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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-歴史を動かしたのは「民族」ではないか-(GHQ焚書図書開封 第78回)

2017-06-24 15:14:59 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第78回
-歴史を動かしたのは「民族」ではないか-
アメリカ合衆国がアメリカ民族と言えるか?ソビエト連邦がロシア民族と言えるか?支那が支那民族と言えるか?いずれも、多民族の集まった集団。
長野朗はこれらアメリカ、ソ連、支那の集団間の争いを「民族戦」と称した。
アメリカ民族の西漸習性(布哇⇒比律賓⇒重慶)、ロシア民族の東進習性、支那民族の膨張習性が戦争を引き起こした。大きくみると、米露支の三国のエゴイスティックな膨張主義(ヘゲモニー、大国主義、覇権主義)の争いであり、理屈では説明のつかない民族のエネルギー力である。

■各国の対支政策については、以下の3つのパターンがあった。
 ①アメリカはすぐに軍事力を使わない(商人⇒宣教師⇒外交官の順に送り出し、文化政策と資本進出で平和主義を主張した)
 ②イギリスはすぐに軍事力を使う。
 ③日本式

■民族発展の方向、
 アメリカの東守西進(ヨーロッパからの侵略を阻止し、西に門戸開放を求めるジョン・ヘイの思想)、支那の北守南進(万里の長城を築くなど北からの蛮族の侵略を阻止し、南に領 土拡大を図る)であった。
アメリカの支那進出方法は3コースあった。
 ①中央コース:上海を中心に直接文化侵略。日清戦争後は支那の留学生(孫文など)は日本で学んだが、54運動後は、アメリカで学ぶようになった。アメリカでは留学費用を支那から受け取った団匪賠償金で当てた。その一つが、留学準備校の清華学院の設立である。いわゆる文化&経済侵略。
 ②北方コース:ベーリング~満州~支那で満州鉄道中立化を図り鉄道利権を中心とした経済侵略。ハリマンの世界一周鉄道の野望があったが、日本側(小村外相)の妨害で挫折した。
 ③南方コース:布哇~比律賓~重慶で、武力(空軍・海軍)が使える侵略。
アメリカは南方コースに期待をもち、特に力をつぎこむようになったことから、日本は、アメリカの野望を抑えるための南進を進めることになった。アメリカのデトロイト自動車産業に必要なゴム(マレー半島)、タングステン(西安地方)、アンチモン、錫(南洋)など軍事産業に必要な材料や支那には燈油が豊富であることも魅力であった。

長野朗はこの本の中で、こう述べている。「支那には近代国家を形成する能力はない、支那自身の伝統になじんだ国家(社稷・しゃしょく)をつくるべき」と。

■民族の発展方式
アメリカの発達の方式はドルだ。ドルを保護するため軍艦と飛行機がある。
ロシア民族の発展は剣と銃が先にたって、植民と商業があとからくる。ソ連になって組織と宣伝が加わった。
支那民族の発達は鍬であり、人が土を這うようにしていく。政治はそのあとからついてくる。
アメリカ民族の発展(侵略)は、表皮を剥ぐように入ってくる。
ロシアの発展は肉を喰らう。
支那民族の発展は骨の髄に喰い込む最も深刻なものだ。
支那の古来の発展は民族的である。国家等には頓着なく、支那民族が発展していくのだ。血縁相牽き、同郷相求め、村をなし、郷をなし、町をなし、省をなす。その統治者の如何は問うところでない。従って支那民族の発展は極めて平和的であるが、極めて深刻である。
支那人の侵略は、アメリカ人のごとく資本侵略でもなく、ロシア人のごとく征服掠奪でもない。土着的である。その土地に土着して農を営み、商工を営み、、町をなし、県をなし、省をなす。
彼らには武力の背景も、国家の背景も必要でなく、丸く巻いた布団をかつぎ、徒手空拳にして、いかなる気候のもとでも、熱帯、寒帯、乾地、湿地にも出かけ、いかなる業務も厭わず、いかなる政治のもとにも平気である。

参考文献:「民族戦」長野朗

-戦争名画をめぐるドラマ-(GHQ焚書図書開封 第77回)

2017-06-19 00:01:13 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第77回
-戦争名画をめぐるドラマ-
 アリューシャン列島西端にあるアッツ島、昭和17年に占領し、昭和18年の1200余名の守備隊の玉砕に至るまでを描いた絵巻「アッツ島決戦」(藤田嗣治)。
最前線で兵士と語らう山下奉文将軍を描いた「六人の報道小隊」(栗原信著)。
東京裁判で米兵虐待とされた「バターン死の行進」。米兵虐待と真逆の捕虜に対する人道的処遇証拠写真が載せられた「絵具と戦争」(溝口郁夫著)。「避難民に食料を給与」「敵将校に紅茶の接待」「診療を待つ米兵捕虜の列」「海水浴をする米兵捕虜」「ポーカーに興ずる捕虜」などの写真
NHK「20の扉」のレギュラーとして戦後有名になった宮田重雄は、自らの戦前、戦中の行った過ち(林房雄の本の装丁画を描き軍国主義を担いだひとり)を隠蔽し、当時の戦争犯罪人糾弾の時流に乗って、才能ある藤田嗣治を日本美術界から失脚させた。
戦前、戦中の軍国主義を煽った朝日新聞と同様に、手のひらをかえしての変節ぶりであった。
我々は、テレビなど表舞台に出ている人達の過去を知った上で、その人の言論内容の良否を判断しなければならない。
参考文献:アッツ島決戦」(藤田嗣治) 「絵具と戦争」溝口郁夫


-現実家長野朗が見た理想郷・満州の矛盾-(GHQ焚書図書開封 第76回)

2017-06-18 01:26:37 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第76回
-現実家長野朗が見た理想郷・満州の矛盾-
GHQの焚書対象から漏れた長野朗の「支那の真相」。著者は、昭和7年段階で既に支那人とは何かを正確に把握していた。
支那人の特性について、「不必要に、新たに人と怨恨を結ぶということは、支那人の最も嫌うところである」を端的に表しているのが「燃えているのは他人の家だからといって、消火作業をしない火事見物」の一幕である。
これは、共存的にできた日本人と根本的に違うところである。互いに無関心なことが支那人の特性であるから、本来の共産主義とは違うものを作ってしまうであろうと長野朗は予見していた。
道徳についても建前上だけで、内容はゼロである。「忠」より「孝」を建前上重視する支那と真逆な「孝」より「忠」を重視する日本。
科挙に合格する(官僚になる)目的は金儲けのためであり「陞官発財(ション コワン ファツ アイ)」と言う言葉がある。したがって、金儲けのために役人が悪いことをするのは当然である。
支那には貴族は存在せず、皇帝に忠順な中央官僚を地方に派遣する統治方法。派遣官僚が豪族化しないように3年で任地を代えさせていた。
皇帝が絶対的で、あとは奴隷の社会。
官吏の「官」は高級官僚で歌を詠い、遊び、賄賂を受け取る、「吏」は下級役人で実務を行い、少額の賄賂を受け取る。
清廉の士のことを「両袖清風(リャンシウチンフォン)」というが、日本では、「袖の下」を受け取らない清廉潔白な官僚の意味であるが、支那においては「清廉」とはむやみに搾取しないことを意味している。つまり、分をわきまえた賄賂が公然と認められている賄賂社会である。
その蓄財の成功者の代表が国民党首席の蒋介石である。
清朝没落後、袁世凱、蒋介石が企んだ中央主権的統一を嫌い小軍閥が跋扈する支那となっていた。
その中で、ロシア、日本が資本投下し、近代化した満州を制する者が支那本部を制する状況がつくられていた。
「少年満州読本」に書かれている「土地の実権を握るのは、畢竟頭数の多い住民である。これだけの大量移民がじっくり根をおろせば、仮に政治的にロシアのものとなろうと、日本のものとなろうと実質的に支那の勢力は動かない」を信じていた章炳麟の政策のとおり、満州は既に人口の大部分を占める漢人のもの同然の状態であった。支那は北守南進から南守北進に政策を返還し、40年かけてそれを実現した。
満州政権の進路は次の通りであった。
①軍閥による連合体を造るもの
②清朝復辟(ふくへき)を計るもの
③住民自治を実行するもの
日本帝国は②を選択した。一方、長野朗は③が良いとし、五族共和の理想郷をつくるため、各民族の居住区を定め、五族住み分け自治方式を考えた。
治安維持については、日本軍により全般の治安を保つことであった。
参考文献:「支那の眞相」長野朗  「滿州事變の經過」長野朗、大川周明

-支那の国民性と黄河決壊事件-(GHQ焚書図書開封 第75回)

2017-06-16 22:34:47 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第75回
-支那の国民性と黄河決壊事件-
 支那人の生態が書かれた昭和5年刊行「支那の真相」の内容。
平気でうそをつく、二重、三重人格を持ち、二枚舌、三枚舌はごく普通、利己的で拝金主義的な支那の国民性は、軍閥である閻 錫山(えん しゃくざん)や馮 玉祥(ふう ぎょくしょう)の行動にそれが表れている。
このような国民性が、1938年(昭和13年)黄河決壊事件を引き起こした。
仲小路彰の「世界戦争論」の中で書かれた内容によると、蒋介石軍が、日本軍進撃阻止のため、堤防を爆破し、無辜の民(むこのたみ)の水死者100万人、避難者600万人を出し、自軍の利益だけを守ったとある。(焦土、清野作戦の一例)
この時、何かと言うと、人道主義を盾に日本を非難する英米仏は、蒋介石国民党軍によるこの事件に対しては沈黙を守った。
長野朗の「支那の真相」によると支那人(漢人)が異常な性格を持つに至ったのは、その国の政治、気候、風土、食物が関係している。と多角的に分析している。
長野朗の「満州事変の経過」の満蒙今後の新政権の章によると、満州人のための満州帝国ができる前に、大量の漢人の流入によって、人口の大部分を漢人が占めており(人口2,800万人の内、日本人20万人、蒙古人10数万人、朝鮮人100万人、満州人200~300万人、漢人2,500万近く)、すでに、満州は漢人によって農業、商業、工業などが牛耳られていた。と分析している。
参考文献:「支那の眞相」長野朗  「滿州事變の經過」長野朗 「世界戦争論」仲小路彰

-排日の担い手は英米系キリスト教会からロシア共産主義へ-(GHQ焚書図書開封 第74回)

2017-06-13 15:39:44 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第74回
-排日の担い手は英米系キリスト教会からロシア共産主義へ-
 陸軍士官学校出身で、大正年間に軍属を離れ、支那に渡り、足と体験で支那を知ったシナ通(シノロジスト)であり「日本と支那の諸問題」の著者でもある長野朗。
焚書没収対象となった長野朗の本数は、野依秀市、仲小路彰に次いで三番目に多い。
戦後の日本では、共産主義の中国を礼賛した吉川幸次郎、宮崎市定や、毛沢東礼賛に走った中国研究学者が跋扈するようになった。
第一次世界大戦後、各国は大恐慌に見舞われ、保護政策をとった。そのあおりを受けたのが、不平等条約を結んでいた支那であった。支那製品の輸入が止まり、欧米各国の製品が支那に一方的に流れ込むという現象が起きた。支那は経済的危機に陥った。
ペリー来航後、日本は締結した不平等条約を撤廃するため、時間をかけ、日清、日露戦争を経て国際的地位を高めながら、実現した。一方、支那は日本と対照的に、不平等条約を撤廃することなく、強引に外貨排斥をもって関税自主権の代用とした。
排日で価値観を共有した国民党と共産党。「隴を得て蜀を望む」は支那の国民性。
靖国参拝を止めると、次は靖国を潰せと言ってくるだろう。靖国を潰すと、次は皇室を潰せと言ってくるに違いない。一旦、妥協すると、中国に屈するまで、次々と際限なく攻撃の口実を製造し、圧力をかけてくる。それが、中国の国家戦略。
排日問題は解決するものではなく、対立の種として継続的に製造してきた支那。
英米系の教会、実業家、学校が中国の排日運動を支援していた。
キリスト教系青年会が排日運動の主力だったが、「人を呪わば穴二つ」今度は英米が排斥され、1917年のロシア革命後は共産系青年会にとってかわった。1920年代から1930年代は、日英米にも共産主義の魔力にとりつかれた知識人が増えたのである。
ソビエトコミンテルンの指導によって、帝国主義VS共産主義の図式が形作られ、大和民族は英米帝国主義の支配層と同じ位置づけ、支那人は被圧迫民族として位置づけとし、帝国主義排斥のために排日運動が強化された。
1925年、スターリンは、ドイツ革命に失敗し、民主主義の発達したヨーロッパでは共産主義革命は無理と判断し、先にアジアで国際共産主義運動を起こそうとして、日本が共産化のターゲットになった。そのための前段階として、支那を活動拠点にした。その時期に起こったのが、上海大学生による五卅(ごそう)事件である。
既に、支那では、キリスト教系青年会が排日運動をしており、集団で全国で全国に散在しており、熱しやすく、扇動しやすい学生が国際共産主義運動の先兵として利用するのに便利だったのである。
参考文献:「日本と支那の諸問題」長野朗

-支那と排日の八つの原因-(GHQ焚書図書開封 第73回)

2017-06-12 07:36:22 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第73回
-支那と排日の八つの原因-
今日、日本人に理解できない中国人の性癖は、元軍人であり、足で歩いて支那を研究したシノロジストで、後に作家になった長野朗氏の「支那の真相」(昭和5年刊行)によって詳細に研究・分析されていた。(日本人の義理、人情が通じない、議論になると、散々自分が悪いことをしてきたのに、口角泡を飛ばして自分が正しいと主張し、相手を口でいい負かすことに全力をつくすことや、口論に勝つためには平気でうそを言って平然としていることなど)
この研究内容からすると、1972年の日中共同声明後、日本が中国に対して行ってきた経済援助等はいかに無駄だったかが理解できる。
排日の分析については「日本と支那の諸問題」(昭和4年刊行)に詳しく述べられている。排日は、対華21か条要求に対する反対運動の五四運動から始まった。
1919年の五四運動の原因は、ウィルソン大統領の民族自決宣言(対象は東欧諸国であり、ハンガリー、オーストリアの解体には成功したが、他のアジア植民地諸国の民族自決は認めなかった不平等なもの)に刺激を受け、ロシアの被圧迫民族の解放論、反キリスト運動、反文化侵略運動が便乗して、共産主義の影響を受けた北京大学の新進気鋭の教授達を中心に、山東省問題で欧米の圧力に屈服した日本に対して激しく向けられた。
なぜ、日本に対して激しかったかと言えば、
 ①欧米に対しては、どんな圧力をかけられても仕方がないが、日本が欧米と同じ圧力をかけるのは許さない、日本は支那が恩恵を与えていた国ではないか、しかも支那の東の端にある「東夷」の日本は野蛮な国家との侮蔑意識(歴史的序列)があったためである。
 ②日本を侵略的軍国敵なりとし、日本は絶えず支那を侵略せんとするものなりとの観念が一般の頭の中に深く刻み込まれている。それは、支那人のあらゆる言論に見て明らかである。そうした観念を持たせた原因は
・歴史的事実に基づくもので、支那と日本の立場が日清戦争で逆転した。北清事変でその脆さを暴露した。そして、朝鮮、満州、山東州、北支那、中支那へと進出してくるのを、名付けて「蚕食」と言っていた。21か条要求に屈し、その後英米がやってきて反日運動に火がついた。
・日本外交の遣り方が日本を侵略国家なりと思惟せしめたというのは、近年における日本外交は口に、日支親善と支那の領土保全を叫び、内政不干渉主義を高調しながら、裏のほうでは一党一派を助けて内政干渉をやり、あるいは陰に各地で利権に手を出したりするため、支那人は日本人を甚だ陰険なる国民のごとく誤解し、表面の親善政策をもって、裏面の侵略を進めんとする欺瞞手段なりとの感を抱くに至った。
即ち、日本の外交が捨てるべきものを捨て、守るべきものを守る日本の希望要求を大胆明白に表明せずして、謙譲的に、遠慮がちな国民性の一端を発揮したからである。
 ③白人崇拝と日本に対する蔑視及び支那一流の遠交近攻的外交と支那大衆の無知
 ④土地狭くして、人口多しの日本の経済的弱点をとらえ、日本側の言う「共存共栄」は、日本が中国なくして生きていけないことを認めた言葉と勝手に誤解している。
 ⑤小学生の頃から排日教育をするため、10数年後の青年時には排日迎合主義が身についている。
 ⑥欧米の品は比較対象外高級品との白人崇拝思想があり、日本品だけを支那品と比較するため日支間の利害が対立する。
 ⑦中央政府がなく政情不安定なことに乗じて、軍閥が排日を政争の具に利用する。
 ⑧排日運動が商売の種になるため、排日運動家が生まれ職業化する。
と長野朗は述べている。
参考文献:「日本と支那の諸問題」長野朗

-仲小路彰の戦争への哲学-(GHQ焚書図書開封 第72回)

2017-06-10 19:50:12 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第72回
-仲小路彰の戦争への哲学-
昭和13年、戦争を肯定し、必然性のあるものとして擁護した仲小路彰によって書かれた「世界戦争論」。
戦後書かれた歴史は、日独伊を敗北者(敗戦史観)として描かれているが、終戦までの歴史では、日独伊を勝利者(戦勝史観)として予定し、正義と正しさ、必然性を述べている。
この中(戦勝史観)に戦後歴史で見落とされたものがある。
人類史において、西暦前1496年から西暦後1861年の3357年の間、3130年が戦争で、227年が平和であった。、
今日でも平和の名において戦争が行われる現実(戦争反対こそ文明の敵というのも一理ある)がある。
この本の著者は、西欧諸国が植民地獲得のための侵略戦争によりほとんど全世界を勢力範囲にすると、にわかに現状維持を言い出し、戦争反対、人道的平和論を口にし始め、弱小国の軍備を禁じ、あるいは制限し、軍縮会議を用いて、一転して自分たちに背く勢力を不当に圧迫するために平和の名を用いた、狡猾きわまる虚偽と欺瞞の手段を用いたと指摘している。
日本が国際連盟を脱退したのも、軍縮会議を破棄したのもこれが理由である。
二国間において軍縮が成立するのは、お互いに自分のところは軍拡が可能となったと錯覚したときである。
軍備とは、戦争を避け、戦わずして打ち勝つことを可能にすることである。
1925年に毒ガスと細菌兵器使用禁止に各国が賛成したが、これに反対したのは英米2国だった。その後、イギリスはインドで、フランスはモロッコで毒ガスを使用し無防備な現地人の大量虐殺をおこなった。
1922年のワシントン会議で締結された9か国条約(日英米中白仏蘭伊葡)は、表向きは、中国の領土保全、門戸開放、機会均等であったが、背景には中国に対する日本の進出を抑える意図があった。
その9か国条約を最初に破ったのはイギリスである。1923年の臨城事件、1927年廃英運動に対する攻撃、同じく1927年の第1次南京事変がそれであったが、日本は臨城事件では中国の味方、廃英運動では共同出兵を拒否、第1次南京事変では攻撃拒否をし、9か国条約を忠実に守ったのである。
その後、蒋介石はこの9カ国条約を、日本を孤立化させる手段として利用するが、その背後にはイギリスのユダヤ金融資本とソ連のコミンテルンの謀略があった。
先進国の大学にあった軍事国際法、軍事史学、地政学の講座が、当時、日本の大学には置かれていなかった。
ヨーロッパ諸国は1450年から1850年の400年間に、ヨーロッパ内部における戦いに必要な戦費確保のために植民地獲得に力を入れた。
第二次上海事変(1937.8.13~11.8)では、ドイツ、イタリア、ソ連、アメリカ、イギリスの支援を受けた3万(後に30万に拡大)の国共合作の中国人が4,000人の日本守備隊及び3万人の居留民のいる日本租界に攻めてきた。
居留民を救うために日本は8万人の陸軍を送り、4万人の戦死という大きな犠牲を伴って、上海、南京を占領した。
苦戦した背景には、ドイツ軍事顧問団によってつくられた強固なベトン製コンクリートトーチカ、アメリカのカーチス、ボーイング戦闘機、イタリアのフィアット戦闘機、ドイツの最新鋭武器、チェコ銃などが使われていたためである。
1940年の日独伊三国同盟まで、ドイツもイタリアも支那を応援していたのである。
西安事件に続く第二次上海事件は、日本居留地に対する支那側の侵略に対抗するために行った日本の防衛軍事行為である。
国共合作の背後にはソ連コミンテルン及びイギリスユダヤ系金融資本の謀略があった。
これを、日本の一方的な侵略と主張する曲学阿世の北岡伸一東大教授がいる。
北岡伸一氏は、安倍首相が日中歴史共同研究の日本側メンバーとして選んだ人物である。日本側メンバーは中国側の捏造報告に対して一切反論していない。
参考文献:「世界戦争論」仲小路彰

-アメリカのハワイ・フィリッピン侵略と満州への野望-(GHQ焚書図書開封 第71回)

2017-06-09 17:47:23 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第71回
-アメリカのハワイ・フィリッピン侵略と満州への野望-
 日本とアメリカの中間にあって、因縁浅からざる歴史と来歴及びその帰属を巡って、星公使を通じて、大隈重信外相と国務長官シェアマンとの間に激しい論争のあったハワイ。
 大隈重信外相と交代した西徳二郎外相も、アメリカによるハワイ併合には執拗に食い下がり、強硬に抗議したが、アメリカは米西戦争でメキシコ、キューバ、マニラを占領した勢いで、1898年(明治31年)国内世論(軍事占領説)の高まりに乗じてハワイを強引に併合した。
スペイン本国が急遽、太平洋に軍艦を派遣したが、アメリカの侵略が余りにも早かったので、スエズ運河を越える時点で、フィリピン陥落を知り、あきらめて本国に戻ったのである。
なお、米西戦争のきっかけとなった「メイン号の沈没」「キューバの反乱」は米国の陰謀によるものである。
これにより、アジア侵略への重要な軍事拠点が確保された。
 アルフレッド・セイヤー・マハンの「海上権力史論」に影響を受け、日清戦争(1894-95)以前から日本に脅威を抱いていたセオドア・ルーズベルトは、満州において日本とロシアが戦うことを、イギリスとともに望んでいた。また、日露戦争(1904-05)後のポーツマス条約以降、支那侵略への第一歩となる満州を巡って日本への反日感情を露わにしていった。
そして、日米決戦の噂が世界中でたったグレート・ホワイト・フリート(Great White Fleet)の日本寄港。
 1906年ホーマー・リーの書いた「無知の勇気(日米必戦論)」が、その後の日米関係(言葉が現実を引き寄せる)を暗示していた。その内容は、真珠湾攻撃・占領後、アメリカ本土を攻撃するものであったが、実際には、ハワイの占領まで至らず、アメリカ本土への打撃は少なかった。
このことが、山本五十六の不徹底した戦術とみなされ、愚将と評された所以である。
参考文献:「ハワイを繞る日米関係史」吉森實行


-ハワイ併合に対する日本の抗議-(GHQ焚書図書開封 第70回)

2017-06-07 12:54:39 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第70回
-ハワイ併合に対する日本の抗議-
 日本がハワイ併合のチャンスを失うに至った経緯が書かれた「ハワイを繞る日米関係史」昭和18年刊行。
アメリカ白人革命臨時政府(エス・ビー・ドール大統領)は、リリウオカラニ女王のクーデターのせいにして、自分たちのハワイにおける革命行動を正当化した。
アメリカ本国のハリソン大統領は、ハワイの併合案、保護国案のうち、併合案を選択した。
一方、ハワイ現地では本国政府に反対の保護案に傾いたことなどから、次期クリーブランド米大統領は、再調査し併合条約を破棄した。その結果、ハワイは混乱に陥り、保護国にも併合にもならず、王室を廃絶し、1894年ハワイ共和国として独立宣言をする状況を招いた。
本当の独立とは、武力的、経済的、政治的に独立していると同時に、精神的にも独立していることである。ハワイにとって最後の砦が王室をいだくということが精神的支柱であったのである。
その後、王室派と反王室派との間で内乱が起き、王朝は滅亡した。王家の権威を失ったハワイ人は、ハワイ人としての精神的支柱を無くし、経済的にも、政治的にも完全にアメリカの支配下になる結果となった。
皇室を失うことは、やがて、経済的、政治的、また軍事的にも依存している大国アメリカの一部に組み入られてしまうことを意味した。
日本は、アメリカの陰謀(王室を廃絶し、ハワイをアメリカの領土にする政策)を見抜けなかった。イギリス公使エドビン・アーノルドによるとこの時が、日本がハワイを併合するチャンスを逃したと時期であると述べている。
ハワイ憲法改正の時(井上馨外務卿)と同じように、アメリカの顔色を窺う外交姿勢(陸奥宗光外務大臣)がここでも、国益を損なう結果を導いた。ここに、日米対立の原点がある。
当時(1893年)、ハワイには在郷軍人1000人、それを保護するための東郷平八郎率いる軍艦「浪速」が停泊していた。此の時、脱獄囚今田与作の引き渡しを巡るエピソードがあるが、ハワイマスコミなどの非難に対し、東郷平八郎の「牛角に蚊が刺した程にも感じない」堂々たる交鈔姿勢が記録として残っている。
最初、独立、併合を容認していた日本は、マッキンレー大統領時になって、日本-ハワイ間の既存条約を巡り、アメリカ政府との間で意見が対立化してきた。この間に、神州丸、さくら丸の日本移民上陸禁止などが発生、星公使とシェアマン国務長官との交渉も難航した。
その結果、日本政府は併合反対に傾いたが、時すでに遅し、同時進行していた1898年併合が成立し、これまでの日本-ハワイ間の各種条約はアメリカによって破棄され、日本にとって極めて不利な状況に陥った。
参考文献:「ハワイを繞る日米関係史」吉森實行


-立ちつくす日本踏みにじる米国-(GHQ焚書図書開封 第69回)

2017-06-02 20:13:21 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第69回
-立ちつくす日本踏みにじる米国-
アメリカの恥部が書かれた「ハワイを繞る日米関係史」昭和18年刊行。戦後は、米占領下にあったこともあり、日本ではこの種のアメリカの闇の部分を書いた本は発行されることはなかった。
砂糖の生産地として、またアジア(特に支那)進出の拠点として重要性を増してきたハワイは、カラカウア王の死後、「アロハオエ」の作曲家でもあったリリウオカラニ女王を中心としたハワイ人純血主義派とそれに反対する一般ハワイ人派、及びアメリカ人の三つ巴の争いが激化していた。
そんな中、軍艦ボストン号の海兵隊によるハワイ上陸をバックに、君主制廃止を迫るアメリカ出先機関による革命がおこり、1893年1月17日仮政府が樹立された。
仮政府樹立の影の主役はセオドア・ルーズベルト大統領と海上権力論で有名なマハンなど若き軍国主義者であった。
そして、リリウオカラニ女王を最後にハワイ王朝が滅亡し、完全にハワイはアメリカの手に落ちた。
この時、邦人保護を理由に、軍艦「浪速」をホノルル軍港に停泊させ、アメリカを威嚇していた艦長は若き日の東郷平八郎であった。
仮政府樹立はしたものの、アメリカ本国議会は、エス・ビー・ドール大統領のハワイ仮政府を否認した。何時の時代もアメリカには反対勢力が存在し、表向きはバランスがとれているが、やがて、反対派も容認する方向に向うのである。

閣龍〈コロンブス〉がアメリカを発見した時期より300年前頃からハワイには黒人以外のいろんな民族が漂着し、現地人と雑婚していた。
1866年日本でも、海外渡航が自由になり、ハワイへ移民または出稼ぎ労働者として渡る人が多くなった。しかし、その労働は過酷で、明治2年、日本人を取り戻すために日本政府は2人の交渉役人を派遣したほどである。
支那は、清朝末期で国家機能が働いておらず、支那の苦力は救われることはなかった。
そんな折、1872年(明治5年)に支那苦力がペルー船マリアルース号から逃亡する事件が横浜で起きた。苦力の訴えを聞いた副島種臣外務大臣はマリアルース号船長を糾弾し、苦力全員を解放し、支那へ帰還させたのである。日本には、秀吉がとった海禁政策(アジア人を奴隷のごとく使うことに対する反発)の背景があったのである。
1873年(明治6年)時点で、副島公使の頭の中には、ハワイ併合、ロシアからの樺太買収案があったと言われている。
明治10年から16年にかけて、オーストラリア、スペイン、オランダからも移民要請があったが、いずれも政府は断っている。
当時の日本の人口は、明治6年-3300万、明治11年-3400万、明治16年-3700万、明治25年-4100万、明治30年-4300万、明治42年-5000万であり、貧農が多く、人口過剰状態であった。
明治18年に日本人移民総計は3万になり、1894年(明治27年)に移民保護規則が成立し、移住民局の業務が民間移民取扱会社に委ねられるようになると、白人の歓心をかうために農奴の域を脱しないようになり、官約時代より悪化した。
明治23年のハワイの人口は約9万(ハワイ人及び混血人4万、支那人1.5万、日本人1.2万、アメリカ人1900人)であった。
アメリカのフロンティアは1880-90年で終わりをつげ、1898年にハワイ、フィリピンをアメリカ領土に編入した。南北アメリカ大陸については、ヨーロッパに対しモンロー主義を貫いた一方で太平洋に対しては侵略主義で支那大陸を目指したのである。

参考文献:「ハワイを繞る日米関係史」吉森實行


闘病日記24

2017-06-01 15:40:46 | 暮らし
先月25日にマッサージを受けてから、1カ月経過した5月30日(火)に27回目になる治療を受けた。昨年5月17日が初診だから1年経過したことになる。1年前の顔を洗う時の首の痛みはすっかりとれた。首を回した時の張りはまだ残っているが、空を見上げることもできるようになった。