GHQ焚書図書開封 第160回
-蘭領東印度の地理と東インド会社-
大スンダ列島のスマトラ島の北部は40年間、オランダと戦った勇敢なアチエ王朝があった。中部はナンガバン王朝の中心地で油田があった。南部パレンバンは商業都市でコーヒー、綿、カボック、魚、胡椒を輸出しており、マラッカ海峡に面したゴム生産地でイギリス資本が支配していた。昭和17年、日本の落下傘部隊が急襲降下したところである。
ジャバ島の中心地はバタビア(ジャカルタ)でオランダ東インド会社があった。インド人、ペルシャ人、支那人、ビルマ人が流入し、ヒンズ教、回教(イスラム教)が混在し、西側はイスラム教スンダ人が多く居住していた。東側はヒンズ教のインド人が多く住んでいた。
世界で3番目に大きい島と言われるボルネオは、密林に覆われた秘境の地で、北の1/4はイギリス、南の3/4は阿蘭陀が支配していた。西側は支那人、マレー人が、南側はジャワ人、東側はセレベス島のブギン人が住んでいた。バリックパパン、パンジェルマシンが有名な都市である。支那人華僑がダイヤ族と組んで西ボルネオ(金、ダイヤの採掘地)を支那領としようと企んだ経緯がある。
セレベス(スラウェシ)島は、ボルネオに次ぐ4番目に大きい島で、マカッサル、アンボイナは香料、シナモンの生産地で、香料の争いであったアンボイナ事件において、多数の日本人、イギリス人が阿蘭陀人によって殺された。
日本は、イギリス、阿蘭陀の植民地であったこれらの島々をイギリス、阿蘭陀から解放するために大東亜戦争を起こし、3000人の兵士によりその目的を達成した。インドネシアのために最後まで戦った日本兵の一人が92歳で最近亡くなった。
ポルトガル人による東洋進出は、15世紀後半、バスコダガマによりマラッカ海峡までに達したが、アラビア人マラッカ王により阻まれた。16世紀に入り、今度は19隻、1400人に及ぶ大船団を率いたアルプケルによりモルッカ諸島のアンボイナにまで達した。
スペインに支配されていたオランダ人による東洋進出は、4隻、248人を率いたコルネリウス・ホウトマンにより始まった。その時期は秀吉の征韓出兵の1595年である。
当時の、東インド会社(オランダ(1602年)、イギリス(1600年)、フランス(1604年))は、軍事的能力を有する商船を保有した国家内国家でもあった。この時期、日本では関ケ原の戦い(1600年)があり、また、伊達藩支倉常長が自前の商船でヨーロッパに辿り着いたのは1613年であった。
17世紀はオランダの時代と言われたのは、スペイン、ポルトガル、イギリスのように宣教を第一の使命とする侵略でなく、ユダヤ資本の提供を受け、政教分離の重商主義をとったことで、イスラム教徒など他宗教の国々の反発を和らげたためである。それが、オランダがユダヤ系商業民族と言われる所以である。
参考文献:「蘭印・仏印史」大江満雄、「蘭印現状読本」石橋豊、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった」安濃豊、「アジアを解放した大東亜戦争」安濃豊、「THE ROTHSCHILD」林 千勝
2018/02/28 に公開