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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-シンガポールに着眼したイギリスの地政学的先見の明-(GHQ焚書図書開封 第157回)

2022-02-24 07:23:41 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第157回

-シンガポールに着眼したイギリスの地政学的先見の明-

イギリスは

 インドへの海路はイギリス~ジブラルタル~マルタ島からポートサイト~紅海~アデン~コロンボ

支那への海路はコロンボ~シンガポール(昭南島)~香港

オーストラリアへの海路はシンガポール~ダウィーン、ケープタウン~フリーマントル

南アフリカへの海路はコロンボ~モーリシャス~ケープタウン

 というように制海権(海上権)を確保した。

アフリカ東岸のマダカスカル島はフランス領であるが、セイシェル島、モーリシャス島、アミランド島及びケニアをイギリスが抑えており、実態はマダカスカル島はイギリスの包囲網の中にあった。

その他ジャワのクリスマス島、ココス島、マレーのコタバルなど海上交通の要衝を抑えていたのである。

 

1642年 蘭、タスマンがニュージランドを発見

1664年 英、蘭からニューアムステルダムを奪い、ニューヨークと改称

1688年 英、豪州に進出

1688~89年 英、名誉革命

1700~13年 スペイン継承戦役

1719年 ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』

1726年 ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』 

1732年 英、新大陸に13植民地設立

1757年 英仏プラッシーの戦い(インド)

1763年 英、仏に勝ってカナダを占領

1769年 英、ニュージランドを占領

1770年 英、ジェームズ・クック豪州に英国旗を立てる。

1760~1830年 英、産業革命が始まる

1775~1783年 アメリカ独立戦争

1778年 英、オーストラリアのシドニーでイギリスの植民が始まる

1789年 フランス革命

1792~1815年 ナポレオン戦争

1795年 英、セイロン占領

 

 大東亜戦争前までは、アメリカは南アフリカ(ケープタウン)経由で太平洋上のジャワ、スマトラ、マレーへ、錫、ゴムの入手に出かけていた。

 『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』は、オーストラリアに関わる物語で、欧州の人々にオーストラリアの存在を知らしめる役割を果たした。

 日本では幕藩体制の中頃の18世紀、イギリスはフランスと戦争ばかりしていた。

 

 参考文献:「大南方地政論」小牧實繁、室賀信夫、「東亜十億人の地理」飯本信之、籠龍良明

2018/02/14に公開


-ポルトガルの『海の鎖』と大英帝国のつくった海賊の話-(GHQ焚書図書開封 第156回)

2022-02-22 20:00:45 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第156回

-ポルトガルの『海の鎖』と大英帝国のつくった海賊の話-

最初に海に出たのは西回りで大西洋からの道をスペインが、アフリカ回りで印度洋への道をポルトガルが、選び、進んだのであった。そしてオランダが次に続いた、当時、イギリスはヨーロッパでの中では後進国であった。貧困にあえいでいたこれらの国々は、生存をかけて、また宗教を普及させるため、フロンティアの拡大に猛進したのである。

 大西洋を越えたところは野蛮の地と称して、白人支配による残虐悪道が許されると言う極めて傲慢な態度をとったのである。

ポルトガルは海上封鎖(海の鎖)という手段をとって強奪・搾取する方法をあみ出した。イギリスはそれを真似て太平洋に乗り出した。

エリザベスが海賊ドレークに爵位を与えるというようにイギリス国民はもともと海賊であった。

 

イギリス史(17~19世紀)

1577年 英、ドレークの率いる船団が初めて太平洋に乗り入れした。

1581年 露、コサックがシベリア侵略に着手

1588年 英、スペイン「無敵艦隊」を破る(アルマダの海戦)

1600年 英、東インド会社設立

1602年 蘭 東インド会社設立

1607年 英、ヴァージニア植民地設立

1613年 英、日本に通商を迫る。支倉常長ローマに到着

1620年 蘭 台湾に進出

1642年 蘭、タスマンがニュージランドを発見

1664年 英、蘭からニューアムステルダムを奪い、ニューヨークと改称

1763年 英、仏に勝ってカナダを占領

1769年 英、ニュージランドを占領

1770年 英、ジェームズ・クック豪州に英国旗を立てる。

1760~1830年 英、産業革命が始まる

1775~1783年 アメリカ独立戦争

1778年 英、オーストラリアのシドニーでイギリスの植民が始まる

1789年 フランス革命

1792~1815年 ナポレオン戦争

1795年 英、セイロン占領

 

 海の自由という思想は、アルプケルケがマラッカ海峡を占領してから認知されるようになった。その考えを受け継いだのが制海権をもった海洋帝国イギリスであり、第二次世界大戦後は制空権を握った空の帝国アメリカへと変遷していった。そして現在は情報支配の時代になっている。

 500年間のマラッカ海峡は、アラビア、ポルトガル、オランダ人、イギリス、アメリカと5回覇権が変わっていった。昭和17年2月の日本軍によるシンガポール陥落でやっと、インド洋と太平洋を結ぶ海の要衝マラッカ海峡はアジア人の手に戻ってきた。

 

1770年ジェームス・クックがオーストラリアに英国の国旗を建てた後、ヨーロッパに悪行が伝わりにくいことを良いことにして、土民を殲滅するなどあくどいことをやり続けた。そして、次にオーストラリアとカナダを結ぶ太平洋上の島々の占領をおこない、海底ケーブルを敷設した。(1853年ノーフォーク、1874年フィジー、1888年ファンニング、1889年フェニックス、1892年エリス)

 後のABCD包囲網の原型が整ってきたのである。

 一方アメリカは、米西戦争に勝利した後、ハワイ~ミッドウェー~グアム~フィリッピン、アラスカ~アリューシャン列島、南方ではサモア諸島を占領し、イギリスと太平洋上で衝突することになる。

 

 第一次世界大戦時に、日本海軍は、イギリスを支援するためオーストラリアおよびニュージランドから地中海に向かうANZACの軍艦をドイツ潜水艦から護衛する役割を担った。太平洋、インド洋、大西洋と広大な海上ルートの安全を確保したのである。

 地中海ではイギリス輸送船を護衛して沈没した駆逐艦「榊」乗組員の慰霊碑が今もなおマルタ島に残っている。

 

 参考文献:「大南方地政論」小牧實繁、室賀信夫、「東亜十億人の地理」飯本信之、籠龍良明、「世界新秩序建設と地政學」小牧實繁、「世界史をつくった海賊」竹田いさみ

2018/01/31 に公開


―インドの描いた新鮮な日英関係史―(GHQ焚書図書開封 第155回)

2022-02-20 14:46:19 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第155回

-インドの描いた新鮮な日英関係史―

したたかにして、冷酷にして、計算づくで、しかも驚くほどの奸智にたけたイギリスの統治のやり方、単に残虐というだけでなく、心理的にしたたかで、政治的陰謀や、起こりうる可能性を徹底的に計算づくして、人心を操縦する。貿易も軍事も経済も全て翻弄するイギリスのしたたかなやり方を事例でインド人が告発した例を前回は取り上げた。

 地球上の地表の30%を領土としたイギリスは、未開民族に文明を与え、指導するのが白人の重責という使命のもとに、各国民の自由と全てのものを奪った。

 太陽の没するところがない大英帝国といわれるほど、五大州(アジア州、ヨーロッパ州、 アフリカ州、アメリカ州、オセアニア州)の多くの場所にユニオン・ジャックがはためいたのである。

これは、商品と聖書を持ち、貿易と軍隊で新しい牧場(未開の地)に乗り出した結果である。

この極悪非道なやり方に「NO」と言った民族がいた。それが我国日本である。

 世界の覇権を握ったイギリスにとって、次に伸びてくるヨーロッパにおける強敵は、ドイツ、フランス、ロシアであった。特に、科学技術分野で著しく国力をつけ、海洋に出てこようとしたドイツはイギリスにとって最大の脅威であった。

また、アジアにおいてはイギリス領チベット、インドが、ロシアの南下によって侵略される危機にあった。

1902年(明治35年)の日英同盟は、日本とロシアが戦争をするために結ばれた。その背後には、日本とロシアを戦わせたいという英国の陰険な勢力の陰謀があった。日露戦争が、英国とロシアの代理戦争と言われる所以である。

 日本とロシアと長く戦わせて、両方の国力を削ごうとしていたのである。英国に、日本の「至誠」は通じなかったのである。

 第一次世界大戦後、英国は日本に対して忘恩的態度を執るようになった。戦争で、国力の落ちた英国は、台頭してきた米国に依存せざるを得ず、米国の方針に従うようになったからである。

ロシア革命5年後、支那の学生、若者は英米キリスト教会からコミンテルンに走るようになった。ソ連が英米側についたのであるが、どうしてそうなったのかは謎である。その後、説明のできない歴史上の同時代的な大きな事件が続くのである。これは、英米を支配していたロスチャイルド家の世界戦略(NWO)によるものであることが今日明らかになっている。

スペイン内乱が支那事変が勃発する前に起こり、いずれも、イギリス、ソ連、アメリカが関与しているのである。支那事変の場合は日本の支那の意思を越えた戦争へと発展していったのである。欧州大戦が進行し、ドイツとソ連によるポーランド侵攻が行われた。こうして、第二次世界大戦の構図ができあがった。

 参考文献:「英帝国敗るるの日」エ・エム・サハイ、「THE ROTHSCHILD」林千勝

2018/01/17に公開

 


 支配者イギリス人の奸智・冷血・策謀・民心操縦-(GHQ焚書図書開封 第154回)

2022-02-20 08:58:58 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第154回

 支配者イギリス人の奸智・冷血・策謀・民心操縦-

イギリスは、支那、インドは言うに及ばず、南アフリカ連邦、シリア、エジプトなど中近東、アフガン、チベット、オーストラリア、ビルマなどにも植民地の翼を広げた。

これら植民地でのイギリスの行動について、詳しく書かれている本はインドに関するものばかりである。今回、その中でインド人によって書かれ、大川周明が序文を書いた「英帝国破るゝの日」の本を取り上げた。

この本の中では、イギリスのインド統治に対するしたたかな戦略、心理的戦術、政治的人心収攬、政治的攪拌、その統治の達成、イギリスのしたたかさ、ずるさ、冷血な心理操作という残酷な側面が書かれている。

※日本の朝鮮半島統治、台湾統治と欧米の植民地統治の違い、江沢民以降の中国の反日教育、第一次世界大戦後のパリ講和会議における国際連盟委員会で世界で一番最初に人種差別撤廃提案した日本とそれに反対したアメリカのウィルソン大統領について言及。

イギリスのインドの子どもに対する教育方針は虚偽の歴史を教えることであった。ヒンズ教徒の子ども達には、かってイスラム教徒の統治ためにヒンズ教徒は圧迫を蒙っていたが、イギリス統治によって圧迫から逃れられた。そしてイスラム教徒の子ども達にはかってインドはイスラム教徒のものであったが、ヒンズ教徒がイスラム教徒の統治に対して反抗したのでイギリスの占領するところとなった。とイギリス統治の正当性を教えたのである。イギリスがインドから去った後、インド国内で宗教上の争いが起きる種を蒔いていたのである。

 更に、イギリスは飲酒癖のなかったインド人に対して、飲酒を奨励し、それを止めようとしたインド政府の禁酒法を潰したのである。

ヨーロッパ人の支配哲学は、このように被支配者を如何にして愚民化することかに心血を注ぐことであった。

 豊かな土地で作られる農作物に重税を課し、インド人を飢餓と疫病に追い込むだけでなく、綿花を作らせイギリスに安い原材料として輸出させ、高い製品としてインド人に買わせた。

インド人の熟練工による安くて高品質な絹織物をイギリスに輸出できないようにするため、熟練工の五本の指を切断するなど、暴圧の限りをつくした。手首塚として今日までその言い伝えは残っている。

イギリスはあらゆる戦争で、インド兵を戦場に送り出すだけでなく、その戦費もインドに負担させるという悪辣非道な手段をとった。同じ植民地であったオーストラリアやカナダにはそういうこと(戦費負担を課すこと)はしなかった。

それに止まらず、本来イギリスが負担すべきイギリス外務大臣の訪印費用までもインド政府に負担させていた。

 参考文献:「英帝国破るゝの日」エ・エム・サヘイ、「黎明のビルマ」熊谷国造、浅見宜正

2017/12/20公開


-イギリスのインド統治史は約束破棄と不信の歴史-(GHQ焚書図書開封 第153回)

2022-02-12 14:32:21 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第153回

-イギリスのインド統治史は約束破棄と不信の歴史-

1919年のアムリトサルの虐殺後の戒厳令下の

植民地インドにおけるイギリス人による冷酷無比な暴圧やリンチは目を覆いたくなるものがあった。

 当時、日本は、イギリスの暴圧に苦しんている支那とインドに同情心をもっており、同時にイギリス人に対して恐怖と怒りを持っていたのである。大東亜戦争が起こる原因にはこういった背景が存在していたのである。

 将来の自治(カナダ、オーストラリアのような自治)を約束にインド人はイギリスのために戦場(支那、アフリカ、欧州、メソポタミア、アラビア、アフガニスタン、チベット、ビルマその他)に駆り出された。そして、多くのインド人は命を失った。しかし、イギリスはそれらの約束をことごとく反故にした。

「今日、印度は有力な盟国として、この会議に臨んだ。吾人は1914年フランダース戦線の兵力欠乏せる時、印度軍二軍が現れ救助せられたことを想起せざるを得ない。吾人は印度に負うところ多いが、印度がいつの日か完全なる自治領制を得んことを深く期するものである。然るに、その後10年を経て、チャーチルは英国両院協議会の席上で、「右は儀礼的に述べられたものである、儀礼的にお世辞を言うことはどの政治家でもやることだ」と公言した。更に、彼は曰く「如何なるときといえども閣僚が印度に自治を賦与するなど考えたこともなく、欲したこともない。」

イギリス統治前は人口(約3億6000万人)の60%が読み書きができたが、イギリス統治下の2世紀の間に90%が文盲となるという愚民化政策がとられたのである。更に長年にわたる搾取の結果、住民の生活は困苦し、飢饉で多くの住民が命を落とした。

イギリスは反抗されることを怖れ、インド人から武器をとりあげ、自立心を失わせインド人の精神を殺してしまった。

ガンジーは無抵抗主義でイギリスに抗議したが、武力を背景にイギリスと交渉しないと効果がない考えたのがチャンドラボウズであり、大東亜戦争で日本軍とともに戦い、独立運動とインド仮政府樹立に貢献した。

 大東亜戦争が終戦となり、日本軍が撤退した後、再び、イギリスはインドを再度植民地化しようと戻ってきたが、日本軍によって、火がつけられた独立の機運は二度と消すことはできなかった。

 参考文献:「インドの叫び」ボーズ・ラスビハリ、、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった」安濃豊

2017/12/07に公開


-1919年のインド、アムリトサルの虐殺ー中村屋のボーズ『インドからの叫び』-(GHQ焚書図書開封第152回より)

2022-02-10 15:51:09 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第152回

-1919年のインド、アムリトサルの虐殺ー中村屋のボーズ『インドからの叫び』より-

イギリスの地球侵略

 第127回 -西洋人のアジア攻略の概要-

第128回 -イギリスのインド攻略の原点 プラッシーの戦い

第129回 -200年に及ぶイギリスの介入による支那の崩壊-

第130回 -阿片戦争の真相-

第131回 -阿片戦争の後始末にあえぐ無残なる老廃国-

第132回 -瞞し打ちで支那の骨肉を切る冷酷無比な大英帝国-

 

インドカレーで有名な新宿中村屋は、アジア主義者犬養毅、頭山満、内田良平などともにインド独立に貢献したラス・ビハリ・ボーズのつくったお店である。ラス・ビハリ・ボーズは孫文と同様に日本に亡命しており大川周明とも交流があった。

 

 東インド会社時代から、イギリス人はインド人に対して、不法、非人道的、弾圧、圧迫、迫害による残忍な行為を行ってきた。そして、インドの政治的、経済的、社会的、知識的生活をことごとく破壊してきたのである。

イギリスの圧政に耐えかねたインド人はインド独立に向け反対運動を起こしたが、イギリスはローラット法案で反対運動を弾圧し始めた。ガンジーはローラット法案反対に立ち上がった、そんな中、1919年4月10日及び13日にダイア将軍率いるイギリス軍によって、無防備なインド人男女、子供を射撃するというアムリトサル広場での虐殺事件が起きた。その後、戒厳令が発せられ、インド人は更なる非情な弾圧を受けることになった。

 参考文献:「インドの叫び」ボーズ・ラスビハリ、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった」安濃豊

2017/11/22に公開