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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-真夏の夜の自由談話Ⅵ ~ 安倍総理の70年談話について2-(GHQ焚書図書開封 第187号)

2022-09-24 13:47:36 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封】第187号

真夏の夜の自由談話Ⅵ ~ 安倍総理の70年談話について2

第一次世界大戦のドイツに対する報復として、今度戦争が起きたら国際司法裁判所において敗戦国を戦争責任で裁く方法をルーズベルトとチャーチルの大西洋洋上会議で決めていた英米。

「侵略」の定義があいまいな1928年の不戦条約の法的根拠がニュルンベルク裁判、東京裁判を支配した。

正しい戦争という観念が、力のある者が力のない者に対して神の立場にたって上から裁くことを生み出した。この考えは、3,4世紀の聖アウグスチヌスの「正しい信仰に導くためには、暴力的な手段を取っても許される」というキリスト教的信仰からきている。

戦勝国は敗戦国(悪い国)の主権侵害、内政干渉をしても良いということ。

国際法の父フーゴー・グロチウスが「戦争と平和の法」の中で述べた「争う2つの国家の上に裁きの場がある」という考えが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の戦間期に採用された。

「武器貸与法」という中立国がしてはならない国際法違反の法律をつくったロバート・ジャクソンがニュルベルグ裁判の主任検事をし、その考えを受け継いだキーナンが東京裁判の首席検察官を務めた。

「攻撃」(aggression)を東京裁判で「侵略」と誤訳したことから漢字圏の国々の間で残虐な侵略(invasion)と同じ意味にとられ広がってしまった。

現代世界は、平和の名において地域戦争、代理戦争が行われている。

核を持たない国は、核を持つ国に威嚇される運命にある。

その淵源は「不戦条約」にある。そして、戦争が起きても常に大国は処罰されないということである。

※安倍総理の70年談話内容(首相官邸HPより)

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

                     平成二十七年八月十四日

                     内閣総理大臣  安倍 晋三

参考文献:『膨張するドイツの衝撃』西尾幹二、川口マーン恵美、『日米開戦 陸軍の勝算「秋丸機関」の最終報告書』林 千勝

2015/09/23 に公開


-真夏の夜の自由談話Ⅴ ~ 安倍総理の70年談話について1-(GHQ焚書図書開封 第186号)

2022-09-23 17:29:24 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封】第186号

-真夏の夜の自由談話Ⅴ ~ 安倍総理の70年談話について1-

書き出しは、「帝国政府声明」に沿った戦争目的のアジアの植民地解放を匂わせながら、途中から一転して東京裁判史観を踏襲した安倍談話。

これは、21世紀構想懇談会座長の北岡伸一氏の敗戦自虐史観の影響を受けた内容であった。

 開戦5年前の昭和11年、地球上の60%は英米仏ソの4か国の領土であった。日本の人口は世界人口の1/30の7,200万人、占領地は0.25%。そんな中で、ブロック経済化により日本に制裁をかけた連合国に対し、自存自衛、欧米からのアジア植民地解放、人種差別撤廃の願いとアジア経済圏構築を求めた日本を、英米本位の世界秩序を乱すものとして悪者扱いにした。

 戦争が起こった要因は経済的な面だけでなく、4つのイデオロギー

①ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、南アメリカなどのファッシズム、

②ロシア、中国、ベトナム、キューバ、カンボジアなどのコミュニズム

③アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダなどの白人文明覇権思想(帝国主義)

④日本を中心とするアジアはひとつという思想(防衛思想)の対立も考慮に入れなければならない。

 第1次世界大戦の敗戦国ドイツを「戦争責任」で処罰できなかった英米の怨念がニュベルグ裁判、東京裁判で晴らされることになった。

 第二次世界大戦後、ドイツは、侵略戦争に対して謝罪していない、ナチスのやったことに対して責任をとっただけ。

 日本は、侵略戦争だったと決めつけられ責任を取らされた。

 「政治」と「外交」と「歴史」は違うとの安倍首相の見解がせめてもの救い。

 

※安倍総理の70年談話内容(首相官邸HPより)

 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

  百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

  世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

  当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

  満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

  そして七十年前。日本は、敗戦しました。

  戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

  先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

  戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

  何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

  これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

  二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

  事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

  先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

  我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

  こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

  ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

  ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

  戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

  戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

  そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

  寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

  日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

  私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

  そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

  私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

  私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

  私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

  私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

  終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

                      平成二十七年八月十四日

                      内閣総理大臣  安倍 晋三

人種差別撤廃:https://www.youtube.com/watch?v=zcaxTojnFSc

 引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)

 参考文献:『膨張するドイツの衝撃』西尾幹二、川口マーン恵美、

『日米開戦 陸軍の勝算「秋丸機関」の最終報告書』林 千勝

2015/09/09 に公開


-真夏の夜の自由談話Ⅳ ~ ドイツよ、日本の「戦後処理」 を見習え-(GHQ焚書図書開封第185回)

2022-09-17 05:27:53 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第185回

 真夏の夜の自由談話Ⅳ ~ ドイツよ、日本の「戦後処理」 を見習え

日本を自分達の歴史の共犯者にしたいドイツ。

 日本の外務省は白痴集団。

 韓国の跳梁跋扈を許したのは、朝日新聞が1995年「深き淵より/ドイツ発日本」の連載を始めた時からだ。

その中で、ハーフ元駐日大使は、ドイツ軍がウクライナでソ連からの解放軍として迎え入れられ歓迎されたが、すぐに支配的になり嫌われた例をあげ、日本も東南アジアで同じことをしたことに反省すべきだと述べたが、日本は東南アジアの国々から嫌われただろうか?

ヒットラーのプログラムでは全ユダヤ人の絶滅の後、全ポーランド人、全ウクライナ人、全ロシア人の絶滅が予定されていた。

 一方、日本は東南アジアにおいて、全フィリピン人、全インドネシア人、全インドシナ人の絶滅など一切考えていなかった。

 歴史的事実に違うことに対し、堂々と反論しない日本の政府要人。海部首相も江沢民から戦争中の事に対してドイツの元駐日大使の発言を引用され非難されたが、ナチスと日本とは違うとはっきり反論しなかった。

ドイツは、ナチス独裁が選挙によって維持された20世紀型テロ国家であり、SS(突撃隊)、SA(親衛隊)、強制収容所、秘密警察が存在した。

 一方、日本は神権国家であり、指導者と国民が一体となっており、一種の運命共同体であった。

1992年7月の日弁連(共産主義者が指導)のシンポジウムで慰安婦問題とドイツの個人補償がテーマにされ、今日まで続く慰安婦問題に火が付いた。

ドイツは分断国家だったため、どの国とも講和条約を結んでおらず、国家賠償をしていないので、個人補償で解決した。

 日本は旧交戦国と講和条約を結び、国家賠償を済ませ解決した。従って、個人補償をする必要がなかった。

 後に、ギリシャ、イタリアがドイツに対して国家賠償を求めて裁判を行ったが国際司法裁判所で敗訴している。その理由は、余りにも時間が経ちすぎているし、戦後ドイツがヨーロッパに貢献したことを考えれば、遅きに失したというものであった。これは、韓国や中国の日本に対するものと随分違う結果であった。

 反日日本人や、反日マスコミに扇動された無知な国民が日本を貶める行為をやっている。

ドイツは、国家賠償をしようとすればできただろうが、ドイツ民族全体に関わる集団の罪は認めたくなかった。戦争犯罪の罪は個人の犯罪とし、ナチス指導者や実行犯に責任転嫁した。個人の犯罪だから国家賠償とせず、個人補償としたのである。

 戦後、日本はアメリカのマーケット〈一時は貿易収支の4割に達した)と取引することで復興したが、ドイツは隣国フランスなどヨーロッパ諸国との取引(7割を占めた)によって復興した。ドイツにとって隣国はフランスであったが、日本にとっての隣国はアメリカであった。また、ドイツにとってのロシアは日本にとっての中国であり、ドイツにとってのポーランドは日本にとっての韓国といった力関係であった。

 新生ドイツは、ナチスから解放された被害者であって、過去のドイツでないとうそぶくドイツ。新生ドイツ青年男子の50%がナチ党の協力者であったことは事実なのに・・。

ドイツの哲学者カールヤスパースは「責罪論」で国家は道徳的責任を負わず、政治的責任を負うとし、道徳的責任を個人に負わす理論を確立しドイツ民族を救った。

 参考文献:「膨張するドイツの衝撃」西尾幹二、川口マーン恵美

2015/08/26 に公開


-真夏の夜の自由談話Ⅲ ~ EUの全体が見えないドイツの 暴走-(GHQ焚書図書開封第184回)

2022-09-13 15:23:03 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第184回

 真夏の夜の自由談話Ⅲ ~ EUの全体が見えないドイツの 暴走

EUが人の移動の自由を許してしまった結果、南の国のコンピュータ技師など頭脳労働者は北の国の金になる仕事を求めて、移動し北の国に定着してしまった。

 実際、ドイツには、イタリア人60万、ギリシャ人33万、スペイン、ポルトガル人10万住み、ドイツのために働いている。北欧の国々も同様である。

EUにおけるドイツの位置は、日本における大都市東京と地方都市との関係に似ている。違うのはEUは一つの国家でないことだ。

 日本が地方交付金で廃れた地方都市を支えるのと同様にユーロ安で独り勝ちしているドイツは疲弊した南ヨーロッパ、東ヨーロッパを援助する義務がある。

 金融危機に対し期待していたグローバリズム(人、モノ、金の自由化)は無力であった。

ギリシャ、スペインの不始末でユーロ安になり、安い労働力を移民で受け入れたドイツが独り勝ちし、労働力を失った国家側は疲弊する一方の経済構造。

 軍事力の背景の無い通貨統合は危険であることが証明された。

EUを隠れ蓑にして東ヨーロッパへ覇権拡大、スターリニズム中国への急激な接近を目論むドイツ。

 中国の株暴落など中国のマイナス面を報道しないドイツのメディア。

EU離脱派(イギリス、ハンガリー)残留派(ギリシャ、イタリア、スペイン)、EU維持派(スェーデン、バルト三国、ポーランド)、EU加盟希望(ウクライナ)

EU圏内でドイツと戦うにはEU離脱しかない。

8,000万人のドイツの人口の20%(1,600万人)が外国人労働者(帰化人を含む)となっており、やがて、多民族国家に変貌しドイツ独自文化の維持が困難となるだろう。

トルコ人は同化している。ドイツ国内ではアラブ諸国出身でドイツ国籍をもったイスラムのウルトラ過激派サラフィストに悩んでいる。

 参考文献:「膨張するドイツの衝撃」西尾幹二、川口マーン恵美、「ディープステート」馬渕睦夫、「THE ROTHCHILD」林千勝

2015/08/18 に公開


 -真夏の夜の自由談話Ⅱ ~ 閉ざされた韓国文化と日本-(GHQ焚書図書開封第183回)

2022-09-10 14:59:08 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第183回

 -真夏の夜の自由談話Ⅱ ~ 閉ざされた韓国文化と日本-

 約束を守らないのは、韓国も北朝鮮も同じ。韓国も北朝鮮も全体主義国家。

ドイツは典型的な反日国家。日本は掟を持たない国。神神習合は主体的な宗教。

 中韓は全く近代国家ではない。「自国の批判をする韓国人は存在を許されない」と韓国人作家 金 完燮(김완섭、キム・ワンソプ)まで弾圧する全体主義国家の韓国。

 韓国反日の理由は、日本統治だけではない。歴史、宗教等の文化的な要因がある。

 本貫、族譜によって管理される韓国。

 両班、中人、常民、賎民の階級社会が韓国。日本人は最下級の奴隷階級と考えている韓国。

 日本文明は外交遮断型文明。

 韓国文明は自己中心的で客観性がない。

 価値とルーツを混同する韓国の小中華主義的発想。

 韓国の知性は落下しきっている。

 日本には命令する、決定する、判断する絶対的な神は存在しない。

 日本の鎖国は10世紀からはじまっている。

 戦国時代後の鎖国は第一の開国。

 朝鮮半島は中国とやりあって最後は呑み込まれた。

 日本は鎖国によって独自の文明を作り上げた。

 日本は中国に対して鎖国をしていた。西洋文明には薄目で注目していた。

 日本には中国文明を断固拒絶する思想が育っていた。

 韓国では中華よりも小中華が偉大であった。

 筑波大古田博司氏の「教えず、助けず、関わらず」が対韓外交の基本

 韓国に何度も騙され続けてきた日本

2015/7/29公開


-真夏の夜の自由談話Ⅰ~ユネスコ歴史遺産登録問題-(GHQ焚書図書開封 第182回)

2022-09-04 13:05:12 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封】第182回

-真夏の夜の自由談話Ⅰ~ユネスコ歴史遺産登録問題-

 軍艦島の世界遺産登録について、古田博司氏呉 善花(オ・ソンファ)氏が警告した通りになった。岸田文雄外相と菅義偉官房長官が日本国民向け発言した内容とは真逆に、外国では日本の恥部として報道されている。自民党の額賀福志郎、二階俊博、森喜朗氏の対韓、対中姿勢が日本を苦境に追い込んできた。ドイツは元々反日国家であった。そのドイツを利用して日本を貶めた韓国。古田博司氏の「教えず、助けず、かかわらず」が対韓外交の基本ではないだろうか?

 外国に対する広報活動(日本語を英訳するなど)に金をつぎ込むべきで、「クールジャパン」などの宣伝用建物に700億使うべきでない。

 日本の立場、意見を広報する外国向け放送にほとんど寄与していないNHKは解体すべきだ。

 663年の白村江の戦いで百済の王侯などが、日本に流入したが、当時の日本の人口は500万で、流入した人口は1,000~2,000人程度で、日本に同化していった。

縄文尺(長さの基準。35センチ)が存在したこともわかっている。この尺は、福井県から北海道に至る縄文時代の他の大型住居跡にも当てはまる。

前方後円墳は、日本列島全土を覆っている。言語も違う。琉球語は日本語との類似性があるが、朝鮮語とアイヌ語は、日本語と全く別物。

参考図書:「絶滅危惧種だった大韓帝国」安藤豊

2015/07/15 に公開


-破戒-(GHQ焚書図書開封 第181回)

2022-09-03 21:43:10 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第181回

-破戒-

■母と共に

四方八方の敵トーチカ陣地から、集中射撃を浴びながら、○部隊の勇士たちは、ひしひしと敵陣に肉迫していった。すべては火であり轟音である。

 潅木の蔭から、二三米先の砲弾の落下穴まで突撃しようとした途端、軽部上等兵は、破片弾に左下腹部を削られ、どっと崖下に転がり落ちた。踵を返して、同じ穴に突っ込んだ村井安一上等兵が射撃中、死んだと思った軽部上等兵が、崖を上って這いこんできた。下腹部を押さえて、

 「縛ってくれ」という。

 腸が露出しているのを手で押し込んでいる。直ぐ三角巾で縛ってやると、苦痛な顔も見せず微笑さえ浮かべて、ポケットからお守袋を取り出した。

 「俺が倒れたら、これを頼む。シンガポール入場式を、この袋にみせてやってくれ。」

と、村井上等兵に手渡すと、後方へ下がって治療せよとの勧めも聞かず、またもや手榴弾を握って前進した。

 一物もない原っぱを、遂にトーチカへ辿りつき、軽部上等兵は、銃眼から手榴弾を投げこみ、護国の神と化した。4:56

さて、お守りの袋の中には、一枚の母の葉書が入っていた。

 「・・・・見送りには行けないが、命をささげてご奉公して下さい。お召しがあった日からお前の命は、もうお国に差し上げたものと覚悟しています・・・」

という意味が、素朴な鉛筆書きながら、わが子を励ます健気な母の赤心があふれていた。

 我々は最後のひとりとなるまでも、このお守りを渡しあって、一緒に入城しよう。

 基地の戦友たちは、誓い合った。

この母に、この子あった、日本は神戚の国である。日清、日露、満州、支那事変、いつの時代にも、勇士を生んだ母は実に多い。7:06

 

 ■手紙

 開戦三日目の12月10日のことである。

マニラ上空を、某一飛曹機は縦横無尽に荒れ回っていた。逃げる敵機に食い下がって、叩きつけていたが、遂に敵弾をうけてしまった。

 隊長機は、しきりに帰還を合図したが、某一飛曹機は必死の操縦を続けているうちに、力尽き、隊長に対して決別の挙手の礼を残し、にっこり笑うと、敵機めがけて体当たりをくらわし、諸共に壮烈な最後をとげてしまった。その二日後の攻撃に際し、某一飛曹の散った洋上に、僚友は花束を投げて、空から英霊を慰めた。

 戦死した一飛曹の母親から、僚友たちへ宛てた手紙が届いた。

 「1月2日公報に接しましたとき、もしや醜き最後をとげたのではないかと、それのみ案じておりましたが、色々とお話を承り、いささか安堵いたしました。

 何よりも残念なことは、大東亜戦争開始早々に死んだことです。せめてマニラの陥落を見るまで存命、いささかの武勲を樹てて、皆様のご期待に沿いえたら、本人もどんなにか満足して死んだことと思います。この上は長男も軍人として、現在北満の野にあり、弟も軍人として、あの子の足りない分まで、ご奉公いたさせますれば、若くして死んだあの子の儀は、なにとぞお許しくださいませ。銃後国民として辱しからぬよう努めておりますればご安心くだされたく、お願い申し上げます。」

 敵機も、敵弾も恐れぬ勇士が、この母の手紙には泣いたという、偉大なるは日本の母の力である。

 日清戦争当時、『水兵の母』という話があったのを思い出す。肺腑をえぐる母の赤心、或るときは暖かき陽のごとく、或るときは峻厳なる鞭となり、子を思い、子を鍛え、己の身を削る。

 

 ■母の力

 明治維新前の風雲急を告げるさなか、井上聞多は城下にて、怪漢に襲われた。兄が駆けつけた時には、もう聞多は虫の息だった。聞多の友人、所郁太郎が荒療治をしたが、人事不肖は長く続いた。やがて意識づいた聞多は、しきりに手真似で、

 「首を斬ってくれ。」

 兄も情に忍びず、首背(うなづ)いて刀に手をかけた。

その時である。駆けつけてきた母が。

 「エッ、待っておくれ、何というお前は恐ろしいことをする。まだ息のある弟を、刺殺そうなどというのは、容易ならぬこと。殊にわたしの眼の黒いうちは、たとえ如何なることがあっても、そういう理不尽なことはさせませぬ。殺すならこの母を殺しておくれ。」

 言々句々実に血の涙であった。さすがの兄も思いとどまったが、更に母は、

 「わたしの力で、必ず元のからだにしてみせる。」

 必死の母の力は、一日一日と効きめを現して、やがて日ならずして、聞多は治癒した。

この母の力あってこそ、明治の元勲として、偉大なる功績を残した井上馨があったのである。18:20

 

 ■鑑識

 有名な両替屋の伝説に言う。

 両替屋渡世には、金銀の良し悪しを見分けるのが、第一肝要なので、この見分け方を、初心の小僧に教えますには、初めから悪銀を一度も見せず、良銀ばかりを毎日見せまして、しっかりと良銀を見覚えたときに、それとなく黙って悪銭を見せますと、忽ち一日で見破ること、鏡に照らして物を見るようでございます。今まで最上の銀をしっかり見覚えていたからなので、このように教え込んでおきますと、この小僧、一生の間、悪銀を見損ずることはござりません。22:20

 

 ■子を鍛ふ

武蔵忍の城主阿部正武の長子正喬が、朝夕に父正武の食膳の給仕をする。しかも極めて丁寧であった。

 正武の食事が済んだ後、正喬は次室で食事をするという習慣であった。

さる人が正武に言った。

 若様はいつも次室で食事をされますが、あれでは気の毒ではありませぬか。

 正武、打ち笑って

「正喬が私に仕える有様を、私が亡父に仕えた有様と比べると、殆ど比べものになりません。親子の情として誰でもその子に楽をさせようとするが、しかし年若い者が自分で勤労しないで、善事をなし遂げるものは少ない。年若い時から労苦に慣れるのは、

 他日官に仕えて立派になる道で、ただ人の子としての礼ばかりではありません。と答えた。

 

 ■新宅

 同じような話がある。

 某出版会社社長、副社長である長男に嫁御を迎えたが、新婚の新宅は、何と経営会社の狭い二階とあった。

そこで一社員が、

 「いくらなんでもそれでは、お二人がかわいそうじゃありませんか」

すると、社長、意外な顔をして、

 「いや、いけませんな、うちの会社へ、子供が新居を構えるのは、正道です。30年前私が、新居を構えたのもあそこですからなぁ。それが本当です。長男が十分住み慣れたら、次は次男の番ですよ。アハッハハ・・・」

 社長大笑いして、頗る満足げであった。

 社員も、なるほどと首背いて、これも大笑いしてしまった。

 

 ■五分前

 海軍の伝統的な言葉に、『五分前』というのがある。

 「課業始め五分前ッ」

 「総員集合五分前ッ」

と、いう風に、何か始める五分前までには、すべての準備を整えて、応

じ得る姿勢になっていることだ。

 今日の我々の生活にも、この五分前の準備姿勢が緊要である。

 

■かくてこそ

秀吉が山陰山陽を攻めた時、某城主の二木某という者が、内通しようと約束して、その人質に自分の長子を渡した。

 秀吉はそれを信じ、彼の指図に従って攻め入ったが、それは謀計であったため、さんざんに打ち破られ、命かながら逃げ帰った。

その後、秀吉はこの城を攻落したが、謀主二木を捕らえることが出来なかった。賞を懸けて求めたが、行方は知れなかった。

 後年、小田原城落城のとき、彼を捕らえる者があって、秀吉の面前に連れてきた。

 彼は嬲(なぶ)り殺しにでもされることであろうと、覚悟を決めて来たが、まことに意外にも秀吉は、「汝は長子を人質としてまでも主に尽くそうとしたのは、世に稀なる忠臣である。

 今後は、予に対しても斯くあれよ。」

 却って彼を賞し、三千石を与えて臣とした。

 

 ■破戒

 梅痴和尚は浄土宗の僧で、詩佛、五山などと風流の交をなし、徳名一世に高かった。

たまたま寺に土木のことがあって、幕府から役人が、監督にきたが、一役人、和尚に、「今日寺の床下を検したところ、魚の骨が狼藉たる有様で捨てられてある。これは思うに山内に必ず破戒の僧があるためであろう。よろしく詰問してその實を調べ、上に陳述しなければならぬ。」と申し出た。

これを聞くと梅痴、ちょっと驚いたように顔を歪めたが、やがてかんらからと好笑して言った。

 「今の小僧は役に立たぬ。老僧などの若い時は、魚の骨や頭は、残らず喰うてしもうたものじゃがなぁ」

 役人は、暫く呆然としていた。やがて帰って早速、上官にその由を告げると、

 上官もまた微笑しただけで、事は済んでしまった。

それから間もなく梅痴は、一山の衆僧を集めていった。

この頃、床下より魚骨が多く現れ、それを幕吏が詰問しようとしたが、老僧は身を以って汝らを救うた。汝らに良心あらば、悔悟してよかろう、そして再び清戒を犯してはならない。」

その言辞悲痛、涙また下る有様であった。座にあった破戒僧は慟哭して罪を謝し、生涯、不如法の行なからんことを誓ったという。

 

 ■官紀厳粛、吏道刷新

 武将堀左衛門督秀政の話。

 城下の町の辻に、

 「秀政どのあしき仕置條々・・・。」

と、大書した立札を建てたものがある。仕置の事二十三箇条にも及んでいた。

 目付出頭人などが相談して、秀政に見せ、懲らしめの為なれば、きっと詮索あって、法度に行わるべしと申出でた。

 秀政、その札を、つくづくと見ていたが、ふと立って袴をつけ、手を洗い口を漱いで座に還り、その札をとって三度戴き、

 「今誰ありてか、われにかくまで諫言するものあるべき、これは偏に天の与え給ふところなるべし、永くわが家の重實 にせん。」

 美しい袋に入れて函に蔵し、その後 代官たちを集めて、それぞれ仕置を改めた。

 日本的人間の雅量である。

 

■もちいるの道

 酒井備後守利忠、川越の地に大名となった。すると備後村に庄屋があり、代々備後を名乗っている。同じ名なので、改めるように命じたが、庄屋は更に従わず、そのまま三年過ぎた。

その庄屋の納貢、課役、すこぶる忠実であった、その後、利忠が領内を巡視のとき、備後村に行くと、呼び寄せて「上と下と同名は、いかにも礼にそむくぞ、速に改めろ。」

 厳しく云いつけると、

 「私、何の落ち度があって、祖先からの名を改めましょうや。それとも、この村の務が他村におくれをとっているならば格別、さもなくば君御自身こそ、御改名あって宜しかろうと存じます。」

 頑固真剣に、無礼を言い張るのを、利忠は庄屋の顔色を見ると、まさしく忠実一徹の男らしい。

そうか、それならば自身は、この封内の備後、お前は一村の備後、こういうことにしておこう。

 頑固な庄屋、ハッと平伏したまま感激し、その後更に忠実を励んだという。

これを伝え聞いた家康、例の如く莞爾として、

 利忠、わしのとおりにやりおるのう。川越は長くおさまる。45:30

 

 ■法

 乃木学習院長は、同時に軍事参議官でも会った。山田副官が、参議官への所用があって、学習院の院長室に訪ねて行くと、

 「ちょっと待ってくれ。」

 「は。」

 「こちらへ来てくれ。」

 院長室を出て、長い廊下を歩いて、遠い、本館の応接室へ入ると、

 「さあ、聞こう。」

 応接室以外で、来客と会うことを、生徒たちに禁じてあるからだった。乃木院長にとって、自分の副官も客であった。

 

■ 無方法

 小使が、学習院長乃木大将の居室や寝室へ、用をたしに入っていくと、大将は、

 「私のことは私がする。呼ばなければ、来なくともよろしい。」

すべて自分の手で始末してしまう乃木大将だった。ある日、大将が小使室へツカツカと入ってこられると、小使が云った。

 「何か御用でございますか。」

 「ああ、茶が飲みたくてな。」

 「お茶でございますか、それならお呼びくだされば、持ってまいります。院長閣下が小使室などへ、お出向きなるものでございません。」

 日頃のシッペイ返しのつもりで、思い切って云うと。

 「ウン、そうか、参った。私の室へ茶を一つ持ってきてくれ。」

ニコニコしながら、あわてて帰っていかれた。今まで頑固一方の院長閣下だとばかり思っていた小使は、全く心から服してしまった。

 人を心服させるのに、方法はない。

 

 ■行事

どうも云うことをきかない子を、もてあましていた知名の人が、乃木大将に揮毫を乞うて云った。

 「閣下の御教育の方針を、お願いいたします。私の部屋に戴いておくので。」

 「さあ、方針といって。」

しばらく考えていられたが、やがて紙を染めた。

 教人以行不以言(人を教ふるは行を持ってし言をもってせず。)

 以事不以理(事を以ってし理を以ってせず)

 訓示めいた言葉と、理屈ばかりで、子供や下のものを従わせようとしていた。

その知名の人は、心の中で頭を書いた。

 

■カビ

降り続く五月雨を見て、乃木大将は狂歌を作った。

さみだれにものみな腐れはてやせん

鄙(ひな)も都もカビの世の中

これに註して、『黴、華美、音近し』と書き添えた色紙が今に残っている。

いわゆる上流家庭の華美な生活を、乃木大将は、極端に嫌って、やはり狂歌を作った。

ペンキぬり門内さくら花だらけ

亭主ハイカラ嬶(かかあ)おきやんなり

土曜から日曜にかけて、那須野の山荘へ行き、爐をかこんで近所の農夫たちと話すのが、大将のむしろ真面目だった。中に『閣下』というものがいると、手を振って

「オイ、それはやめてくれ、わしは百姓じゃよ。」

 畑で野菜類をつくるのが、大将は殊(こと)に上手だった。稗飯を常食にし、鰯の目ざしがご馳走だった。

 銀座あたりには、まだ奇怪な化物がいるといい、日本に国籍があって、性格は外人のそれであるというのを、将軍は殊(こと)に嫌った。

 参考文献:「日本的人間」山中峯太郎

2018/12/05 18:00に公開

 

意思