侵入
第4編 国防先の強化
第5編 吉田松陰の出現
第6編 ペリーに対する松陰の概言
「太平洋侵略史」4巻
第1編 ペリーの琉球占領計画
第2編 日本国内の動静
第3編 ペリー第2回来航
第4編 横浜会談
第5編 日本会談の緊迫
第6編 神奈川条約締結
第7編 吉田松陰の投夷行
第8編 下田における吉田松陰
「太平洋侵略史」5巻
第1編 ペルリーの対日謀略の進展
第2編 国内問題の緊迫
第3編 国防論の昂揚
第4編 英米露蘭の対日外交政策
第5編 安政二年の情勢
第6編 ハリスの渡来
第7編 イギリスの豪州侵略の情況
「太平洋侵略史」6巻
第1編 ハリスの強制的談義
第2編 堀田正睦の外交政策
第3編 日米通商条約会談
第4編 日米会談の奏上
第5編 未勅許の日米条約調印
第6編 勅諚降下
第7編 尊王攘夷の志士の憤激
 
参考文献:「アジア侵掠秘史」桑原三郎 「GHQに没収された本」澤龍 「南洋民族侵略線」 「世界興廃大戦史」戦争文化研究所「太平洋近代史」仲小路彰 



マリーゴールド

2017-02-25 14:14:57 | 趣味・特技
2月にはいってほとんどのマリーゴールドはすっかり枯れてしまったが、一本だけ、まだ花を咲かせている。親指と人差し指で茎をつまんでみると、手ごたえがある。枯れた茎は中空になっているためかつぶれる。

- アジア侵略の一全体像(後編)-(GHQ焚書図書開封 第18回)

2017-02-24 07:07:40 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第18回
 侵略の第1階梯はスペイン・ポルトガルを代表とする暴力一点張りの強奪手段による方法で、ロシア、イギリス、フランス、オランダなどのシベリア、インド、ビルマにおける掠奪である。第2階梯はオランダ、イギリス、フランス、ロシアが加わり、国家を代表する商社や貿易会社を先頭にした方法で東インド会社のように自ら軍隊をもって行っていた。第3階梯は侵略を対象とした国や地方を独立国、自治国扱いとし、ロボット政府として支配するもので、主に清朝の支配下にあった、アフガニスタン、イラン、外モンゴル、チベット、ウィグルの名誉を守る形式をとったロシア、イギリスのにる謀略的なものであった。第4階梯はアメリカやソ連のように合衆国とか連邦という名で各国をまとめ支配する方法であった。 
 オスマントルコ帝国の衰亡とともに始まったアフガニスタンとイランの悲劇。
イギリス、フランスが最初にシリア、レバノン、イラン、イラクに侵略を開始した。
イギリスは同時に、アフリカの南端を回り、インド、ミヤンマーへ、フランスはベトナム、ラオス、カンボジアへ、オランダはインドネシアへ、ロシアは各地で南下して侵略を開始した。
シリアはイギリスとフランスの対立の場となり、独立を約束したマクマホン条約を反故にされ、英仏の欺瞞工作の結果、最後にフランスの委任統治国となった。
アフガニスタンは、アブドゥル・ラーマン国王の継承問題を巡ってイギリス、ロシアの紛争地域となり、英露の分割協定の対象となった。
イランはロシア革命後、ロシアの友好的な詭弁である独裁国家の同盟条約によりロシアに隷属する状態に陥る。
イラクは、昭和5年6月30日イギリス・イラク新条約によりイラン同様に不利な片務条約を結ばされた。
新彊は、清朝と露西亜との間で結ばれた明治11年のリパジャ条約、ペテルスブルグ条約でロシアに割譲支配された。
外モンゴルはロシアによる傀儡政府樹立により隷属支配下に落ちた。
西蔵(チベット)は、最初英露からねらわれていたが、英が日露戦争を画策した結果、清朝と英との間のラサ条約によりイギリスから悪辣な植民地支配を受けることになった。
その侵略手段は、インドに亡命していたダライラマを連れ戻し、ロシアの外モンゴル同様、独立と自治を旗印に傀儡政府をつくり支配するものであった。
西蔵(チベット)は第二次世界大戦後、今度は毛沢東の支配下に落ちるという気の毒な歴史を綴っている。
参考文献:『GHQ焚書図書開封2 第九章 503~555/790P』西尾幹二


-アジア侵略の一全体像(前編)-(GHQ焚書図書開封 第17回)

2017-02-22 14:47:35 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第17回
 当時、欧米が侵略国家、日本は侵略されなかった最後の砦であったとの認識を日本人はもっていた。現代人は日本が侵略国家であったという歴史観で洗脳をされている。
昭和16年4月現在、地球上の58%の領土は英米仏ソ連が支配していた。アジアの99%は欧米の手にあった。ロシアは本国の9.3倍、イギリスは本国の97.1倍、フランスは本国の1.6倍、オランダは本国の58.7倍、アメリカは本国の0.04倍、ポルトガルは0.25倍の植民地をもっていた。
 古地アジアの30%しかアジア人はもっていなかった。満州事変後、日本は25%をアジア人の領土に戻した。
 豊臣秀吉時代に長崎の一部がスペイン、ポルトガルに占有されていたが、これを秀吉は許可せず、拒絶・撃退した。更に、秀吉は、ポルトガルの宣教師を呼びつけ、日本人の奴隷化禁止を命じていた。その記録はスペインマドリード歴史館に所蔵されている書物に残っている。
 アヘンを支那人に売った金で、支那人を奴隷として買い、運び、それを売って更に儲けていた欧州人。
 16~18世紀に毛皮を求めてシベリアを東進したロシア馬賊はカムチャッカ、アラスカ、黒竜江まで伸展した。アラスカでは、イギリス、フランス、カナダと衝突した。後に、国力を失ったロシアはアラスカをアメリカに売却した。
 ロシアはその他に、アフガニスタンでイギリスと、日本列島でイギリス、フランスと衝突したが、日本は、内乱を避け、独立を維持した。
 ビルマ西岸のマッサムの内乱を口実に始まったビルマ戦争以降、ビルマ王国を滅亡させられ、イギリスに散々搾取されたビルマ。アウン・サン・スーチはそのイギリス人と結婚している。ビルマの軍事政権は愛国主義者。この時代、中国を敵とみていなかった日本は、イギリス、フランス、オランダに敵意をもっていた。
参考文献:「アジア侵掠秘史」桑原三郎 、  『亜細亜侵略史』、『印度侵略悲史』、『米英東亜侵略史』、『英国の南阿侵略史』、『大英帝国侵略史』、『太平洋侵略史』、『GHQ焚書図書開封2 第八章 449~499/790』


-「米本土空襲」という本-(GHQ焚書図書開封 第16回)

2017-02-19 15:22:40 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第16回
 「米本土空襲」は。ニューギニアのブナ守備隊玉砕、南洋ガタルカナル撤退、アリューシャン列島アッツ島玉砕があった昭和18年に、長距離爆撃機による米国本土空襲を提言していた本である。また、同年には、英米仏の植民地ビルマ、フィリッピン、カンボジアを日本が独立させた年でもあった。終戦後、連合国によってアジア各国は独立したというのはうそである。終戦までに、植民地はことごとく解放され、シンガポール、ボルネオを除いて90%は日本軍によって独立していたのである。終戦と同時に欧米が再植民地化したが、独立機運は高まる一方で、戦後ほどなくして再度独立を認めたのである。
 昭和18年当時の飛行機製造技術では日本から米国本土攻撃をして戻ってくることのできる航続距離(2万キロ以上)を持つ飛行機の製造は不可能であった。しかし、昭和18年11月の「大東亜会議」の報復として長距離爆撃機B29(航続距離6,600キロ)が製造されたことから、その後の航空機決戦の行く末を予言していた提言ともいえる。高射砲(射程6,000メータ)の弾の届かない高度1万メートルを飛ぶB29は、青空をゆっくりと泳ぐ白魚のように見えたと言われている。
 ドイツに対してはナチスの蛮行に対する戦争目的があったが、日本に対しては戦争目的もなく、大義名分もなかった英米。あえて言えば、日本のアジアの植民地解放に対する、英米の反アジア植民地解放しかなかった。
南京陥落後、大宅壮一、木村毅、杉山平助、西条八十、草野心平、林芙美子、石川達三ら120人のジャーナリストが現地に出かけているが、誰一人として南京虐殺を目撃した人はいなかった。
 アングロ・サクソン民族のもつ優越感と自己民族以外を人間と思わない絶滅作戦の残虐性の一端は、その後イラク戦争にも引き継がれた。
参考文献:「米本土空襲」野依秀市 『GHQ焚書図書開封2 第十二章 677/790~741』



-日本軍仏印進駐下の狡猾情弱なフランス人-(GHQ焚書図書開封 第15回)

2017-02-18 13:42:49 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第15回

-日本軍仏印進駐下の狡猾情弱なフランス人-
 17世紀から始まるフランスとイギリスの争い(継承戦争、7年戦争、アメリカ独立戦争)はアジアにおける植民地戦争へとつながっていった。
 フランスは第2次世界大戦中ドイツに敗れ、シャルル・ド・ゴールはロンドンへ亡命し、亡命政権を、本国はフィリップ・ペタン元帥(ヴェルダンの英雄)によるヴィシー政権樹立。ノルマンディ上陸作戦でド・ゴールが本国に戻ってくるまで、二つの政権が存在することになった。
 北部仏印(北ベトナム)の海防(ハイフォン)では、本国ビジー政権の指示に従わず隠匿した援蒋物資(薬品、顕微鏡、電話機、ラジオ、防毒マスク、電信機、ボイラ、測量機、ワワイヤー、レールの山)の横流しを続けるフランス人と支那人、それを防止できない進駐日本軍、総領事と外務省役人。支那大陸で命がけで戦っている日本軍のことを考えていないほどの生ぬるさとも言える。「占領」でなく「進駐」という建前にこだわって、結果的に、為すべきこと(援蒋ルートの遮断)を為さなかったのである。
 南部仏印の西貢(サイゴン)では、人口20万のショロン(提岸)にはびこる5~6万人の反日・抗日華僑の存在。「己あっての国家」というエゴスチックで、ふてぶてしく、至る所にはびこる支那人の本質は当時も今も変わらない。また、英、米、仏、華僑に振り回される日本外務省の(失敗から教訓を学ばない)醜態も当時から変わっていない。
参考文献:「仏印進駐記」大屋久寿雄 「ペタン元帥はかく考へる」訳岡田演之 「仏印縦走記」中野實 『GHQ焚書図書開封2 第六章 301~355/790』



-日本軍仏印進駐の実際の情景-(GHQ焚書図書開封 第14回)

2017-02-17 13:20:26 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第14回
 日本軍の仏印進駐について、現代の歴史書では、日本軍が愚かにも仏印まで進駐したと、まるで悪行をしたかのごとく書かれている。実際は、英米仏による支那の蒋介石政権に対する物資輸送ルート(援蒋ルート)を断ち切るために行った進駐である。
 ドイツに敗れたフランスはヴィシー政権(1940年 - 1944年)となりペタンが元首となった。ドゴールはロンドンに亡命した。本国フランスは第二次世界大戦ではドイツ側であっため敗戦国であったたが、ドイツが敗れた後にシャルル・ド・ゴールが戻ってきて政権についたことから、イギリス、アメリカのお蔭て戦勝国入りしたのである。、
 仏印のフランスの新聞論調は、反英感情を露わにし、一転して日本に協力する内容に変わってしまった。当時、日本はベトナムについてフランスの領土と主権尊重を支持しており、フランスは、道義的、公明的な日本民族の名において約束されたと日本を高く評価していた。
仏印進駐時、在留フランス人は、蒋介石と2,3のヨーロッパ国により合作された悪宣伝の影響を受け、野蛮な日本人、乱暴者の日本人と信じていたため、悪鬼の日本兵と恐れていた。進駐後、伝えられていた日本軍の悪評との違いに驚かされた。「皇軍」としての軍規厳しく、礼儀正しい日本兵の姿に「案外である」との感嘆の声が上がった。
 これらのことが、正しく伝承されておれば、旧日本軍に対するゆがんだ戦後感の是正に役立っただろう。戦後、GHQにより旧日本軍を称賛した本の全てが焚書対象となったため、過去の正しい歴史との断絶をもたらした。
最後に残ったのは、支那の一方的な悪宣伝による悪評だけだった。ここから日本人の「敗戦自虐史観」が生まれた。
「国際連盟脱退」と並んで「仏印進駐」を暴挙とみるか、正当性のある行動とみるかによって、歴史学者の間では意見が分かれている。
参考文献:「仏印進駐記」大屋久寿雄


-オランダのインドネシア侵略史②-(GHQ焚書図書開封 第13回)

2017-02-15 16:25:00 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第13回
 植民地支配の第1段階は、脅し、殺戮などの弾圧。第2段階は統一国家でないことによる内部矛盾を利用して内部対立を起こさせ、互いの力を相殺させる。第3段階は、甘言、近代的政策や文明を与える。上流階級に高等教育を与え慰撫する。などにより統治する。
 5年に亘るジャワ統治(1811-1816年)に手を焼いたイギリスはインドネシアの統治権限をオランダに譲った。
ベルギーと戦争するための資金源として、オランダは過酷な耕作制度(1840年)を強行した。やがて、土人は飢饉と疫病の流行に対する無言の抵抗として、居住地から脱走するようになった。
 オランダ領になったシーレーンのマラッカ海峡は、フランス、イタリア、アメリカから狙われることになった。アチエ戦争(1873-1908年)はこういった背景のもとで起こった。40年に亘る戦争でオランダは国力を消耗した。
 アチエの酋長サルタンは、アチエ戦争後も、日露戦争に勝利した日本に接近し、1907年逮捕されるまでオランダに抵抗し続けた。その抵抗の流れが、インドネシア解放につながっていくのである。大東亜戦争時、インドネシア人が日本に協力し、また、戦争後、数千人の在留日本人がインドネシアの独立解放戦に参加したことは、アチエ人の日本への関心がいかに強かったかをあらわしている。
 イギリスは、常にオランダがフランスやアメリカと手を組むことを警戒した。イギリスは、アチエ戦争ではアチエとオランダを戦わせ、日露戦争では日本とロシアを戦わせ、大東亜戦争では日本とアメリカ、オランダとを戦わせる役割をしていた。
参考文献:「蘭印侵略史」デ・クラーク 「蘭印・仏印史」大江満雄

【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月8日午後0時20分
大日本帝国政府発表

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700

引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)、


-オランダのインドネシア侵略史①-(GHQ焚書図書開封 第12回)

2017-02-13 13:42:18 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第12回
 香辛料の産地であるモルッカ諸島をめぐるスペイン・ポルトガルの争い。大スンダ列島は同一宗教、同一民族、政治形態の類似性、華僑の移民など共通点があるのに、支配者によってインドネシア(蘭領印度支那)とマレーシア(英領印度支那)の2国に分断された。
1824年のロンドン条約は現地人権利無視の、支配国間の権利の住み分けを決めた条約だった。2国(オランダ、イギリス)の支配は、日本による植民地解放戦争(大東亜戦争)まで続いた。
 欧米の言う「国際化とは」全体の利益になれば敵対国と手打ちをすること。その際、現地人には一切の権利を与えず、搾取のみを行うというものであった。
 欧州の内戦が沈静化し、開かれたベルリン会議以降、欧米本国への富の還元のため、戦いの矛先はアジア分割、アフリカ分割へと進むことになった。アジアに道徳は不要という考えで、現地人虐殺が行われた。蘭領印度支那ではオランダ人総督ファン・デン・ボッシュによる強制栽培(砂糖、藍、コーヒー)が優先され、現地人の食料の米が作れなくなった。そのため、貧困と餓死が定常化する。
 現地島民はジャワ戦争(欧州人排斥戦争)で敗れたため、戦争忌避状態になり、平和(命乞い)を求め、過酷な搾取にも耐えるしかなかった。平和宣言=暴圧に屈服する状態の維持。
 1848年のフランス2月革命でオランダ本国も他の欧州諸国同様に自由思想(自由と人民の幸福)の影響を受けたが、植民地現地人には適用されなかった。茶、胡椒、藍などの強制栽培の禁止は1861年、コーヒーの強制栽培の禁止は1915年まで待たなければならなかったのである。「自由」「平等」「友愛」は欧州人のためのものであり、植民地現地人のためのものではなかった。

キーワード:蘭領印度支那、東印度、爪哇(ジャワ)、英蘭ロンドン条約、ジャワ戦争、普仏戦争、普墺戦争、
参考文献:『蘭印・佛印史』大江滿雄、「蘭印侵略史」デ・クラーク、『GHQ焚書図書開封2 第3章 137~189P/790P』