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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-大川周明-「東洋」の概念に疑義あり-(GHQ焚書図書開封 第90回)

2017-09-30 16:50:31 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第90回
-大川周明-「東洋」の概念に疑義あり-
◆第一章 大東亜秩序の歴史的根拠
1.明治維新前夜に孕まれたる大東亜理念
2.明治維新以降における大東亜理念の追求
3.日清・日露兩役の世界史的意義
4.アングロ・サキソンの世界制覇機関としての国際連盟
5.ベルサイユ体制の対日重圧
6.満州事変の世界史的意義
7.支那事変より大東亜戦争へ
◆第二章 大東亜圏の内容と範囲
1.大東亜圏の範囲
2.支那
3.印度
4.東北及び東南亜細亜
5.三国精神の客観化としての大東亜秩序
◆第三章 亜細亜・欧羅巴・日本
1.序説
2.亜細亜と希臘
3.カルタゴと羅馬
4.匈奴と欧羅巴
5.回教徒と欧羅巴
6.蒙古人と欧羅巴

大東亜の概念は幕末につくられた。
大東亜の範囲はパミール高原の東側3つと西側2つの合計5つのブロックに分けられる。
大川周明は、東側3つ(唐、天竺、日本)を大東亜共栄圏と考えていた。
詩人キプリングの「東は東、西は西、天地今のごとくある限り、偉大なる神の審判の日までこの双生児は断じて合わず」は、東洋と西洋の対決を謳っていた。
アングロ・サクソンの精神は、「神は世界支配の権利をイギリスに与えた」「西洋以外の野蛮な、道徳心のない国々は白人に略奪されるためにある」である。
このアングロ・サクソンの優位性は、16世紀後半から20世紀初頭にかけて日本、支那以外の異民族を常勝不敗で支配下においた300年間の短い歴史の中での話である。
この人種差別の観念は、明治時代に日本にきた宣教師G.W.ノックスの日本宗教家に対する「日本人に道徳意識はありや?」の質問にもあらわれてiいる。
また、近年南太平洋でのフランスの核実験に抗議した日本に対して、フランスメディアが「アメリカが日本を甘やかせているために、日本は原爆投下をもって自らの侵略の罪をごまかしてきている。自分たちの受けた国難をもって罪科を償っていると思っている。
日本人は、元来道徳観念がない、罪の認識がない、罪におののくことがない、恥という文化をもっているが、罪の文化をもっていない」と侮蔑の反論をしたことにも根強く残っている。
第二次世界大戦後、戦勝国が敗者の日本に対して浴びせた言葉は、「遅れた文化、封建主義が戦争を起こした」との決めつけであった。それに平伏した日本人の愚かさ。その象徴が石坂洋二郎作「青い山脈」。
戦争を仕掛けた張本人は必要もないのに太平洋に膨張してきたアメリカで、日本はそれに乗せられたのである。
シュタインメッツは、「支那人は比類なき平和の民」といっているが、それは嬾惰(らんだ)な民であり、武を卑しみ戦を嫌う心からでたもので、「好人は兵に当たらず、好鉄は釘を打たず」の諺にあるように科挙制度に支えられた「武人より文官を尊ぶ」儒教思想の結果である。
その支那でさえ、國(旧字のくに)の文字には、一は土地 口は人民 戈は武器でなりたっているとし、國を守るということは、領土、国民を武器をもって守るという意味を持たせている。
大アジア主義の歴史は、征韓論から始まり、玄洋社、黒龍会が生まれ、東亜同文会、南洋教会へと続いていった。
アジア主義を唱えた人に、岡倉天心、植木枝盛、内田良平、犬養毅、頭山満、宮崎滔天、孫文、汪兆銘、チャンドラボウズなどがいる。
東アジア共同体(ASEAN)はEUのように統合できない。
理由は、ヨーロッパはもともと一つのラテン語圏であり、フランス語、ドイツ語などは方言の位置づけであり、アジアとは根本的に違う。
「西洋」という概念はあったが「東洋」という概念はもともとなかった。西洋は、13世紀まで今日のような国家は存在せず、教会が国家の役割を果たしており一つの共同体であった。日本の鎌倉時代の13,14世紀になってフランス、ドイツといった国家らしきものができ、王権政治、戦いを経て近代国家へと変貌していった。日本よりはるかに国家としての歴史は浅いのである。
EUは第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして世界の富の50%を占めた日米経済同盟への脅威から自国を守るための過去の一つの共同体への復古主義への回帰であった。
EUはキリスト教文明共同体であり、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、マルタ島、ポーランドは入っているか、イスラム圏のトルコ、ロシア正教のロシアははいっていない。
世界の共同体は、「不安」と「恐怖」から防衛するために生まれる。東洋の概念は積極的な西洋の概念に対する消極的、受け身的な防衛概念としてあとから生まれた。
日米は戦う運命にあった。それは、ヨーロッパの代表米国のアジアの代表日本に対する挑戦として現れた。
天意か、偶然か、日本とアメリカの国旗は、相対立する「太陽」と「衆星」、「白昼」と「暗夜」を表現していた。
日本VSアメリカは、ペルシャVSギリシャ、カルタゴVSローマ帝国との対立関係に酷似している。

アメリカにとって、最大の敵イギリスを叩き潰すためにスペイン、日本は邪魔だった。
米西戦争に勝利後、アメリカは中国、アフガンを越え、イラクを侵略し、我国の真珠湾攻撃から70年を経た今日、黄昏の時を迎えている。
参考文献:「大東亜秩序建設」大川周明

-大川周明の示す大東亜圏の範囲-(GHQ焚書図書開封 第89回)

2017-09-29 06:16:12 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第89回
-大川周明の示す大東亜圏の範囲-
大川周明は、大アジア主義で、満州建国が支那、日本、満州人を救うという見地から、これを肯定していたが、支那との戦争を望まず、日米戦争も望んでおらず、むしろそれを回避するために努力をしていた。
なぜ、そんな民間人の彼がA級戦犯として起訴されたのかは不明である。
大川周明のいう大東亜の概念は幕末につくられた。

◆大東亜圏の内容と範囲
1.大東亜圏の範囲
2.支那
3.印度
4.東北及び東南亜細亜
5.三国精神の客観化としての大東亜秩序

大東亜圏は、現在のワールドカップサッカーアジア地区の範囲に及ぶ。
大東亜三国は、支那,印度、日本。
戦前の日本はアジアは一つという見方で西洋VS東洋の概念が主流であったが、戦後の日本はアジアは多様化しているので西洋VS日本の認識をもつようになった。
「タテ社会の人間関係」中根千枝、「甘えの構造」土居健郎、「日本人の意識構造」「アーロン収容所」会田雄次、「戦争と日本の風土」「肉食の思想」鯖田豊之、「ヨーロッパの個人主義」西尾幹二などが戦後の日本人論の代表作である。
日本は、ヨーロッパによって植民地化され破壊されてしまったアジア諸国の文化・研究を、欧米(インド学はイギリス、ベトナムはフランス)を通じてしか得ることができなかった。
大川周明は西洋精神が主我的、東洋全体の精神が没我的と言い切っているが、日本独自の良さ(家族的共同体的社会)を東洋全体の良さと誤解していたと思われる。
例えば、支那、韓国は家族を大事にするが、それを共同体的社会(会社、組織など)までには及んでいない。
積極的、攻撃的概念のキリスト文明圏に対して、受け身的、防衛的概念としてのアジア主義が育まれたことは事実である。
しかし、思想家としての大川周明の唱えるアジア主義は、リアリティがなく観念的であった。
参考文献:「大東亜秩序建設」大川周明

大川周明-大東亜秩序の歴史的根拠2(GHQ焚書図書開封 第88回)

2017-09-27 05:32:29 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第88回
大川周明-大東亜秩序の歴史的根拠2
思想家で唯一A級戦犯で起訴され、東京裁判被告席で東條英機の頭を扇子で叩いた高い理想主義者の大川周明。
第一次世界大戦時、ANZACの艦隊をドイツ潜水艦から守るため南太平洋で活躍した日本艦隊。
第一次世界大戦時、地中海で連合国側の商船を守るため犠牲となった日本海軍駆逐艦の将兵が祀られたのマルタ島の慰霊碑。
日本が第一次世界大戦(1914-1918年)で多くの犠牲を伴う地上軍を送っていたら、戦後の欧米人の日本人に対する態度は変わっていたかもしれない。
アメリカが日本を懲らしめるために開かれたワシントン会議(1921-1922年)において山東省の特殊権益を奪われ、アメリカのイギリスへの圧力によって日英同盟が破棄され、軍備縮小を強要されたことなどの不満の蓄積に対する反撃が満州事変(1931年)であった。
さて、この時代に、日本は日露戦争での勝利がロシア革命の引き金になったことや、第一次世界大戦を引き起こす原因になっていたという世界史的意義を自覚していたのであろうか?佐藤信淵の唱えたアジア主義を忘れ、欧米側に歓心を買う方向へと向かっていたのではなかろうか?
ワシントン会議以降、英米寄りの国際秩序に忠実に従った日本政府は、英米から模範的世界市民と褒められた。
この時期、日本の有識者階級は、支那の排日運動に対し、根本的な解決を図らず、抽象的民族主義、感傷的平和主義に走り、アングロサクソンの優越性を認め、英米の下風に甘んじて日本の安全を保つという安易な思想を持った。
これが、日支間問題をこじらせ「排日」から「侮日」そして「抗日」運動に変わる原因ともなった。
南京陥落(1937年)後、戦えば、必ず日本に負け続ける蒋介石が7年間持ちこたえたのは蒋介石の背後にコミンテルンの協力、イギリス資本の協力、ユダヤ資本の協力があったためである。また南京の王政権よりも重慶の蒋政権のほうを支那の民衆が支持していたことという本質を日本が見誤っていたためである。
更に、欧米人に頭を下げるが、日本人にだけは頭を下げたくないという乗り越えられない支那の民族感情(白人崇拝感情と「東夷」として軽蔑していた日本が、アジアの指導者面をしていることに嫌悪感を持っていたこと)を理解せず、欧米に対抗する東亜新秩序を築こうとしたことには無理があったのである。(大川周明は、大東亜秩序建設は第二維新であるとし、佐藤信淵の大アジアを一つにするという大風呂敷を支持していたのである。)
参考文献:「大東亜秩序建設」大川周明

-大川周明-大東亜秩序の歴史的根拠1-(GHQ焚書図書開封 第87回)

2017-09-24 19:52:50 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第87回
-大川周明-大東亜秩序の歴史的根拠1-
回教研究家でコーランの全文を翻訳し、またインド独立運動に参画した「大東亜秩序建設」の著者大川周明。
大東亜秩序の歴史的根拠
1.明治維新前夜に孕まれたる大東亜理念
2.明治維新以降における大東亜理念の追求
3.日清・日露兩役の世界史的意義
4.アングロ・サキソンの世界制覇機関としての国際連盟
5.ベルサイユ体制の対日重圧
6.満州事変の世界史的意義
7.支那事変より大東亜戦争へ
大東亜圏の内容と範囲
1.大東亜圏の範囲
2.支那
3.印度
4.東北及び東南亜細亜
5.三国精神の客観化としての大東亜秩序
亜細亜・欧羅巴・日本
1.序説
2.亜細亜と希臘
3.カルタゴと羅馬
4.匈奴と欧羅巴
5.回教徒と欧羅巴
6.蒙古人と欧羅巴
戦前に比べ、戦後、マッカーサ鎖国に陥った日本人は世界を見る視野が狭くなっている。
幕末の経世家、兵法家の佐藤信淵(さとうのぶひろ)の思想に触れ、日本中心のアジア主義を良しとする思想が、大東亜理念であるとする大川周明。
日清戦争は、ヨーロッパの東亜侵略に対する日本の反撃だった。その後に起きた三国干渉は仏、露、独の日本への復讐だった。
支那の無力と腐敗とを確実に知りえた列強は、今やこの国に対していかなる遠慮の必要も認めなくなった。
イギリスのヤング・ハズバンドは「そもそも支那は土地が広くて物も多い、しかも人の住むに適した温帯に位置している。かくのごとく地域を一民族の専有に委ねておくことは神意に背く」と公言した。
満州及び朝鮮半島のロシア領土化と支那北半分のロシア化と支那南半分のイギリス化による分割統治化を20万の将兵の血であがなって防いだ日露戦争の勝利。
日露戦争後、インド人家庭の神棚には宗教改革者ヴィヴェカーナンダと並んで、明治天皇の写真が飾られるようになった。
一方、キリスト教文明圏に媚びを売り白人側についた支那人の裏切りと、反日という点で白人同士(アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス)間の連帯感が生まれ、支那と白人国家は日本に反逆するようになった。
フランスの哲学者はかく言う「いずれの交戦国も真個の戦争目的を言明しなかった第一次世界大戦。戦争の結果もたらされたのは植民帝国の没落であり、長年隷属していた有色人種を解放しなければならない必然性であった」・・・と。
しかし、国際連盟樹立にあたり、日本が提案した人種差別撤廃決議案はウィルソン大統領率いるアメリカ及びオーストラリア等白人国家により反故にされた。
ただ単に、戦争をやめたいということと、戦勝国の利己的動機でつくられた国際連盟が崩壊に向かう原因は、
①戦勝国が得た利権を永久不変のものとすること
②ドイツを二度と立ち上がれないようにすること
③アングロサクソン(英米)支配の国際秩序を確立するために、有色人種の代表日本を(第二のドイツとして)抑圧することにあった。(この考えは、今日のNPT体制にまで続いているのである)
参考文献:「大東亜秩序建設」大川周明

-今の反日の原点をみる蒋時代の排日-(GHQ焚書図書開封 第86回)

2017-09-11 21:02:56 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第86回
-今の反日の原点をみる蒋時代の排日-
大正8年(1919年)、対華21か条要求への反発を契機に、英米系学校のキリスト教青年会が中心となって排日運動が展開された。一般の学生は、英米から支給される動員費(50銭)を目当てにデモに参加した。ついには、排日商売が出来上がった。
過激な排日新聞、排日教科書が発行され、童謡に、童話に、児童劇にまで反日思想が波及した。この反日教育は江沢民時代まで続いた。
排日運動は、日本と支那が離反することを目的に英米の陰謀によって仕組まれ、その運動費は英米から継続的に支給された(英国は日英同盟の関係から、表には出ず、裏からアメリカ経由で支給した)。宣教師によるキリスト教布教によってキリスト教国家にならなかった日本皇室へのあてつけでもあった。
第一次世界大戦後、米国、日本は若き二大大国になったが、当時、黄禍という言葉が流行った時代でもあり、日本の科学技術と支那の広大な市場とが結びつき(日中連合体ができあがること)、そして、アジアの植民地解放へとつながり、欧米と対峙することを一番恐れていたのである。
米国は、支那に、親英米、排日思想を植え付けるために、数千の学校をつくり、数千人の宣教師を送り込み教育を強化した。その内容は、アメリカの先進性、華やかさ、豊かさ、日本の後進性、貧しさをことさら際立たせる印象操作であった。その反日運動の重要な役割をしたのは欧米の走狗蒋介石であった。
こうして、ABCD包囲網の下地がつくられた。続いて日貨排斥(日本商品ボイコット)と支那商品生産のため日本人職人の引き抜きを実施した。支那によるコピー商品製造、技術者スカウトはこの頃から行われていたのである。
その後、商品ボイコット運動は1期、2期、3期と年を経るごとに激しさを増し、英米資本の東亜独占と支那民族主義がからみついてしまったことが、日本を戦争に駆り出す原因となった。その流れは2つの進路をたどった。一つは満州の漢人化であり、張学良をして満州事変をおこさせた。もう一つは、支那新興財閥と英米資本の合作による商品ボイコットであった。
当初、英米系学校のキリスト教青年会が中心となっていた排日運動は、やがて、大正12年(1923年)になると精神的背景がコミンテルンの運動となり、排日から反帝国主義に変わった。
そこで、英米はうまく立ち回り、自分達に攻撃がこないように反帝国主義運動の矛先を常に日本側に向けさせた。昭和8年(1919年)から始まった反日教育は、子供、女に骨の髄まで反日思想を植え付け、蒋介石国民革命頃には立派な反日の指導者を生むまでに支那社会全般に浸透していた。
1925年に5・30事件(五卅事件・ごそうじけん)、1936年の綏遠事件(すいえんじけん)が発生し、そして、支那事変の発端となる支那共産党軍が日本軍に仕掛けた盧溝橋事件(1937年)が勃発するのである。続いて欧米の走狗蒋介石による第二次上海事変が発生した。
その背後にはソ連コミンテルンとドイツの姿がうごめいていたのである。
参考文献:「支那三十年」長野朗

-大正年間の支那民衆の生活様々-(GHQ焚書図書開封 第85回)

2017-09-01 17:32:15 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第85回
-大正年間の支那民衆の生活様々-
1911年から1941年の30年間にわたり、支那大陸を足で歩き、歴史の粗相を見抜いた長野朗の「支那30年」。
清朝時代には、数100万の満州旗人が4億の漢人を支配していたが、次第に満州人は漢人に同化されて、清朝没落後は日本の維新の武士のように悲惨な生活に陥り、漢人社会では官吏にもなれず、車夫や軍警等になりさがり、徐々に族滅されていった。
1911年の辛亥革命の数年後、国民党、共産党、軍閥の三つ巴の戦いが繰り広げられていた時期は、道路に人糞が散在する不潔な都市・農村生活が営まれていた。当時、支那では戸籍もなく、兵役もなく、旅行をしても宿帳もない、生まれても死んでも届け出の必要もなかった。
1911年から15年間のいわゆる北京政府(蒋介石)時代は日本の大正時代と一致する。
当時の支那は近代化国家の体をなしておらず、法の支配や貨幣の統一、度量衡の統一はなかった。支那を旅行しても、宿屋に風呂はなく、便所もない、二人で泊まっても洗面器は一つしか出さない有様であった。
1917年のロシア革命までは、日本に支那の商品市場を抑えられていた英米。欧州戦争後は、英米の支援によって、また1920年代以降はソビエトコミンテルンによって急激に排日運動が支那全土に拡大していった。
参考文献:「支那三十年」長野朗、「暗黒大陸 中国の真実」ラルフ・タウンゼント
2015/04/22 18:00に公開